「超大衆社会・ニッポン」のメディア


3.私たちの中の「マス」は、「まったり」を求める



【マスとしてのわたし、マニアとしてのわたし】

昭和30年代以降に生まれた、「正しいかどうかは主観的・相対的」と思う世代においては、NEWSセオリーで分析できるように、時と対象、コンテクストによって、対応すべきモードが変わり、自分がよって立つ基準も変化する。かつては、類型論でパーソナリティーを語ることができたが、このようなモードチェンジが頻繁に起きる状況では、各TPO、各モード毎のパーソナリティーを考えなくてはいけない。昨今、表面的な「キャラ」で相手の性格を捉える一方、本人も、特定の集団の中では、つとめて特定の「キャラ」を演じる傾向が強くなっている。これもまた、人間が類型ではなく、時と場合によりモードチェンジがある時代が生み出した状況ということができる。実際、同じ人間でも、違うグループの中では全く異なる「キャラ」を演じることも多く、これはTPOによるモードチェンジとも密接な関係があると考えられる。

基本的には相対立する、純粋消費者の「オタク」と、クリエイターの「おたく」。しかし、鉄道については「おたく」だが、アニメについて「オタク」というように、一人の中でも両面があって当然である。すべての面で「おたく」であったのでは、時間とエネルギーがいくらあっても足りなくなってしまう。「選択と集中」により、私の中でのモードチェンジができるからこそ、本当に好きなことに没入できるのだ。かつては、「木枯し紋次郎」ではないが、類型としてのオルタナティブ型人間というのがいた。このタイプは団塊世代などに見られるが、何に対しても斜に構え、ニヒルに個人としての自分を主張する。しかし、モードで語るのなら、ある領域においてどんなにマニアックだったとしても、別の領域においては極めて迎合的なところがあってもいい。基本的に周りに合わせて生活していても、ある領域においてはコダわりを持っていてもいい。これが矛盾することなく、両立しているのが、昭和30年代以降生まれの特徴である。

多くの局面で「マスとしての私」がまったりしていられるからこそ、「マニアとしての私」に没入するエネルギーとリソースが生まれるのだ。個性あふれるアーティストやクリエーターも、カップ麺が好きとか、意外と没個性な一面も持っているものだ。みんな「夏は花火大会」。みんな「とりあえずビール」。みんな「ぼくもそれ、もう一つお願い」。みんなと一緒は、けっこう楽だし、誰にも気持ち良いものなのだ。

今のF1、M1以降の「オリてる世代」、「格好つけない世代」は、無理せず、自分の好きなものを素直に好きといえるところに特徴がある。かつて「一億総中流」の時代には、上昇指向を持ち、みんな無理して高止まりすることで横並びが生まれ、そこにマスが生まれた。が今は、みんな無理せず降りて一番楽なものを選ぶからこそ、結果的に誰もが同じ横並びになり、そこにマスが生まれてくる。21世紀の「マス」は、ここが違う。ステーキに、パンではなくライス、ナイフフォークではなくお箸、と躊躇なく選べる時代だからこそ、いちばんまったりできるホンネがマスになる。発生メカニズムは全く違うが、ヴォリュームゾーンがあることで、そこにビジネスチャンスが生まれる、ということにおいては全く同じ。まさに、「階層化・みんなでオリれば・恐くない」ということなのだ。

【大衆はテクノロジーを飲み込む】

こと大衆レベルでは、新しい技術や製品が、新しいニーズを生むということはない。あきらめていたものを顕在化させることはあっても、それ以上のものではない。例えば、『ワンセグ携帯』を持っているからといって、観たくない番組を観ることは絶対にない。テレビ機能のスイッチを入れるのは、近くにテレビ受像機がなかったために観られなかったものを観るときか、ヒマでしょうがないので、何か面白い番組でもやっていないかというときだけだ。後者の場合、面白い番組がなければ、スイッチは切られてしまう。ところが、技術者はあまりそういう発想をしない。新しい技術や製品が、新しい需要を生むと考えることが多い。これは重大な勘違いだ。一見新しい商品・サービスが出てくると、新しいニーズが生まれるような気がするが、大衆レベルではそのようなことは絶対にない。潜在的なニーズが顕在化することはあっても、全くないニーズが新たに生まれることはないのだ。この点を踏まえず、取らぬ狸の皮算用となってしまった製品やシステムがなんと多いことか。インフラは変わっても、ユーザーの心は変わらないということを肝に命ずべきである。

そういう意味では、新しい製品がヒットし受け入れられる前提としては、新しい製品により財の性質がシフトするのではなく、先に財の性質がシフトしており、それに合った新たな製品やサービスが登場することが必要となる。電話の大衆化を例に、このプロセスをみてみよう。一般に、耐久消費財や社会インフラは、そのコストやリタラシー等の面から、最初「公共財」として登場し、順次「世帯財」「個人財」とシフトすることにより普及する。テレビが、1950年代に街頭テレビやソバ屋の店頭からはじまり、60年代に個人宅の居間に置かれ、70年代にポータブル化で個室に置かれたプロセスなどはその典型である。電話もまた、「公衆財」「世帯財」「個人財」とシフトして普及した。問題は「世帯財」から「個人財」へのシフトのタイムラグである。巷間語られるように、電話は携帯電話が登場してはじめて個人財になったのではない。すでに電話というサービスが個人財になっていたところに携帯が登場したからこそ、価格の低下と共に、爆発的に携帯電話がヒットした。

団塊世代においては、下宿する学生がまず購入したのはテレビだったが、昭和30年代以降に生まれた世代が大学生になる1970年代半ばには、真っ先に購入するのは電話になる。テレビと電話では、個人財になるのに10年程度のタイムラグがあることになる。特に1978年に加入電話回線の積滞が一掃し、窓口で申し込めばすぐ開通するようになったことで、既存の一戸建て世帯の中でも、個室に2本目を引くことも珍しくなくなる。この事例から「今の40代以下では、初めから電話は個人財」であり、だからこそ携帯ブームが起ったことがわかる。またかつて、会社名義の携帯電話の利用が始まったとき、他人の「社用携帯電話」を取るか取らないが議論になった。団塊世代以上にとっては、もともと電話は公衆財という意識があり「取る」ヒトが多かったが、新人類以下の若い世代は個人財という意識が強く、「取るべきではない」という意見が多かったことも記憶に新しい。これとともに、若い世代では電話におけるコミュニケーションの目的と手段が大きく変化し、上の世代ほど「電話」は「手段」なのが、若い世代ほど「ケータイをいじること」がコミュニケーションの目的化している。もっとも30歳以下では、もはや固定電話を知らない層も現れているのだが。

【大衆がメディアを選ぶ】

猟奇的な殺人事件やワイセツ事件等が起きると、決まって問題にされるのが、ゲームソフトやアダルト向けのヴィデオソフト、あるいはマニアックなインターネットサイトの影響である。しかし、本当に事件の責任は、それらのメディアやコンテンツにあるのだろうか。そもそもコンテンツは、大衆に対し何かを教唆するような影響力を持っていない。このような論調は、あきらかにメディアやコンテンツに対して「買い被り過ぎ」なのだ。たとえば、ホモセクシュアルに関するコンテンツを考えてみよう。ホモセクシュアル関係のコンテンツは、ヴィデオや雑誌をはじめ、昔からたくさんあるし、インターネットのサイトも盛んだ。さらに、広義のメディアを考えれば、そういう嗜好を持った人たちが多く集まる店や街もある。では、考えてもらいたい。こういう情報の氾濫が、ホモセクシュアル人口を増やしているのだろうか。もちろん、一人で悶々と悩んでいたヒトが、世の中には同じ嗜好を持ったヒトがいることに勇気付けられ、堂々とカミングアウトする、ということはあるかもしれない。しかし、これは潜在人口が顕在化しただけである。そもそもノンケな男性が、情報に触れることによって「開眼」し、新たに「その道」に萌えだす、ということはあり得ない。それ以前に、そのケのない男性が、そういうコンテンツに喜んで接すること自体あり得ないではないか。コンテンツの影響力など、この程度のものなのだ。

さて、こういう論調をしたがる「識者」は、決まって団塊世代以上か、あるいはそれと同種のメンタリティーを持った人々である。こういう発想をする裏には、メディアリテラシーの違いがある。すでに述べたように、日本社会においては、昭和20年代以前生まれの層と、昭和30年代以降に生まれた層で「自分にとってのメディアやコンテンツの意味」が決定的に異なる。団塊世代が代表的とも言える、昭和20年代以前生まれの層は、そもそも世の中に「正義」や「真実」を代表する軸が存在すると信じており、メディアやコンテンツを、その「軸」を具現化するものとして捉えている。まさに、メディアが言うことが「正しい軸」なのだ。「外部の価値観を「拠り所」として、自己を正当化する」にあたって、メディアは「正義」や「真実」の基準になる。だからこの世代は、無類の「情報好き」だ。基本的にメディアを信じ、情報とあれば集めて受け入れ、自分の行動の基準にする。

一方、新人類世代以降の世代においては、自分に都合のいい情報は、自分の「正義」や「真実」を補強するものとして受け入れるが、自分の主観にとって都合の悪い情報は、無視して触れないようにする。このように、昭和30年代以降に生まれた層においては、そもそも興味のない情報にアクセスすることはあり得ない。そういうコンテンツが世の中にあるからといって、興味がなければ、一生触れることはない。これでは、いくらドギツくエゲツないコンテンツがあったとしても、そもそもそのジャンルに興味のない人間がそれを見ることはなく、影響を与えることもありえない。まさに、これは、もう一つの「2007年問題」だった。メディアに載ったり、コンテンツになったりしたというだけで、社会的影響力を感じるという、団塊的メンタリティーを持った層は、社会の一線からリタイアしてしまう。これからの社会を動かすのは、「正義」や「真実」を「主観」で語る層だ。

【大衆は「操作」できない】

言論界や学界(あえてこういう表現をとるが)に属する人たちが、大衆とメディアをめぐる議論になると、決って語るのが「メディアが大衆の世論を操作する」ということである。では、ほんとうに大衆とは「操作できる」ものなのか。コンテンツ業界や広告業界で仕事をしているヒトなら、これがそんな簡単なハナシではないことは身にしみてわかっているだろう。それができたなら、「ヒット」は簡単なはずだが、そうは問屋がおろさないのが大衆なのだ。たとえば、テレビの番組について考えてみればいい。視聴者にアクセスできるという意味では、各チャンネルとも条件は一緒だ。東京では、ネットワークの地上波でも7つのチャンネルがあるので、少なくともこの7つの番組は、同じように視聴者に「訴える」コトができるハズだ。大衆にアクセスできれば世論が操作でき支持されるのなら、7つが7つ、どれも同じようにヒットするはずだ。だがこの中で、ヒットするのはひとつかふたつ。あとは低視聴率で打ち切られてしまうのが現実ではないか。

このように、いかに大量に情報のシャワーを降らしたところで、それが即、世論になることはない。インフラやメディアは「手段」にこそなれ、それがあるだけで世論を操作したり、ヒットをしたりできるわけではない。大事なのは、コンテンツ、中身なのだ。中身が大衆の心と共鳴してはじめて、ヒットする。これは裏返せば、人々の心に、情報の中身をあわせない限り、世論の操作などできるワケがないということになる。ある程度、送り手の側にいる人間なら、コンテンツの競争の激しさはイヤというほど知っているだろう。現場の第一線で熾烈な視聴率競争をしている人間は、そんな「メディアの神話」などハナから信じていない。もっとも、現場から遠ざかってしまった一部の放送局トップなら、未だに勘違いしている可能性もあるが。その反対に、一般「大衆」の中には、メディアや権力による「情報操作」が可能と信じている傾向がある。それは、大衆一人一人が、自分の中に価値基準がなく、廻りの人間が何をやっているかを過度に気にしているがゆえの思い込みだろう。

確かに、一人一人については、その通りだろう。「みんながやっている」と言われれば、気になって自分もやってしまう。しかし、大衆の本質は、そういう「1対n」の関係にあるのではない。大衆に属する個人がそれぞれ、インタラクションを持っているところにある。まさに「n対n」の関係が形作られている点だ。大衆は、「みんながみんな、「となりの芝は青い」とばかりに、相互に気にし合う状態」になっている。これが、ある種、大衆が「群衆」として、自律的に動き出す理由でもある。

渡り鳥は、群れをなして海を渡る。しかし、そこにはリーダーはいないという。それでは、どうしてあれだけ見事な隊列を組み、決まったルートをとって目的地へといけるのか。それは、一匹一匹が、「営巣地に渡りたい」という本能を持っていることと、となりの鳥が飛んでいると、それにあわせて一定の間隔をとって飛ぶという条件反射をすることに帰される。この二つのプログラムを組み合わせるだけで、一見整然とした群れができるのだ。実は、大衆が全体としてある行動をとるのも、楽しいことをしたい欲望と、周りに合わせる条件反射の組合せという、これと全く同じメカニズムなのだ。

【「21世紀のマス」をつかむカギ】

このように、21世紀の大衆が大衆となる紐帯は、極めて脆弱なものである。近代産業社会が生み出した、階級の崩壊、アイデンティティーや帰属意識の喪失はゆきつくところまでゆきついた。かくして、大衆は、自らのアイデンティティーに代るものとして、大言壮語や誇大妄想的ヴィジョンを渇望するようになる。「それが、荒唐無稽であっても、実現不可能であっても、まさに「みんなで信じれば恐くない」し、そういうぶっ飛んだものだからこそ、みんなで熱狂的に信じれるのだ。群集が一つの集団であるためには、何らかの「よりどころ」かコンセンサスが必要である。そのヴィジョンが、まさに大衆の「琴線」である。これを踏まえない限り、どんなカリスマ的指導者が、口当たりがよく壮大なヴィジョンを示しても、共感を呼ぶことはできず、パワーを発揮できない。

一見逆説的ではあるが、自立した個人の集団の方が、その集団の外側にいる人間が甘言で「操作」し、集団を動かすコトは容易である。それは、自立した個人は、自分が納得しさえすれば動くからだ。学者の学説などが典型的だが、ロジカルに行動する人たちは、外側からロジカルに動かしやすいのだ。理系ほどその傾向は強いが、充分に説得力のある論理で説明されれば、納得し、趣旨替えすることも珍しくはない。あたかも、天動説を信じていた学者の間に、だんだんと地動説が受け入れられたように。しかし、大衆はそうはいかない。大衆一人一人は、それぞれ自分の相似形としての「隣の人」との比較を通してしか、自己認識ができないからだ。また、自分一人で、自己の行動を決定できるワケでもない。常に、「その判断の結果、他人が自分をどう思うか」ということを、過剰に気にするからだ。一般的な男のコが、自分の好みの女性について語るとき、そこに誰か他人がいると、自分が本当に好きなタイプではなく、一般に「いい女」「美人」と呼ばれているタイプが好きだといってしまうようなものだ。

つまり、大衆は、その集団全体の「規定値」として、共有されているものしか規範とできないのだ。そして、その共有された「規定値」は、創発的に生まれてきたものだけに、アン・コントローラブルなものである。そうであるなら、大衆のカリスマ的リーダーに求められる能力とは、とりもなおさず、この「規定値として共有されている規範」を見ぬく力である。もちろん、アジテーターとしての実力とか、ヒトを引きつけるインパクトとかは、カリスマたる前提条件としては必要だ。しかし、カリスマ的リーダーとなるには、その主張そのものがリーダーのオリジナルではダメなのだ。自分勝手な主張では、大衆は誰も聞こうとはしない。これはまさに、ヒットの構図と同じ。ヒットには黄金律はないし、「仕掛け」もできない。人々が意識下に持っている渇望感。これを見抜き、実現することが、ヒットのカギなのだ。そのポイントは、相互に相手の行動を気にしている大衆同士が、ヒトに出しぬかれたときに一番「やられた」意識が強くなり、自分もなんとか追いつこう、とヤッキになるのは何かを知るコトだ。隣のヒトが手に入れてしまったときに、となりの芝が一番青く見えるもの。これこそがヒットのカギであり、大衆を動かす秘伝だ。そしてそのカギは、どこまでいっても大衆の潜在意識の中にしかないのだ。





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