マーケティングとmarketing(その4)






過日、「マーケティングのパラダイム・シフト」でも述べたように、CRMに代表されるようなインタラクティブ・マーケティングは、マス・マーケティングの最適化された最終形であり、ポスト産業社会において「モノやサービスを売る」ための方法論としては必ずしも有効とはいえない。しかしその時の視点は、あくまでもこれから起こりうる「パラダイム・シフト」にどう対応してゆくかという問題意識に基づいたものであった。これまで3回に渡って語ってきたように、多くの日本企業では、日本語としての「マーケティング」という意味での「マス・マーケティグ・コミュニケーション」ののメソトロジーを振り回すのが精一杯で、産業社会に最適化したmarketingというレベルさえ達成できていないのが現状である。それを前提に考えるなら、まだマス・マーケティングにおいてもやり残していることが多くある。それをフォローするものとしてインタラクティブ・マーケティングをとらえるなら、それはそれで意味があるとも言える。

それは、インタラクティブ・マーケティングに取り組んでいる日本企業の多くが、未だに「不特定多数のワナ」にはまり込んでいることからもわかる。顧客履歴をデータベース化して管理することは、決して意味がないことではない。小さな個人商店モデルなら、すべての顧客の情報をアタマの中で管理することは可能である。実際、今でも繁盛している小商店のオーナーは、間違いなくこれを実践している。繁盛しているスナックのマスターもそうだ。顧客の過去の購買履歴はもちろん、家族構成や趣味・嗜好など、幅広い情報が頭に入っている。これは商品特性がマスから外れれば外れるほど重要になってくる。コレクターズアイテム系のショップなら、仕入れる際にすでに「この商品なら○○さんが買うに違いない」という判断が行なわれていることも少なくない。そういう商品でなくても、顧客を知ることは、商人道の第一歩である。

しかし、店が大規模になり、組織で販売するようになると、すべての顧客情報を一人のアタマの中に入れることはできなくなる。そういう場合でも、顧客を知ることが大事なのは変わらない。これをフォローするためにシステムを入れるわけだ。ここで大事なのは、あくまでも個々の現場においては、それぞれの現場の顧客を知り尽くしている店員がいるのだが、売場を横串で通して、店全体としての顧客の情報を統合的に知ることができないだけであり、そこにブレークスルーを作るためにシステム化するという点である。この手のシステムといえども、それぞれの売りの現場にはちゃんと人間がいて、そこで商人道を実践していなくては意味がない。しかし日本企業の多くは、この人間が顧客をつかむことをやっていなかった。そこでインタラクティブ・マーケティングに求めるものも、それを使えば顧客のことがたちどころにわかるという「魔法の水晶玉」となってしまう。

だが、それは余りに虫のいい話だ。銭を賭けずにマージャンをやっても、誰も儲からないのと同じ。システムは人間系を補うものでしかない。人間系がそもそも不備なところに、システムを入れても何のメリットもない。確かに、顧客データを集めマイニングすれば、顧客をタイプ別にクラスタリングすることはできる。しかし、機械ができるのはそこまで。それぞれのクラスタに属する人達にどうアプローチすれば売れるのかは、機械の範疇ではない。データをいくら集めても、わかるのは結果だけで、なぜそういう購買行動をしたくなったかという動機は、永遠に抽出できない。それができるのは、現場にいてお客さんの顔を知っている人だけだ。実際、顧客データをウマく活用している企業は、かならず現場のノウハウを元にデータを読んでいる。

たとえば、流通のハウスカードの履歴分析など、一旦現場に情報を返して活用することで、可能性は大きく広がる。顧客のAさんとBさんが同じクラスタに属しているという情報があるとする。このAさん、Bさんのプロフィールを熟知している現場の人間なら、このクラスタに属する人がどういう嗜好を持ち、どういうセールストークが有効かすぐにピンとくるだろう。そうすれば、やはりこのクラスタに属するCさんDさんを「口説く」ときには、どういう攻め口が有効かがわかる。特にCさんやDさんが、他の売場ではよく購入していても、この売場には来たことがない場合でも、はじめてきたときから常連のお得意さんのような対応が可能だ。これなど全体としての顧客データベースがあるからこできる接客だ。しかしこれとて、その売場の商人道を心得ているからこそ読み取れるのだ。

また、新しい商品やサービスをどう売り込むかという場合も、やはり現場の人間の知恵をフルに活用しなくてはならない。折角クラスタリングしていても、機械的に「ヘタな鉄砲」を数打ち、リアクションから絞り込んでゆくのでは、余りに手間とコストがかかってしまう。マーケティングは本来顧客の心を読み、顧客との間で心を通わす作業である。そういう視点に立てば、顧客の心を知っている人間なら、各クラスタの顔を読み取れるし、まだ見ていない商品やサービスに接したときどう反応するかきっちりと予想できる。そういう人間のノウハウを元にデータを読み取れば、可能性のある相手に的確なセールストークを投げかけ、その気にサセることができる。これがマーケティングの本質だし、そのために使ってこそデータベースは生きてくるのだ。

大量生産・大量消費をベースにする産業社会型のマス・マーケットは縮小し、よりニッチで同人的なポスト産業社会型のマーケットが起ち上がってくることは確かだ。しかし、だからといってマス型の商品やマーケットがなくなってしまうわけではない。あくまでも相対的なシェアの関係である。ここで新たなマーケットに対応する必要性があるのはもちろんだが、こと日本企業においては、マス型のマーケットへの対応にも問題がある。今までのような日本語の「マーケティング」は、そもそも通用したのがラッキーだったのであり、少なくともきちんと顧客を捕まえるためのmarketingを極めておかないと、相対的に縮小したマス型のマーケットさえもキープすることができなくなるのだ。

そのためのカギは、お客さまの「心」である。心は機械では読めないし、理屈ではつかめない。人と人のインタラクションの中ではじめて「動かされる」ものである。そしてマーケティングとはお客さまの心をつかんで動かすことなのだ。インタラクティブも、機械と顧客の間で「インタラクティブ」なのではなく、システムを介することで、商品やサービスを提供する人間と、それを購入する顧客とが「インタラクティブ」になるためのものである。心をつかめない、心を語れない人間では、マーケティングを語ることはできない。生活者が大きく変わりつつある今だからこそ、この最も基本的な原点をもう一度再確認する必要があるだろう。ポスト産業社会は、人間が主役になり、システムや理論は人間が気持ちいい暮らしをするための手段となる時代なのだから。

(02/05/24)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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