自民党という共産主義政党






自民党総裁選挙の動静がジャーナリズムをにぎわせている。メディアや評論家はいろいろ語っているが、問題はつきつめて言えば「自民党という政治システム」自体が構造的崩壊を起し、どうにも立ち行かなくなった状況に対し、それに乗っかってきた人達が右往左往しているということだろう。構造崩壊と共に、内部のメカニズムや構造体が露出してしまい、ある種「暗黙の了解」だった本音が、人々の目に触れやすくなったことも、問題を大きくしている。しかし本質は、自民党の政治家自体が、知ってか知らずか、自民党というすばらしい政治システムを自己崩壊させてしまったところにある。

去年、このコラム「衆議院選挙の結果に思う」で語ったように、自民党という政治システムは、その設立時においては極めてよくできた構造をもっていた。一言で言えば、政策ヴィジョンを持つ政治家が党のリーダーシップを取り、利益誘導と引き換えに政治屋と取り引きし、いわば議場での議決権と利権をバーターするシステムを作り上げた。これにより、大衆は政策の問題など理解することができないという、民主主義のジレンマを克服できた。近代日本の社会構造をふまえ、極めてよくできた政治システムだ。

このように設立時点では、ある種の「統治の作法」が働く政治メカニズムが内在していた。しかし、これは考えてみれば、例の「密教対顕教」の二重構造そのものではないか。当初においては、確かに密教徒による顕教徒のコントロールが利いていた。しかし、大衆化のパワーと速度をあなどってはいけない。この手のシステムは、システムの崩壊以上の速さで、スクラップ・アンド・ビルドを行わないと、必ずや「顕教徒による、数を頼りにした密教征伐」が起こる。そしてご多分に漏れず、自民党もそうなってしまった。

それでもまだ、設立時のメンバーが何らかの形で運営に関われた時代は、この「隠された理念」もリーダーの間では共有され、それなりに維持されていた。しかし、時代は世代交代し、二世議員の時代である。おまけに首相も数を頼りに、「顕教徒」が就任する時代となった。いろいろ言われるが、森首相がいけないのではない。彼は彼なりに、顕教徒の親分としてはよくやっていると思う。いけないのは、数を頼りに「顕教徒」を首相にしてしまうようになった自民党の変化なのだ。そういう意味では、多分中曽根元首相が最後の「密教徒」政治家だったのかもしれない。

さて、自民党の中の顕教徒は、利権誘導を求めるものである以上、市場原理とは相容れない。市場の見えざる手による配分ではなく、国家権力による「強制的再配分」を求めるものである。農政、公共事業。どれをとっても、利権と呼ばれるものは、元来競争力を持たない「淘汰されるべき層」に対し、権力による「強制的再配分」を行い、その存在を維持しようという、きわめて社会主義的な政策だ。密教徒がいるからバランスがとれていたが、その枷が外れてしまった。このブレーキの壊れた「顕教徒」集団は、富の悪平等的再配分を求めるものである以上、共産主義政党と呼ばずしてなんと呼べるだろう。

さて、政・官と言われるが、官僚機構はもともと共産主義性を持ち合わせている。それは、本来権力をもち得ない階級性である「官僚」が、その地位にあるというだけで大きな権力を発揮してしまうという「悪平等性」が、きわめて共産主義と親和性があるからだ。悪平等を拡大し、再生産しようとするメカニズムを、共産主義と呼ばなくて、なんと呼ぶのだろう。もともと真のエリートではなく、「できのいい大衆」でしかない彼ら・彼女らが運営できる社会は、悪平等の大衆社会しかありえない。それは共産主義と呼ばれるべきだ。

現状での政府予算を見れば、その本質はよくわかる。日本の国家予算で支出の多い費目のベスト3は、社会保障(20%)、公共事業(11%)、文教および科学振興(8%)である(平成12年度)。この中でも社会保障は、現状の保険制度、年金制度の破綻を見るまでもなく、日本の社会保障制度は、自立、自己責任を前提とした「セーフネット」方式ではなく、悪平等を生み出す「バラ撒き」方式である。まさにやる気のある人間のやる気を奪い、やる気のない人間の甘えを増長する、共産主義的再配分だ。

公共事業もまた、皆さんがご存知の通り。なにをかいわんやである。これらの事業が、国土インフラを作るためのものではなく、建築、土木を中心とする、地方の競争力のない事業者に対し、生活と所得を保証するためのものであることは、誰の目にも明らかだ。これもまた、競争力を持ちリターンを多く得ているものから、その成果を強制的に収奪し、地方の競争力を持たない業者、およびそこに群がる人々へ分配するという、悪平等的再配分と考えればわかりやすい。これもまた共産主義そのものではないか。

教育については、多少わかりにくいところもあるが、教育界自体が利権を守るための閉じた集団であることを前提にすれば、悪平等システムの維持のために使われている予算であることがわかる。本来、教育とは自由で多様なものであり、市場原理のような自由競争に任せれば、「いい教育をする機関には、生徒がたくさん集まり、さらに発展する」というメカニズムで運営されるべきものである。しかし、現実の教育界は、どちらかというと社会不適合、競争不適合な人格欠陥者が多く集まり、社会の風から隔離されることで、自らの特権を享受しようという場に成り下がっている。

これを維持運営するための費用が、教育に関する予算である。教育支出に関しては、費用自体の質が、無限定的に「悪平等」というわけではない。しかし、日本の文教政策・文教予算には、何のアカウンタビリティーも、競争原理もない。さらには、費用対効果を判断するための透明性もない。いわば伏魔殿の中で聖域化している予算だ。自己弁護的、お手盛り的。まさに官僚制的な利権構造そのものではないか。これを共産主義的といわずして、なんといえるだろうか。もしかすると、社会保障や公共事業よりも、外から見えにくく、手も触れにくい分、より悪質かもしれない。

今起こりつつある変化は、そういう意味では、最後の「冷戦崩壊」、共産主義の解体過程といえる。最強、最悪の共産主義者集団は、鉄のカーテンの向こう側ではなく、日本の、それも自由主義政党の仮面を被った集団の中にあった。悪平等に基づく強制的再配分か、フェアな原理に基づく自由主義的競争か。失われた10年は、実は最後の冷戦構造だったのだ。最後の共産主義国家、日本。そのイデオローグを支えた最後の共産主義政党、自由民主党。世界最後の悪の砦に、いま正義の手がかかろうとしている。この最終戦争は、なんとしても自由主義の勝利に終らなくてはいけない。それが、人類のために日本人がなしとげられる21世紀最初の貢献なのだ。


(01/04/13)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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