甘えの責任








ゼロ金利時代も長く続いた昨今の日本では、リターンを得るにはリスクを取る必要がある、という意識もひろがり、「自己責任」というコトバもかなり定着してきた。しかし、もともと日本は、「甘え・無責任」で悪平等指向の、「超無責任社会」である。そもそも「責任」という概念が、キチンと共有されているとは言いがたい。この結果、責任に関しては、とんでもない本末転倒が起っているのが現実だ。

責任には、大きく分けて「結果に対する責任」と「道徳的な責任」がある。本来責任とは、自らが引き起こした結果について負うものである。やった結果は、それがどういうものであろうと、原因となる行動をとった人間が、自らのリスクとして受け入れなくては行けない。これが、責任の大原則である以上、「結果に対する責任」こそが責任の保守本流、王道であるということができる。

一義的には、責任はあくまでも、自らの「コミットメント」に対して生じる。すなわち、行為者に前提となる「結果に対する予測」があり、それと反する結果になった場合、行為者が取るのが責任である。しかし、「将来に対する予測」は、可能な場合と不可能な場合があり、可能な場合も、どのレベルまで可能かという問題がついて廻る。このため、「責任の限界」として、どこかに線を引くのは不可能である。

そうである以上、責任を取るためには、不作為により引き起こされた結果についても、分けることなく行為者が責任を取るシステムを取らざるを得ない。責任を取った上で、その「果たすべき責任の重さ」の違いとして、完全予測可能な場合>少しは予測可能な場合>全く不作為の場合、という具合に処理するしかない。実際、法律上の責任の捉え方は、およそこういうシステムになっている。

さてその一方で、日本の大衆社会では、妙に重視されているのが「道徳的責任」である。本来、道徳的責任とは「気持として感じればいい」ものだ。「スマイル¥0」みたいなものである。これを全く感じないというのも、人間的感情がないことになってしまうが、それに対して実質的な債務を負担すべきものではない。いや、債権債務の関係にならないからこそ、道徳的責任が価値がある。実利を追わず、名目だけの名誉に対し、リソースを投入するからこそ、尊敬されるのだ。

本来、絵画や音楽など、表現物の複製が工業的に可能になったとき、オリジネーターがそこからの収益の分配に預かることができるよう、財産権として整備された著作権が、日本においては財産権より人格権を重視する歪んだ「発展」を生んでしまったことは、「著作権をとらえなおす」等、すでにここでも何度か取り上げた。「道徳的責任」とは、これと同じような、名誉と財産、名目と実利の混同現象ともいえる。

「結果に対する責任」がそもそもない人間に対して、なぜ責任を問いたがるのか。それは、本来の責任とは全く違う「コスト」を払わせたいからだ。「甘え・無責任」なヒトは、「共同体依存症」の患者である。甘えるべき共同体を持たなくなった自分は、想像することすらできない。従って、現状の人間関係維持が至上命題となり、そこにヒビをいれる可能性のあるコトを忌避する。よって共同体関係を破壊する活動は、タブー化される。

こういう現状の共同体への破壊活動を行ったものに対しては、なんらかの責任を取らせたい。しかし、無責任社会を破壊した「結果に対する責任」というのでは、責任を求めるんだか求めないんだか、自己撞着を起してしまう。そこで目をつけられ、変形の上で導入されたのが「道徳的責任」というワケである。つまるところ、「いじめ」「村八分」と同じ根っこなのだ。

自己責任が取れるヒトは、「結果に対するの責任」をきちんととれば、それだけでいい。その上で「道徳的責任」を感じるかどうかは、いわばオプションである。それも得られるものは、「心の寛いヒト」と思われるかどうか、という違いでしかない。一部の人々に見られる「道徳的責任」の必要以上の重視とは、結局「甘えの裏返し」に過ぎない。自分で自分に落とし前がつけられれば、あとは何がこようと無視すればいいのだ。



(05/11/25)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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