「超大衆社会・ニッポン」のメディア


5. プロレス化するニッポン社会



【テレビがプロレスを生み、プロレスがテレビを育てた】

そもそも、プロレスは一番テレビ的なコンテンツである。テレビがなければ、プロレスは今のような隆盛を迎えることはなかった。また、テレビ創成期には、プロレスはまさにキラーコンテンツだった。そのルーツからして、このような相思相愛の共犯関係がビルトインされていただけに、「マスメディアとは何か」を考えるには、まずプロレスに着目する必要がある。ジャーナリズムからでは、マスメディアの本質は語れない。アカデミックなメディア論の限界はここにある。大衆とメディアの関係の本質は、何よりプロレスにある。

プロレスがプロフェッショナルのレスリングではなく、「プロレス」という独自性を持ち得た裏には、テレビ中継を行うことが大きい役割を果たした。観客席にいる観衆だけでなく、テレビの向こうの視聴者の存在を意識することで、プロレスはスポーツ興行からエンターテイメントとしてのスポーツショーになれたのだ。中高年の男性なら、かつてゴールデンタイムに放映されていたプロレス中継の冒頭に、スポーツアナが叫ぶ「全国1000万のプロレスファンの皆さん、こんばんは」、というMCを覚えているだろう。まさにプロレスは、テレビを通して全国のプロレスファンとつながっていたからこそ、ビッグになったのだ。

そして、ブラウン管の向こうのプロレスファンとしての大衆が、レスラーや興業主の思惑を超えて「プロレス」を作っていったことも見逃せない。力道山はアメリカでの経験から、プロレスにおけるテレビの重要性を認識していた。しかし、その捉え方は、あくまでも「アリーナを拡大するもの」であり、今風にいえば何百万人も観客の入る「バーチャルなスタジアム」というものであった。確かに、テレビ放送初期の頃、街頭テレビでプロレス中継を観戦した人々は、文字通りアリーナの延長としての観客だったろう。しかし、視聴者はもっと先に進んでいた。プロレス中継を見てショック死した老人が出る頃には、視聴者にとってプロレスは、「お茶の間で見るエンターテイメント」へと進化したのだ。

そういう意味では、無自覚的にではあるが、はじめて「視聴者の存在を意識した」のが猪木である。もっと正確にいえば、猪木が本能的に行った行動を、会場の観衆以上に、テレビの視聴者が的確に受けとめ反応する。そのリアクションに、また猪木が反応し、フィードバックがかかる。この連鎖反応が拡大し、80年代初期の新日本プロレス黄金時代を生み出した。「こんばんは」が流行語になり人気を博したラッシャー木村も、観客ではなく、テレビカメラを見てマイクを持っていた。この時代では、「視聴者こそ顧客」という視点は完全に定着した。

しかし、バブルからバブル崩壊に至る流れの中、大衆は「大衆貴族」へと進化した。だが日本のプロレスは、この変化について行けなかった。各団体やレスラーが、荒波の中で自己保身のための縮小再生産に汲々としている中、戦略的にこの構図を活かしたマーケティングで大躍進したのが、ビンス・マクマホンJr.のWWEに代表される90年代のアメリカンプロレスである。最後に、大衆貴族の嗜好を代表するプロレスという視点を通して、メディアと大衆との共生関係について見ていきたい。

【オリる若者の、オリる哲学】

今、M1、F1以降の若者の特徴としては、なにより「人生を、早いうちからオリてしまっている」点があげられるだろう。昨今、どうせフリーター以上にはなれないからと、タトゥーを入れ、かつては「常識」とされていた社会生活のパターンから距離を置いて生きている若者が増えている。こういう行動は、自分の持っている才能と可能性を見切ってしまっているがゆえのコトである。これは、世の中の情報化が進むとともに、自分が社会の中でどれほどのものか、イヤでもキチンと見えてしまうようになったから起った現象に他ならない。また定職につかない若者の多くが、「自分探し」という「見果てぬ夢」に没頭している。これも、現実的なストーリーや自分に与えられたシナリオがわかってしまっているため、せめて夢の中ではそこから逃れたいというのが理由になっている。

高度成長期以降、各時代の少年や若者の意識を見てゆけば、世の中の理解や認識がクールで精緻になってきた流れを見てとれる。60年代の少年といえば、「巨人の星」である。巨人の星の特徴は、「なせばなる」という努力主義、根性主義にある。まさに、ハングリー精神さえ持ちつづければ、いつかは「成り上がる」チャンスがやってくる、というのが、時代の精神だった。これに対し、70年代後半から80年代前半の少年は、カウンターカルチャー指向である。メジャー文化や社会に対し、ニヒルでアナーキーな態度を取ることで、オルタナティブなタコツボに篭る。前時代的なメジャー感の波間に漂う、ニッチなタコツボ、というのが、この時代の若者であった。しかし、80年代も半ばになると、こと若者文化においては、この構図のままメジャーとニッチが大逆転を起す。パンク的なバンドがファッションとしてメジャー化してしまったのは、その顕著な例といえよう。

これは、それまでの文化発生の構図を大きく変えた。ここに至って、送り手と受け手は、生産者と消費者という構造的な違いではなく、努力では越えられない才能の違いとなった。この時代を代表するのが、今の「サッカー少年」だろう。Jリーグを頂点とする、今の日本のサッカー界は、90年代に入ってから構築されたものだけに、プロもアマもリニアで、全体の中でのランキングが明確である。サッカー少年であれば、自分の世代の中で自分の実力がどのくらいのものか、すぐにわかる。それはとりもなおさず、自分のサッカー選手としての将来的な可能性もわかってしまうことを意味する。才能の差があって、努力されたんじゃ、誰もかなわないし、誰もそれに棹は刺さない。

ある意味、今の日本社会は極めて実力主義なのだが、それは結果論として、チャンスを活かせるヒトは、才能がありかつ努力もしているヒトに限られることを意味する。言い方を変えれば、世の中のシナリオは変えられない、ということが読めてしまっているということだ。世の中がリニアになり、相手と自分の差がはっきりわかる以上、無駄な努力をするより、オリてしまったほうが余程効率的だ。オリる哲学とは「この世は全てワーク(筋書きの決まった試合)、シュート(真剣勝負)じゃやってけない」と悟ることである。これは、努力すれば出世できる、金持ちになれる、という煩悩からの「解脱」を意味するのだ。

【リアルとバーチャル】

1980年代の「ニューメディアブーム」以来、バズワードの流行は、狼少年のごとく 何度繰り返されたことかわからない。重要なのは、大衆貴族からみれば、新しいものと古いものとの間には、何ら垣根がないということである。「リアルとヴァーチャル」の間に断層はなく、リニアにつながった一つの世界なのだ。その意味を理解するためには、実はネットなどヴァーチャルな世界の方が、閉じた守られた世界であることを知る必要がある。多くのヒトが勘違いしているのだが、ヴァーチャルな世界では「圧勝」していても、実は井の中の蛙であり、ヴァーチャルな領域でしかしか勝ち目のない「勝ち組」も多い。そういう人たちにとっては、リアルとヴァーチャルの間に敷居のある状況は、「既得権」なのだ。

かつて初期のインターネットでは、ビジネスそのものより技術面での参入障壁が大きく、リアルビジネスをしているものからすると、かかるコストと得られる収益とがつりあわないことも多かった。今でも、ネットビジネスが隆盛を極めている領域と、それほどでない領域と、くっきりと色分けができているし、隆盛を極めていない領域の方が余程巨大である。したがって、ヴァーチャルな世界では、未だ真の強豪が参加していない領域が多い。

技術が進めば、リアルでビジネスができるヒトなら、誰でもヴァーチャルでビジネスができるようになる。垣根も、参入障壁もなくなるのだ。こうなると、真のチャンピオン決定戦が行われることになる。外野の評論家が何といおうと、当事者は、自分の実力をよく解っている。果たして、リアルなビジネスでもワザは通じるのか。結局は、ヴァーチャルな世界でしか通用しないのか。巷の議論は、ヴァーチャルな世界の既得権を守りたい側が、先んじてブラフをかけているようなものである。

さて、ビジネスにおいて「リアルとヴァーチャルの垣根」がない時代は、また、コンテンツに関して「リアルとフェイク」の垣根がない時代でもある。垣根を残したい「ヴァーチャル界の既得権者」は、この問題でもまた、「リアルかフェイクか」という「正しい・正しくない」の議論に持ち込みたがる。しかし、ことこの問題に関しては、リアルな世界の方が先に、「面白い・面白くない」しか通用しない事態になっている。その画面が「マジ」なのか、「ヤラセ」なのか問うことは、まったりとしたエンターテイメントについては、全く意味がない。マジでもヤラセでも、どちらでもいい。画面としては等価であり、評価する基準は、「面白いかどうか」いう一点だけである。

「ヤラセ」だって、面白ければそれでいいのだ。だからこそ、アメリカンプロレスは、エンターテイメントの王者となれた。結末がわかっていたら楽しめない、とするなら、なんで映画があんなに客を呼べるのか説明できない。ヒット映画は皆、ハラハラドキドキ、波乱万丈はあるものの、最終的に勧善懲悪で、苦労の末ヒーローが勝ち残るストーリーではないか。やってみなきゃストーリーが解らないゲームより、最初から結末は解っている映画のほうが、圧倒的にサーキュレーションが多いのはなぜか考えてみよう。もっとも、そのゲームも最近は「予定調和」なモノが多いのも確かなのだが。


【マーク・シュマーク・スマート】

古くから、プロレスのファンは3つのタイプに分類されてきた。「マーク」とは、最も数が多い一般大衆のファンでのことある。深く考えずに、単純にエンターテイメントとして楽しんでくれる層であり、興業に来場し、テレビ中継の視聴者となってくれる、ビジネスとしてのプロレスを実際に支えている層である。そういう意味では、マーケティングでターゲットと呼ぶのと同じように、ビジネス対象として意識しているという意味で「マーク」されてるためにこう呼ばれている。そういう意味では、われわれが今考えている「大衆貴族」というポジショニングともオーバーラップする。映画でもスポーツでもテーマパークでも、大ヒットし大成功を収めるためには、この層の動員がカギになるのは同じであり、ことプロレス特有のものとはいえない。

一方「スマート」とは、ある意味「セミプロ」のファンである。プロレス関係者同様の知識と情報を持ち、内部の視線からプロレスを楽しんでしまう層である。プロレスは、単純なスポーツではなく、エンタテイメントなので、ここでいうセミプロも、スポーツでいうセミプロではなく、エンタテイメント界でのセミプロに近い。最近では大学生などの「アマチュアプロレス」もあるが、ここでいうセミプロのプロは、必ずしもプレイヤーという意味ではなく、業界人というニュアンスに近い。学生劇団の脚本家や演出家、インディーズバンドの作詞・作曲家、コミケで同人コミックスを売りまくる漫画家、という意味でのセミプロである。こういう人材が、各々の領域でのプロの登竜門になっているのと同様、アメリカでは「スマート」が嵩じて、プロレス関係者になってしまう人材も多いと聞く。これもまた、必ずしもプロレス特有の存在ではない。

逆にプロレス特有であるとともに、いろいろな面で問題の元凶ともなっているのが「シュマーク」である。シュマークとはスマートとマークの造語であることからもわかるように、この両者の中間の層、濃いファンというか、日本的に言うならば「プロレスオタク」である。この層は自己認識としては「熱烈なマニア」なのだが、いかんせん思い込みが強すぎて、全体の大きな構図を見られない。したがって、ビジネスをする側からすると、極めて与しやすいターゲットということになる。しかし、狙いやすいからといって、シュマークの喜びそうなことばかりやると、今度はヴォリュームゾーンが離反してしまう。

こと日本においては、60年代以降、このシュマーク層が異様に厚いのが、ファン構成上の特徴であった。そもそも日本では、こういう「部分最適は極めて得意だが、全体最適はからきしダメ」というタイプの人間は、プロレスに限らずあらゆる分野で非常に多い。良きにつけ悪しきにつけ、こういう「部分最適の王者」が多く、何事につけその発言権が強かったというのが、俗にいわれる「40年体制」や、戦後の日本の社会の特徴だったともいえる。このため、日本においてはバブル期以降、極端に「シュマーク」に特化したプロレスに「進化」してしまった。それは大衆からの遊離を意味する。かくして、オタクだけを対象とするようになったプロレスは、各興業こそ客が入るものの、テレビのゴールデンタイムからは、いつのまにか居場所を失う結果となってしまった。

【メディアをめぐる三層構造】

マーク・シュマーク・スマートは、プロレスファンの三層構造を示しているが、実は同様の三層構造は、マスメディアの周辺では必ず見られる構造である。それはこの三層が、一般視聴者も含めた、メディア周辺の登場人物の三つの立ち位置を象徴しているからである。一番解りやすいのは、「マーク」に相当する存在である。プロレスの「マーク」がそうであったように、これは「視聴者としての大衆」のスタンスである。面白ければ大ウケして沸くし、つまらなければブーイングか、あるいはあっさりとスイッチを切るかである。極めて受動的ではあるが、実はメディアの生死を握っている、もっとも重要な存在である。

次に普遍性があるのは、「スマート」に相当する存在である。メディアが成り立つためにはコンテンツが不可欠だが、これはその「コンテンツのクリエイター」というスタンスである。クリエイターは、天賦の才能を持ち、観客がいようがいまいが、呼吸するかのごとくにコンテンツを「生み出して」しまう。このヒトたちは、視聴者を意識せずにコンテンツを創り出すのだが、それが結果的に大衆に「ウケて」いるのだ。もっとも、大衆にウケないまま、「芸術家」として認められる場合もあるが。

さて、問題はやはり「シュマーク」である。これは、マスメディア周辺に必ず存在する、批評家・解説者というスタンスに相当する。クリエイターの立ち位置は、「天動説」であり、常に明確だ。大衆も、「好き・嫌い」という意思を持っている分、受動的とはいっても明確な立ち位置がある。しかし、批評家・解説者は、自分独自の立ち位置を持っていない。あくまでも、その批評や解説の対象としての、クリエイターや大衆に寄生する形でしか存在し得ないからだ。そしてまた、困ったことにマスメディアにおいては、この「シュマーク」的な存在が極めて肥大化しているのだ。

マスメディア・コンテンツ関連の人々は、この三つのスタンスのいずれかに擬した形で、メディアと関わることになる。いくつかの例をみてみよう。司会者やキャスターは、そのスタンスが解りやすい。まず「スマート」的に、自分のスタンスを持って番組を引っ張っていく、タレント的司会者がいる。このタイプとしては、かつてニュースステーションで一斉を風靡した久米宏が代表的だ。それに比べるとスケールは小さいが、テレビ朝日やじうまテレビの吉澤一彦アナなど、局アナ出身のベテランキャスターにはこのタイプが多い。それは、テレビが持つキャスターから視聴者への「個対個」の語り口を、経験的に会得しているためと思われる。次に「シュマーク」的に、事件の当事者なり、それに対する傍観者としての大衆なりを批評することにアイデンティティーをおく、ジャーナリスト的司会者がいる。このタイプとしては、鳥越俊太郎や筑紫哲也といった活字出身者がそうだった。新聞においては、「論説」など、あくまでも評論家的視点をとることが多いためだろう。最後に、常に大衆の気分の代弁者たる「マーク」的な司会者。この代表としては、なんといってもみのもんただろう。ある種、「マーク」的な司会者がもてはやされるようになってきたところに、超大衆社会が現実のものとなっていることを感じることができる。さて、司会者において特徴的なのは、古館伊知郎だ。スポーツアナとしては、唯一無二の古館節として、完全に「スマート」的なスタンスなのに対し、報道ステーションにおいては、かなり「シュマーク」的なスタンスを取っている。このあたりは、まさにプロレスアナとして、この三層構造を身を持って感じ取っていたからだろうか。

【コンテンツの進化?退化?】

マスメディア・コンテンツに関して、この三つのスタンスは常に現れてくるが、特に問題となるのがコンテンツに関する場合である。「スマート狙いのコンテンツ」と「シュマーク狙いのコンテンツ」、「マーク狙いのコンテンツ」は、明らかにその構造やビジネスモデルが異なるからだ。まず、コンテンツ制作者が取るスタンスと、作られるコンテンツの関係を見てみよう。

「スマート」狙い制作者の代表といえば、黒澤明監督のような巨匠の映画監督だろう。基本的に、業界にウケることでそのネームバリューを確立する。ビッグネームになれば、自分の作品というだけで客が呼べるし、資金も集まる。たまには興行的にコケる作品もあるかもしれないが、それも「芸術性が深い」ということで評価されてしまったりする。基本的に、自分の信念だけで作品を作る。

「シュマーク」狙いな制作者といえば、伊丹十三監督が代表的だろう。映画評論家や映画マニアが嵩じて作品を作ってしまう、というようなときは、このタイプになることが多い。ウマく当ると、マニアックでカルト的な「伝説の名作」になることもあるが、映像以上に自分の作品を「解説」してしまう監督も多い。パロディーやオマージュ、凝り過ぎの伏線や複雑な設定で、難解な作品を作るのも、またこのタイプだ。

一方「マーク」狙いな制作者というのは、映画の分野ではほとんどいない。しかし、最近のテレビ界では最ももてはやされているタイプということもできる。クイズやバラエティーのユニークな企画でヒットを連発した日本テレビ土屋敏男プロデューサーなどが、さしずめその代表格だろう。この手のヒット番組は、オンエア時の視聴率は取るが、パッケージコンテンツとしてのマルチユースは思いのほか厳しい。そこがまさに、「マーク」的な視点で作られたコンテンツこそ「まったりとしたエンターテイメント」である証しだ。

また、これはもともとプロレスに構造が近いが、お笑い芸人にも、この三つのタイプがある。「スマート」的芸人は、落語家が代表的である。林家正蔵のようにタレント的活動をするヒトでも、古典落語のように、ピンで自分の世界に観客をひきこめるからこそ、芸人としてのバリューが生まれる。「シュマーク」的な芸人は、ダウンタウンなど関西のベテラン芸人が代表だろう。なにかカラむ相手があり、シチュエーションがあればいくらでもネタを出せるが、徒手空拳で笑いを呼ぶのは決して得意ではない。「マーク」的な芸人は、最近多い、限りなく素人に近い芸人である。等身大の自分をいじられて笑いをとるこのタイプの芸人は、演技をするワケではないので、ネタを切り出して構成する「演出プロデューサー」が不可欠である。こういう演出プロデューサーなら、何も芸人でなくても、純粋な素人でもウケを取ることは可能である。実はプロレスにおいては、この演出プロデューサーは「ブッカー」とよばれ、非常に重要な存在である。ブッカーは、プロレスの試合の勝敗・ストーリー・展開を組み立てる最高責任者だ。いわば監督であり、脚本家であり、演出家であり、プロデューサーでもある。そして「マーク」が一番喜ぶ視点から、マッチメイクができるかどうかが、その評価の基準となっているのだ。

【一億総「シュマーク」の幻想】

団塊の世代といえば、バブル期に課長クラスの働き盛りを迎えたわけだが、そのメンタリティー自体がバブルを招いたともいえる。団塊世代のエネルギー源は、「バスに乗り遅れるな」という強迫観念である。この「競争していないと安心できない」強迫観念が、おりからの右肩上がりの高度成長ともあいまって、常に「他人に負けていない」というチェックリストを気にしつつ生活する生き方を生み出した。彼らが競争好きなのは、常に左右を見、周りを見て、その中での自分のポジションを確認したいからである。自分の外側にリファレンスがないと安心できないが、都会の核家族生活では、ネイティブなリファレンスがなく、おいおい「同じような暮し向きの人達」を見比べることになる。「となりの芝は青い」ことを気にし、「となりと横並び」なことで安心するのだ。教育熱心なのも、そこから生まれる成果への期待ではなく、教育自体が自己目的化し、「隣りの芝」と同じ強迫要因となっているからである。

そもそも近代日本では、偏差値指向・秀才指向が強かったが、そのクライマックスといえるのも団塊世代である。いい学校を出れば、いい会社に入れて、エスカレーター式に出世できる。これはある種の幻想だが、偶然にも高度成長期という「運」に恵まれたこともあり、その夢を現実化できた唯一の世代でもある。画一的な価値観である学歴や肩書き、家や車で象徴される物質的な競争を繰り広げる中、強力な上昇指向が、この世代の求心力となっていたのだ。それが嵩じて、スポーツや映画といったエンターテイメントについても、いろいろと薀蓄を語りたがる。そして、そういう「理屈っぽい楽しみ方」の方に格好良さを感じ、求心力が働いてしまうのだ。

団塊世代の男性には、まだプロ野球ファンも多いが、この世代が居酒屋で繰り広げる野球談義を聞けばわかるように、極めて評論家的にあれこれ語りまくる。どこまでいっても、説明や理屈がついてまわる。そして日本のプロレスもまた、まさにこの世代とともに育ってきた。当然、能弁に理屈や薀蓄を語る評論家的な見方が、正当で格調のある(これ自体極めて団塊的な表現だが)ファンの見方ということにされた。これが、「シュマーク」層が極めて多いという、歪んだプロレスファンを生み出した理由である。シュマークとは所詮「通ブッている」であり、けっして「通」ではない。そう考えると、一層プロレスが日本社会の縮図に見えてくるではないか。

日本の80年代・90年代は、「客観的・絶対的な正しさ」を信じていた、団塊世代的な価値観を持つ社会から、「主観的・相対的な正しさ」しか認めない新人類以降の世代的な価値観を持つ社会への転換期であった。だからこそ、この時代はプロレスの転換期でもあった。大衆に無条件にウケるネタを、天性の才能で無自覚的に出せる稀有な天才、アントニオ猪木は、それまでのような「シュマーク」ウケではなく「マーク」ウケを取れるプロレスを創発的に生み出した。しかし、それは彼の天才性に依存していたがゆえに、継承不可能であった。そして、日本のプロレスはまた「シュマーク」ウケに戻ってしまう一方で、アメリカではWWEが一斉を風靡しだすのだ。

【エンターテイメントの権化としてのWWE】

エンターテイメントの世界は、そもそも「正しい・正しくない」という議論がなじまない領域である。そこでの価値観は、面白いか、楽しいか、だけである。面白ければマジでもヤラせでも、そんなことはどちらでも良い。誰も「ディズニーランドはフェイクだ」と、目くじらを立てないようなものだ(とはいえ、他のテーマパークとは違い、ディズニーランドの汽車は、本当に蒸気で走っているのだが)。そういう意味では、ことエンターテイメントの領域においては、アメリカの「超大衆社会」性は際立っているといえよう。

そんなアメリカで、エンターテイメントの集大成として登場したのが、ビンス・マクマホンJr.の率いるWWF改めWWE(ワールド・レスリング・エンターテイメント)である。1990年代後半からその業容を急激に拡げ、1999年にIPOを果たしたWWE。その成功のカギは、社名にエンターテイメントとうたっているように、プロレスをスポーツエンターテイメントショーとし、徹底して「マーク」のお客さんを喜ばすコンテンツ作りを目指したところにある。こう割り切ることで、映画をはじめ、テレビ番組、ゲームソフトなど、あらゆるエンターテイメントコンテンツから「ウケる要素」を取り入れ、アメリカの大衆なら誰でも大喜びするコンテンツを作り上げた。それは単にストーリーや展開だけでなく、映像作りや構成、猫ダマしのシカケやギミックまでに及ぶ。だから、見始めたらつい見てしまうし、わかっていてもやっぱり面白いものになっている。これこそまさに、「大衆貴族」に奉仕する「奴隷」のカガミといえるだろう。

さてひるがえって、日本でこれに匹敵するような、徹底して「マーク」に狙いを定めたスポーツエンターテイメントショーはないのか、と過去を振り返ると、思わぬものが俎上に引っかかってくる。忘れもしない、2006年8月2日に行われた、WBAライトフライ級タイトルマッチ、亀田興毅対ファン・ランダエタ戦である。このコンテンツがいかに大衆ウケしたかについては、まだ記憶に残っているとは思うが、その42.4%という世帯視聴率を上げれば充分だろう。このように大衆の多くは、スポーツ・エンターテイメントとして、このコンテンツを面白がったコトは間違いない。

さて、問題はその後に繰り広げられた、亀田戦をめぐる議論である。試合の展開や判定について、八百長だ疑惑だと異議をさしはさむ一連の人達がいる。そう、彼らは「シュマーク」なのだ。自分たちの脳内に「ボクシングはかくあるべし」という思い込みの強い世界を作り、それとの対比でしか語ることができない。こういう方々からすると、試合に至るまでのテレビ局による「盛り上げ」や亀田選手の態度や言動も、ヤラセの方棒を担ぐ、ということで「批判」の対象になってしまうらしい。

同様の構造は、2007年に沸き起こった、捏造報道、ヤラセ報道の問題でも同じである。一部の識者こそ倫理的、道義的問題として追及した。しかし、一般大衆、それも若い層ほど問題視する意見は少ない。実際、電通総研の調査データによると、20代においては七割以上が、「テレビは真実を伝えるものでなくていい」と思っている。大衆にとって大事なのは、ここでも真実とかガチンコとかいうことより、八百長でもヤラセでも、面白いもののほうが価値があるということなのだ。このように、まさに00年代の中盤に、大きな価値観の転換があったのだ。

このように、マスメディアにとって最も大切なのは、「大衆が面白いと思ってくれるかどうか」である。このエンターテイメントの本質を忘れて、メディアコンテンツは語れないのだ。昨今、プロ野球中継の視聴率が低迷している。これも、大リーグやWBCの盛りあがりをみれば、野球そのものの地位低下というより、「シュマーク」相手のコンテンツ作りの問題ではないか。ならいっそ、バラエティやワイドショーの制作スタッフに野球中継を任せた方がいいだろう。

【メディアよ、ブッカーになれ】

大衆貴族が「面白い、楽しい」と感じるカギは、ストーリーより見せ方にある。大衆貴族によって選ばれない限り、マスメディアは生きてゆけない時代だからこそ、見せ方のウマいヘタが文字通り生命線となる。制作的視点からいうならば、マスメディアのコアコンピタンスは編集力にあるのだ。たとえば、どこかで殺人事件があったとする。取材に行ったクルーは、犯行現場、警察の記者発表、容疑者の同級生のコメント等々、ニュース用に5種類の素材を撮ってきたとしよう。昔のメディアでは、その5種類の素材の中身さえしっかりしていれば、それをどう並べどう繋ぐかは、さほど気にしなかった。ニュースは中身、という時代だったのだ。しかし、今は中身より並びである。中身そのものより、その素材をどう構成し、どれだけ面白く見せるかが重要な時代なのだ。

そもそも「真実」自体が相対化しているのだから、真実を伝えたいということ自体、自己撞着である。素材は素材として、それを見た人間が、そこから感じたものを真実として受け入れればいい。それは百人百様でいいのだ。これが「真実だ」と押しつけたら、それこそ総スカンを食うだけだ。その代わり、その伝え方が面白ければ、大衆貴族は喜んで見てくれる。というより、面白くなくては、何より見てもらえないというほうが正しいだろう。

死語になったのは、「真実」だけではない。リアルとバーチャルがリニアに融合する時代は、リアルであることが、格別の意味を持たない時代である。リアルがない世界に、「真剣」というコトバは必要ない。「真剣」もまた死語になろうとしているのだ。「真剣」が好きなのは、体育会系のアマチュアリズムやスポーツ根性を愛好する人たちだ。しかし、今やアマチュアのプレイヤーは、居場所がない時代だ。職業スポーツマンか、副業スポーツマンかという違いはあっても、プレイヤーはプレイヤー。あるのは、実力と実績の違いだけであり、真剣かどうかという精神論ではない。いつの間にか、精神論と観念論が跋扈する情念の世界である「体育会的世界」とは違う「スポーツ界」が、日本でもスタンダード化していたのだ。昨今、プロ野球をはじめ、旧来日本でもてはやされていたスポーツが、急速に人気を落としている元凶も、つき詰めればここに行き当たる。

真剣勝負幻想にとらわれているヒトが「八百長」と呼ぶシカケのコトを、アメリカではケーフェイと呼ぶ。なら、われわれは敢えて叫びたい。「ケーフェイで何が悪い」かと。そもそも世間なんて、それをいったら全てケーフェイではないか。みんなわかってやってるコトだ。大衆貴族にとっては、ヤラセでも何でも、おもしろい方が正しいのだ。実際、バブル期以降、日本の大衆は「アングル(シカケの構造)」を、業界内の視点で読む楽しさに目覚めた。ストーリーそのものより、そのストーリーが作られるプロセスが面白い時代なのだ。マスメディアが相手にするのは、マークとスマートだけでいい。シュマークは相手にしても、ロングテールになるだけ。そして、マークが喜ぶアングルをつくるのがブッカーであり、スマートが自分を重ね合わせるものブッカーである。この時代、メディアの機能は「窓」であり、コアコンピタンスは「編集力」だと語ってきた。であるならば、これからのキーワードは一つだけ。マスメディアよ、ブッカーになれ!!





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