南の庫から 筑豊本線の沿線で(その2) -1970年〜71年-


撮影旅行も、最初の頃は、駅撮りとか、交換する列車を車内撮りとか、かなりマメに押さえていました。というか、1970年から71年ごろまでは、九州内でも蒸気が活躍していた線区では、蒸気牽引の旅客列車も多く、「蒸気牽引の列車に乗らなくては、移動できない」状況もかなりありました。そういうこともあって、乗車前や交換時にもシャッターチャンスが多かったワケです。そして、これは当然の帰結なのですが、そういうコマは、ネガの上では連続しているのが普通です。このコーナーの画像は、モノクロについては、ネガを6コマ単位でスキャンしているので、今までの「南の庫から」シリーズ用のデータと共に、未使用カットもけっこう溜まってきました。ということで、今回は「庫」ではないのですが、筑豊本線の駅頭の風景をまとめてみました。



今回は、時代的には逆順でいきます。まず最初は、若松機関区と直方機関区の回を撮影した翌日、1971年4月2日朝の飯塚駅です。C5557号機の牽引する上り旅客列車が、三番線に入っています。側線には、D50205号機の牽引する旅客列車が控えています。両機は、共に若松機関区所属。D50はこのあと程なく現役引退してしまいましたが、皆さんご存知のように、C5557号機は筑豊本線の無煙化後、吉松機関区に奇跡の転属となり、そのあと鹿児島機関区で宮崎駅入替用として、日豊本線無煙化の日まで生き延びることになりました。当時から、52号機と57号機は調子のいいカマとして知られていましたが、旧国鉄にも、ファン心理のツボを押さえれるヒトがいた、ということでしょう。


さて、問題の(笑)79668号機の非公式側サイドビューです。天賞堂のプラスティック製16番の9600形式が発売され、模型誌では、9600形式のミニ特集が花盛りです。しかし、雑誌では業界大手メーカーである天賞堂に遠慮してか、この「波に千鳥」については、「いろいろ細部には実車との違いがある」ことを述べるのが精一杯で、一番の問題点に触れたものはありません。それならば、と、ばかりに、問題点が一番よく見えるサイドビューを掲載します。撮影は前回と同じ、1971年4月1日の直方駅です。波に千鳥のデフは、C5058号機のモノを、同機廃車後、79668号機に取り付けたものです。そして、C50用のK-7デフと、9600用のK-7デフとは、全く寸法が違います。これを強引に取り付けているので、デフの後端側のステイが、シリンダーケーシングの真ん中、ちょうど空気弁のところにきてしまっているのです。この、ローライズのジーンズから、豊満なヒップが惜しげもなく露出しているようなバランスが、79668号機の特徴なのです。標準的な9600形式用のK-7デフに、波と千鳥を描いた機関車なんていなかったんですからね。よく覚えておいてください。


ここからは、1970年8月1日の撮影です。いきなり、線路際での撮影ですが、これもぜひお目にかけたい車輌だったので、取り上げることにしました。カマは、直方機関区所属のD51868号機、撮影地は中間-筑前垣生間です。蒸気機関車世代でない方には、特に驚きはないかもしれませんが、「蒸気通」を自称される方には、けっこうショッキングな画像だと思います。九州の蒸気といえば、LP403一灯で副灯なし。石炭寄せの増炭枠同様、転属してきた時点で改修される。と思っておられた方が、通ほど多いと思います。しかし、世の中には例外がつきもの。最初の工場入場時まで、副灯のLP405がつきっぱなしだったカマもけっこういますし、この868号機のように、主灯までLP405なんていうヤツもいたのです。こいつは、けっこう長くこの状態でいたので、九州通なら、知っている人はよく知っているとは思いますが。


筑前山家駅に進入する、D60重連が牽引する貨物列車。先頭のD6026号機は、門デフと化粧煙突のきれいなカマで、直方機関区所属のD60形式の中でも、人気が高かったカマの一つです。このときは、この貨物と筑前山家駅で交換して、ぼくが乗ろうとしていた上り列車が発車するタイミングだったので、ひとまず上り側に行って、駅への進入シーンだけを押さえました。まあ、このときはまだ中学生ですから、ヘンに凝った構図で失敗するより、こういうオーソドックスな記録のほうが無難ともいえます。一応、露出やフォーカス、タイミング等については、キチンと撮れているようですし。当時はフルマニュアル・アナログ銀塩ですから、「キチンと撮る」こと自体が、けっこう大変だったんですよ。こういう感じのカットなら、模型ファンとしては、車輌の資料としても、編成の資料としても、ストラクチャ・シーナリーの資料としても、当時の記録として、充分活用できますね。


そのまま、上り列車で筑豊本線を北上すると、飯塚駅で、D6046号機を先頭にした、次の重連貨物に出会いました。篠栗線開通後は、飯塚-原田間の列車数は激減しましたが、本数こそ減ったものの、それなりに集約して貨物量を確保し、重連で牽いていました。とはいえ、筑豊各線区内と鳥栖口(熊本・長崎方面)の間での貨物しか通らない状況でしたので、各機関区への石炭のデリバリを行うセラこそ通過したものの、基本的には石炭輸送とは縁がない区間となっていました。手前側、2番線の機関車停止位置には、給水用のスポートが立っています。蒸気時代には、機関車の付け替えまで行かなくても、峠を控えたりした駅では、水の補給がひんぱんに行われていました。限られた停車時間の中で、係員がサッとスポートの先をテンダの給水口に差込み、ものすごい勢いで給水する一方、石炭をキャブのほうにかき寄せます。実は、九州の「増炭枠」と呼ばれているものは、北海道のそれのように「過積載」のためのものではなく、この「かき寄せ」の手間を省くためのものです。したがって、増炭枠の後ろ側にはきっちり壁があり、それより後方には、基本的には石炭を積み込みませんでした。模型で、九州タイプのテンダに石炭を積み込むときには、ここに気をつけてくださいね。


このカットは、上のカットの数秒後、まさに続けての撮影です。2番線には、同時進入でC5519号機の牽く下り旅客列車が進入してきました。飯塚は複線区間でしたから、同時進入だからといって、格別のものはないのですが。19号機は夏の九州らしく、キャブの妻板のドアも開け放っています。C55、C57のキャブでこれをやると、いかにもビュンビュン風が入ってきそうな感じです。模型でもやってみたいところですが、夏姿に固定されちゃうのがナニですね。さてぼくは1輌目に乗っているので、乗車中の列車の牽引機のテンダがちらっと見えています。他のカットで、これはC5553号機とわかっています。こちらの客車はオハ61系でしょうか。下り列車の一輌目は、スハフ32ですね。まあ、1970年の筑豊本線は、このぐらいの頻度で蒸気機関車牽引の列車が行きかっていたワケで、無煙化の足音がひたひたと迫っていつつも、まだまだ蒸気全盛と呼べるような雰囲気を残していたことがわかります。



(c)2008 FUJII Yoshihiko


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