青梅線二俣尾 -1966年-


これはまた、とんでもないものを見つけてしまいました。今や三岐鉄道丹生川にある「貨物鉄道博物館」に保存されている「福井鉄道 ホサ1形」が、まだ「国鉄 セサフ1形」だった時代の写真です。家族で奥多摩湖あたりにドライブに行った帰り、道路沿いに見たことのない車両が並んでいるのを見つけ、駆け寄って撮ったような記憶が、ぼんやりとよみがえってきました。貨車といえば「めったやたらと数字が多いナンバー」というイメージがあっただけに、「一ケタのナンバー」というのが、特に強く印象に残っています。福井鉄道への譲渡年月日を考えると、まだぼくは小学生のときですね。カメラはオリンパスペンだと思います。元がハーフ版の上に、ネガの保存状態が悪く(わざわざ撮影に行った鉄道写真はキチンと保存しているが、こういうスナップは、何十年も引出しの中に入れっぱなし)、ごみや汚れがひどいのですが、お許しください。



側線に同型車が3輌並んでいます。手前から「セサフ4」「セサフ1」「セサフ3」。まん中にいるのが、現存のファーストナンバーです。全検切れを前に、廃車前提の休車状態で、常備駅の二俣尾に留置されているところでしょう。検査期限の表記を拡大してみると、期限が41年7月と読め、貨物鉄道博物館の解説資料とも一致します。ということで、昭和41年以前。月日までは断定はできませんが、景色を見ると冬のようですから、昭和40年の暮れから昭和41年の春の間ぐらいでしょうか。


さてお次は、一番手前にいた「セサフ4」のサイドビューです。この車輛は昭和5年製浅野造船所製ということなので、このときは製作後36年。ちなみにこの写真を撮影してから、今年で約40年経っているワケですから、もはやこの後の方が長いんですね。何と申しますやら。手前の土手で、折角のTR20が見えないのが残念。でも、「模型化を考慮して真横を押さえておく」というのは、当時10歳にしてはなんともマセたガキだなあ(笑)。すでにTMSとか読んでたし、その影響なんでしょう。まあ、それで今こうして写真が残っているワケだけど。ホッパ部分は現存しているので実測可能ですから、確かにこの写真から、セサフ時代の図面を起こして模型化できますね。


ホッパ部分は、今も保存車があるのですが、失われてしまった車掌室(というかブレーキ室ですね、実質的に)の部分をアップで見てみましょう。表側、裏側、2カットでご覧ください。圧巻の純木造。当時でも、この「組み木細工」には、時代がかった迫力を感じたものでした。その分、ガキながら、コダわりを持って迫ってますね。けっこう細かいディティールまで読み取れます。しかしこの造形、心なしか天賞堂のエボナイト製16番貨車の「トムフ1」の車掌室を「縦半分」に二つ割りにした姿を連想してしまうのは、ぼくだけでしょうか。それにしても、貫通ブレーキがない頃のヨーロッパで使われた、「ブレーキ小屋つき貨車」を思わせる作りです。大きく張り出した、そこだけ金属製の手ブレーキのカバーがいい味を出してます。


(c)2004 FUJII Yoshihiko


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