自制心と責任感






このところ、飲酒運転に関する取締強化の声が高まっている。もともと、酔って運転するなどということは、ボケ老人が運転するのと同じで、危険極まりない迷惑行為である。その結果、他人に少なからぬ迷惑をかけてしまったなら、その罪を重く問うのは当然である。もっとも、同じ量のアルコールを摂取しても、その酔いかたは個人差が大きい。そして問題は、「酒を飲む」ことより、「酒に酔う」ことにある。

そういう意味では、個人的には、予防拘禁的な「飲酒運転の摘発」よりも、飲酒して起した事故に対する刑罰を極端に重くすることで、「抑止力」を高めた方が、効果的だとは思う。それはさておき、昨今、飲酒運転が「ワイドショーネタ」になることで、続々と掘り起こされてきた事実がある。それは、飲酒運転で摘発されたヒトのほとんどが、役所に勤めていたり、公立学校の先生だったり、警察官だったり、公務員であるという点だ。

これは、偶然の産物ではあり得ない。そもそも飲酒運転というもの自体、自制心や自己管理能力の欠如を示している。自分のやることに対し、自分としての責任意識があれば、やるベキでないとわかっていることはしないのが当然だ。「万引したい」とおもっても、「万引は犯罪だからしてはいけない」と律するのが、自己管理能力だ。甘え・無責任な人間だと、ここで道を踏み外してしまうことになる。

同様に、「酒を飲んで運転してはいけない」ことがわかっている以上、自制心のある人間なら、酒を飲まないか、ハンドルをにぎらないか、どちらかである。それを、なおざりにしてケジメをつけず、酒を飲んで運転してしまうのは、甘え・無責任な人間だという証に他ならない。ここに、公務員の飲酒運転が多い理由がある。そもそも就職先に公務員を選ぶということ自体が、「甘え・無責任」な人間であることと同値だからだ。

役所に代表される日本の「官」の組織は、いつも言っているように、「無責任の権化」である。そこでは、責任を取るべき特定個人の存在は消され、「組織」と「肩書」の間で責任は曖昧になる。その巧妙さは、まさに芸術品である。公務員とは、そういう組織を選んで所属しようと思う人たちなのだ。彼らに、自制心や自己管理能力を求める方が間違っているともいえる。

東北地方のある県などでは、役所や公益法人などで、午後5時に勤務時間が終わると、どこからともなく日本酒が登場し、そのままオフィス内で親睦を深める宴が始まる、というのが「常識」となっているようだ。それも、昭和30年代とかいう話ではなく、今世紀に入ってから、実際の現場を目撃し、付き合った経験があるのだから、間違いなく今でも続いている慣習だろう。

もちろん、「勤務時間外」という「最低限」のモラルは保っていることは認める。しかし、職場でそのまま日常的に飲酒というのは、高度成長期はいざ知らず、バブル崩壊以降、民間では、およそ考えられない。ましてや、役所など、いつ何が起るかわからない、危機対応も求められているはずである。そもそも、社内で宴会ということ自体、年末の納会とか周年記念パーティーとか、特別な機会はさておき、民間ではおよそ発想の外側である。

組織の外側から見れば、明らかに「常識外」だが、その組織の中では、「伝統」であり「常識」でもある。それは、当り前であり、避難される筋合いのものではない。それを踏襲したからといって、その個人には責任も問題もない。こういう「赤信号、みんなで渡れば恐くない」的な体質は、公務員、特に地方公務員の間には根強く染みついている。問題にすべきは、飲酒運転以上に、この公務員の無責任体質である。

先週、「学校における、君が代・日の丸の強要は違憲」という、東京地裁の判決があった。これは、状況を正しく認識していない、極めておかしな判決である。かつて「遵法精神」として述べたように、学校とは、勉強や知識を教える場である以前に、「社会生活を行うには、ルールを守ることが必要」なことを教える場であるはずだ。ルールとして決まっているものは、その内容を云々する以前に、ひとまず遵守する。

これが、学校で教えるべき第一の内容だ。その教師の個人的心情としては、賛成・反対いろいろあっていいと思うが、教師が決められたルールを守らずして、生徒にルールを守ることを指導できるわけがない。この問題も、公立学校の先生は公務員なので、基本的に甘え・無責任な人間が多いことに起因している。そういえば、こういうおかしな判決を出す判事も、税金から給料が出ているという意味では、「官」に属する。だからこそ、無責任を正当化するような判決を出すのもむべなるかな、ということか。


(06/09/29)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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