essay 780

貧しき団塊(その2)





20年以上が経ち、歴史として時代を振り返られるようになると、いろいろな意味でバブル経済が日本社会に与えた影響は大きいことがわかる。それまで、何度も壁にぶち当たり、そのたびに何とか修正しつつ持ちこたえてきた「高度成長期的スキーム」が、最後の華を咲かせるとともに、燃え尽きてしまったのがバブル崩壊である。そういう意味では、「40年体制」をベースとした時代が終わる、重要な画期ということができる。

バブル崩壊というと、失われた十年、失われた二十年と、ネガティブな側面ばかりが強調されがちだが、日本人の意識や行動という面からすると、決して悪いことばかりではない。その一つが、バブル期を経て、日本人がグローバルレベルの「本当にいいもの」に触れるチャンスも増したことである。バブルがあったからこそ、付加価値がわかるヒト、付加価値を生み出せるヒトが出てきたことも事実だ。

しかし、それは豊かな時代になってから育った世代が、社会で活躍しだしたからこそ成し遂げられたコトであることを忘れてはならない。最後の高度成長世代としてバブルを引っ張った団塊世代が、経験を積んで悟りを開き、付加価値がわかるようになったわけではない。当時新人類と呼ばれた、高度成長の成果が享受できるようになってから育った世代が、贅沢な経験をすることができたからこそ可能になったのだ。

しかし、バブル経済が日本社会にもたらした最大の影響は、人々の立ち位置の変化であると考えられる。この変化を、我々は「大衆が大衆貴族化した」と称した。大衆貴族論については、このWeb上でも詳しい論説をアップロードしているので、その「「超大衆社会・ニッポン」のメディア」を参照していただきたい。これは、生活者の意識という面でも、社会の構造という面でも、大きい変化をもたらした。

それまでの社会構造の認識では、生活者は「少数のリーダーと多数のフォロワー」からなっており、リーダーが「上から目線」で方向性を示せば、多数のフォロワーは自然とついてくると考えられていた。少なくとも、団塊世代を含む昭和20年代生まれの人々については、そうであった。日本のメーカーがプロダクト・アウトに固執したのも、作り手である自らは「市場のリーダー」であるという認識から離れるコトができなかったからである。

バブル経験した生活者は、自分の選択に自信を持つようになった。受身ではあっても、今の自分を肯定できるようになったため、消費者として自分の好きなものを選ぶことで、市場のリーダーシップをとれるようになった。それまでのように、クリエーターが市場のトレンドを決めるのではなく、純粋消費者が創発的に好きなものを選ぶことで、結果としてトレンドが生まれてくるようになったのだ。

市場がこのように構造変化を起すとともに、それまでの高度成長期には主流だった「まやかしの付加価値」には財布を開かなくなった。その一方で、自分が気に入りさえすれば、喜んで真の高付加価値商品を躊躇なく選ぶようになる。欧米高級ブランドが、日本で市場を拡大しだしたのは、明らかにバブル崩壊以降である。これは、消費者が大衆レベルで付加価値とは何かがわかるようになったことを示している。

この変化にどう対応するかで、日本の企業は二つに分かれた。付加価値を創造できた企業と、できなかった企業である。その中でも、付加価値を創れた企業は、折からの経済のグローバル化の波に乗り、グローバルブランド企業を目指し、その波に乗ることができた。これがネットバブル期から、00年代前半の快進撃を生んだ。しかし、そのような企業は、今度はコモディティー化に対応できない体質となっていた。

すなわち、付加価値創造の醍醐味を知ってしまったがために、コストダウンの努力をするより、新機能追加や高性能化を追求し、より高く売ることで利益を確保する体質になってしまったのだ。これにより、費用対効果という製造業の原点を見失い、コモディティーマーケティングができなくなった。新興国製造業の追い上げに対し、欧米のグローバル企業は充分対応できても、日本のグローバル企業が軒並み失速したのは、これが原因である。

貧しい国では、ベタベタになるぐらい多量に砂糖を使うことが贅沢とされる。東南アジアとかに行くと、コーヒーや紅茶に飽和するぐらい砂糖を入れ、ドロドロになったのを後生大事にありがたがる人たちがいる。日本でも、昭和30年代ぐらいまでは、田舎にいくとそういう傾向が見られた。もはや、味ではない。貴重なものを惜しげもなく使う贅沢さが、見栄を呼ぶのである。

この事実からもわかるように、オーバースペックや過剰機能をありがたがるのは、貧しい印なのだ。付加価値とは、オーバースペックのことではない。しかし、日本のグローバル企業では、「付加価値=スペック追求」となってしまった。これも、90年代以降の日本企業のグローバル化を意志決定者として引っ張ったのが団塊世代だからだ。まさに、子供の頃、砂糖を一杯入れるのが贅沢だった人たちだ。

貧しい時代に育ち、その擦り込みを一生引きずる団塊世代。百歩譲って経済を成長させ、バブルを現出させたところまでは、メリットとデメリットを差し引いて、なんとかプラスと評価してもいいかもしれない。しかし、リーダーシップという面では、全く落第だ。日本をおかしくした元凶と言っても過言ではない。アジアや新興国では、今後全く同じコトが起こる可能性がある。そういう国の人たちは、団塊世代を他山の石として、この点をよく心に念じてほしい。


(12/12/28)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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