上総一ノ宮・駅の周りで(先史遺跡発掘シリーズ その3) -1968年8月-
早くも、「先史遺跡発掘シリーズ」は第三弾。今月も、1968年8月の千葉の情景です。先月に続いて、千葉の別荘へ滞在していたときのカット。この時は連続して10日近く滞在していましたので、8月の中旬から下旬と、先月のカットと相前後するような日程です。一宮町は、いまでこそ国道128号線沿いに、ちょっとだけ古くからの商店街がある街並み、という感じですが、かつてはその名の通り、上総一の宮として知られた平安時代からの歴史を持つ玉前神社の門前町として栄え、江戸時代には一宮藩加納氏の城下として栄えた、歴史のある街なのです。今では、茂原市を取り巻く長生郡の町村の中の一つという感じですが、40年前は、まだそこかしこにかつての威厳が残っていました。だからこそ、今でも外房線の列車は上総一の宮で運転系統が分かれ、上総一ノ宮までの東京近郊区間と、ここから先安房鴨川までのローカル区間という二重構造になっているのです。
まずは、そんな一宮町の中心、上総一ノ宮駅から。町名は「一宮町」で、駅名は「上総一ノ宮駅」。違うといえば違うのですが、旧国鉄の駅では、地方自治体の名称と標記や読み方が違うということは、けっこうありました。多くの路線ができた頃は、国鉄は「鉄道省」という中央官庁であり、当時の内務省の管轄だった地方自治体とは違うんだぞという、役所間のタテワリ行政と面子の関係なのでしょう。こうやって見ると、上総一ノ宮駅のファザードは、基本的には今もそんなに変わっていません。当時としては、それだけ「洒落た」感じの駅舎だったということでしょう。ベンチに佇むお客さんが、時代とローカリティーをそこはかとなく匂わせてくれます。
駅舎の向かって右手には、跨線橋とトイレがあります。跨線橋は、古レールでフレームが組まれた木造で、ジオラマファンならずとも食指を惹かれてしまいますが、この跨線橋も現存しています。その手前には、モルタル造りの大型のトイレがあります。汲取式の駅のトイレとしては、かなり新しめな感じですが、汲取式は汲取式。ある年齢以上の方なら、夏の日差しの中で、開け放たれた窓からなにやら臭ってきそうな雰囲気を思い出してしまうでしょう。肥溜の蓋と臭気抜きは、昭和のストラクチャを製作するときには欠かせませんが、意外と参考写真がないものです。まあ、その理由は考えるまでもありませんが。よくぞ撮っておいてくれた、ということで、このカット採用です。
地方の主要駅といえば、駅前につきものなのが、日通とタクシー会社。ということで、上総一ノ宮駅前にあった、「日の丸タクシー」の営業所。日の丸自動車は、今でも一宮町で営業しており、営業所の位置こそ変わってしまいましたが、日の丸タクシーは、今も上総一ノ宮駅構内で健在です。それにしても、街角コレクションにでも出てきそうな、この立派な作り。看板建築とまではいきませんが、青銅製と思われる外壁材を貼り込んだファザードといい、凝った作りの窓枠といい、なかなかいい雰囲気を醸し出しています。「タクシー」というネオン文字も、模型で再現してみたいアイテムです。画面に写る男性たち、皆さん社員と思われますが、方や長袖ワイシャツにノーネクタイ、方や半そでシャツにネクタイと、まだ冷房が普及していなかった、1960年代の夏のファッションの記録としても面白いですね。
上総一ノ宮駅の構内、大原よりにある踏切が、神門県道踏切です。これは今でも、一宮海岸に向かう県道の踏切として残っていますが、当時は踏切警手のいる第一種踏切だったんですね。これから、この踏切での数カット。まずは、下り貨物列車を牽引する、佐倉機関区のC58166号機。166号機は先月のシリーズ第二段でも登場しましたが、外房の運用につくことが多いカマだったのでしょう。よく見ると、リバーが後退に入っていますし、煙も前方にたなびいています。ということは、このあとそのまま出発していることは間違いないので、踏切を締め切ったまま入換作業を終え、再び連結する直前ということでしょう。蒸気末期でも、車扱貨物が主流だった時代は、踏切を締め切って入換を行うことも日常的でした。
ということで、貨物列車がやっと出発です。前のカットと比べると、徒歩のおっさんとオバさんが付け加わっています。スーパーカブのおっさんと自転車のおっさんは、どれだけ待たされていたのでしょうか。それにしてもこのおっさんたち、パナマ帽、ハンチング、麦わら帽と、皆さん帽子をかぶっています。当時の夏の風俗には、帽子は欠かせません。このあたりも、今の若い人が作ろうとすると勘違いしがちなところです。車輌も、前回に続いて東武の貨車が繋がっています。スム201形式でしょうか、これもシュー式です。しんがりも、一段リンクのロワフ21000形式。これも、まさに43・10前という編成です。
走り去ってゆく貨物列車を見送ります。またも登場という感じですが、こういうのが当時から好きだったんですね。でも、この構内の線路のへろへろ感は、なかなかグッと来るモノがあります。磨耗した30kgレール、バラストがほとんど見えない道床、間隔が広い上に形崩れしてしまった枕木。これが晩秋の北海道の弱弱しい陽射しだったりすると、どうにもやるせなくなってしまうのでしょうが、照りつける房総の夏の陽射しの下だと、それなりに楽天的な気分で見れるところが面白いものです。こういう、丙線規格以下の1067mmの線路というのも、今から見るとなんとも不思議な世界です。昔の人が、1435mmを「広軌」と呼んでしまった理由も、そこにあるのでしょう。
さて、同じ神門県道踏切ですが、これは別の日のカット。2番線の出発信号機が進行を現示していますので、上総一ノ宮駅を出発する下り列車ですね。しかし、この編成にはけっこう珍車が混じっています。まず先頭にいるのは、キハ10系の改造荷物車ですが、この時期千葉気動車区にいたことから、キユニ11ということになります。1号・2号の2輌しかいませんでしたから、そのどちらかということになります。そのあと、キハ35、キハ17と続きますが、その次ぎにいる急行色の車輌は、なんと外吊扉。そう、これまた2輌しかいなかった、大出力ディーゼルカーの試作車、キハ60じゃないですか。流石、夏の千葉。あるものは何でも使うという、魑魅魍魎の産物です。
今回の最後は、八積-上総一ノ宮間を行く、上り列車千葉行き。先頭車は、いわゆるバス窓の、初期型キハ20です。サボを見ると、何とか「千葉-勝浦」と読み取れますので、勝浦発の列車のようです。線路脇に生えている、葦やススキが、晩夏を感じさせます。窓はフルオープン(バス窓なので、上は開かない)、車内にいるのは、部活帰りの高校生でしょうか。でも、なぜかこの時期、こういう雑草を入れた写真をよく撮っているんですよね。本格的に鉄道写真を撮りはじめた中三ぐらいになっても、けっこう「草入り」のカットは撮っていました。なんでしょうね。流行っていたんでしょうかね。趣味誌とかはすでに読んでましたから、影響を受ける可能性は充分にありますが。
(c)2011 FUJII Yoshihiko
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