フロー社会





法隆寺参道のいちばん山門よりに位置している茶店が、たびたびの交渉でも立ち退かず、いよいよ立ち退きの強制代執行になった、というニュースが、先日ワイドショーを賑わした。もともと、その土地の地主は法隆寺である。100年近く営業していたとはいえ、その茶屋は、たかが借地人である。それが1970年代から、30年以上にわたるゴネ得狙いで、たびたびの条件提示にも応じなかったという。他が移転しても、一軒だけ強行に移転拒否。おかげで、参道の拡幅は80年代に完成しているが、山門前の広場に着工できなかったというのが、今回の顛末である。

確かに、門の直前という「オイシイ場所」はそうないコトも確かだが、茶屋は自前の土地ではない。もともと法隆寺の土地を借りているに過ぎない。それなら地主の意向の方が重要ではないか。道路・広場の整備が、県の公共事業であるということはさておいて、地主である法隆寺の意向としては、参道を整備したいという方向である。それをさておいて、借主の茶屋が居座っている。どこかおかしいのではないか。無責任で自分のことしか考えずない困ったヤツに貸したばっかりに、持ち主の権利が蹂躙される。借主の権利が強すぎる日本の法制度の悪癖があらわになった。

そもそも権利たるもの、責任や義務を果たしてはじめて手に入れることができるもの。無責任であるということは、無権利ということだ。無責任な借主に権利を与えてしまうことがおかしい。こういう「借主の権利」を強く認めるシステムは、「甘え・無責任」天国である戦後日本ならではのものだ。社会に真に必要なモノなら、自ら私権を制限してもスジを通すのが、ノブリス・オブリジェ。こういう「高貴」な精神を持ってこそ、リーダーシップが発揮できるのだ。目先の利権に汲々とする、下世話な下々のものとは、「志」が違うのだ。

こういう国だから、日本の大衆には「官」はあっても、公共がない。その「官」は偏差値が高いだけで、倫理観は、「甘え・無責任」の大衆そのものである。これでは結局、みんなが勝手にワガママを言い合うだけの社会になってしまうのも当然だ。元来、資産は知恵と努力の結晶である。だからこそ、それを維持しつつ膨らます「経営」が重要になる。そういう意味では、ここで述べたように、「甘え・無責任」な大衆に、「自立・自己責任」な人たちと同等の権利を与えてしまったという「農地改革」こそ、日本史上最大の失政である。もともと日本にも、江戸時代の商家のような「経営」の伝統があった。農地改革が、それを破壊した。

このようにフロー中心でストック軽視というのが、戦後日本独特の価値観であり、日本的経営の特徴となっている。この傾向は、一貫して戦後経済の基調となっていた。資金調達は、間接金融による借入主義を中心としていたため、利子さえ払っていれば、経営の中身を問われることはなく、ガバナンスもディスクロージャーも育たなかった。また、経営指標も「売上高主義」となり、P/Lさえも問われず、B/Sに至ってはその存在すら知らなくても経営者面できた。資金調達は、運転資金の工面という、経理担当が走りまわる仕事というレベルで認識している「社長」だって許された。経営におけるグローバルスタンダード、会計基準におけるグローバルスタンダードが改めて問われるのも、この乖離が原因になっている。

忘れられている、というよりは、「甘え・無責任」な大衆が、自らの所業を正当化するため隠蔽されている、とした方が正しいのだろうが、軍国主義に染まる前の戦前のほうが、日本企業はグローバルスタンダードのストック経営だった。投資家も自己責任で判断して投資するという、ストックの運用基盤があった。だからこそ、成金でない「財産家」がいた。彼らは、自己責任で行動するからこそ、常に社会的責任やステータスに応じた文化の社会還元を考えていた。その結果、前に述べた岩崎家の東洋文庫ではないが、それなりの文化資産を残すことができた。

戦後社会。B/Sのない社会であった。それが、社会インフラ、文化インフラの軽視を生み出した。その象徴が、戦略なき公共事業を生みだした「ハコモノ行政」である。本来社会投資として、「公」の視点から行われなくてはいけない行政支出も、こういうヤカラの手にかかると、目先のフローとしての利権、単なるバラ撒き資金になってしまう。意味ない建設と破壊を繰り返す、賽の河原の石積みだ。無駄な工事は、公共事業を利権化し、談合した仲間内でバラ撒くには一番いい。しかし、それでは何も生まず、何も残さない。それが、フロー主義の本質なのである。

徐福が「不老」の薬を求めて渡ったといわれる、東蓬の地。その伝統が「オヤジギャグ」になったのか、その国は今や「フロー」の国になってしまった。しかし、バブル以降減ったといえども、日本にはそれなりの資金力がある。これを、フローとして消費し尽くしたのでは、後には何も残らない。今後の日本の進む道は、生産ではなく文化で、世界に通じるブランド価値を築くコトだ。そのためには、「ストック」の考えかたを持つ人間が、戦略的に「投資」する必要がある。フローのことしかわからない、大衆そのもののマインドしかない人間にそれが任せられないことは、もう明白だ。

(04/02/13)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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