ある日の筑前垣生(その1) -1970年8月1日-


今回も1970年の7月から8月にかけて夏休みを利用して行った初めての撮影旅行からのカットを続けます。この日は筑豊本線を縦断しながら撮影すると共に、蒸気機関車の牽引する旅客列車の「乗り鉄」も楽しもうという何ともテンコ盛りな企画。無煙化の波が全国に広がっていきつつあった時代とはいえ、冷水峠を越える普通列車は全部蒸気牽引だったりと、当時の筑豊地区はまだまだ蒸気天国。C55やD50、D60などといったはじめて見る機関車も多く、まだまだ蒸気の撮影を始めたばかりの14歳の少年にとっては、撮影以前に蒸気機関車が活躍している場の雰囲気を味わうことでけっこう満足感のある「冒険」でした。朝から冷水峠の筑前山家寄りで撮影し、C5553号機の牽引する旅客列車の先頭に乗車し、筑前垣生に向かいます。


今回の最初に登場するのは、直方通過時の車窓から見掛けた風景。後藤寺機関区の29651号機。伊田線の貨物を直方まで牽引して来たもの。当時は石灰石だけでなく、まだ石炭も輸送されていたので、列車数もかなり残っていた。九州の9600は、機関区ごとにデフあり・デフなしが分かれていたが、後藤寺機関区はデフなし。田川線では行橋機関区はデフありなので、デフの有無でどちらに配属されているカマかすぐにわかった。比較的若番ながら中高エアタンクで空制化されているのは、九州らしいところ。それにしても、なんか16番のレイアウトのようなわざとらしい立体交差だけど、実物にあるんだなあ。「事実は小説より奇なり」ということか。


続けて皆さんおなじみの直方駅構内。蒸気機関車、それも珍しいスポーク動輪のカマがごろごろあふれている光景には、すっかり心を奪われてしまいました。発車を待つ下り貨物列車を牽引するのは、直方機関区のD51160号機。この時は、まだ直方機関区にD51型式の配置があった時代。この後、久大本線に使用されていたD60型式が大挙して移動し、直方機関区はC11、9600、D60のみ配置という、スポーク動輪天国になりますが、九州地区全体の配置バランスの中で起こった、D60がD51を駆逐するという不思議な現象です。脇に見えるD60型式は、デフの穴が蓋つきで化粧煙突であることから、当時の直方機関区配属のカマの中では27号機と比定しました。


ということで、筑前垣生駅に到着。早速、駅周辺で撮影です。というより、「乗り鉄」を兼ねていて移動が多いので、駅の近くで撮影できるところということで、筑前垣生を選んだんだと思います。今から思えば、バッタ撮りしかできないあまり特徴もないところですが、なぜか撮影スポットとして紹介されていたりしたんですよね。最初にやってきたのは、直方機関区の69638号機が牽引する上り貨物列車。中高エアタンク、片持式解放テコ、煙室の肩に取り付けられたコンプレッサー排気の消音機、リンゲンマンなど、九州の9600らしい特徴が溢れています。牽引する石炭車もまだセラ1とセム8000が混じっており、背の高さの違いが目立ちます。


続けて下り貨物列車を牽引するのは、直方機関区のD51868号機。セラ・セムの返空列車です。この連続カットは、前にこのコーナーで発表していますが、今回は典型的なバッタ撮りのアップのカット。写真としては芸がないですが、14歳の鉄道好きな少年が次々とやってくる蒸気機関車の前で感激し、興奮している感じは出ているんじゃないかと思います。868号機は、九州には珍しい主灯LP405にやはりLP405の副灯が付いているカマで、磐越西線で長く活躍したのち、尻内機関区を経て、43・10の東北電化で直方に移動してきました。このあと10月には休車になりそのまま廃車になりますので、最後の活躍ということができるでしょう。


今度は下りの旅客列車です。牽引するのは若松機関区のC5551号機。この日の朝原田から筑前山家まで乗った列車が51号機の牽引で、発車前に撮影しているので、この日2度目の邂逅ということになります。51号機自体は若松区のC55の最後まで活躍していましたが、末期にはデフの先とフロントビームを結ぶパイプの支柱が取り付けられ、長工デフや関さんのK-1デフのような雰囲気になっていましたが、この時はまだ標準的なK-7デフのままでした。47年前の8月の暑さが伝わってくるような照り返しの強さ。冬の爆煙を好まれる方も多いですが、ぼくはなんといっても原体験がここにあるので、ギラギラした陽射しの中の薄煙が好きなんですよね。

続けて下り貨物列車がやってきました。牽引するのは、直方機関区の79652号機。この列車は当時ここでしか使われていなかったホキ8000型式だけを連ねた石灰石専用列車。ホキ8000は日鉄鉱業が所有する私有貨車で、後藤寺線船尾駅の常備。香春岳で採掘した石灰石を、新日鐵の八幡製鉄所に運ぶための専用貨車です。石炭と石灰石を後背地である筑豊地区から調達するとともに、大陸から鉄鉱石を輸入するという地の利を生かして八幡製鉄所が作られたというのは、ぼくが高校生だった頃の日本史の問題でしたが、まだそういう産業立地の構図が生きていた時代だったということですね。そういえば、ここは戦時中三線区間だったところ。上下線の間の空間が、その名残。こんなところにも歴史が生きていました。


近付いてきたところで、79652号機のアップを撮影。同機は9600型式でも最末期となる1924年製。新製時から空制仕様で出場したグループで、中高でも高さが低いのが特徴です。新製から一貫して九州で活躍してきた生え抜き。9600型式の末期に製造されたグループには九州生え抜きが多く、これが九州の9600には「中高・長軸」が多いという、後になって全国から9600が集められた北海道とはかなり違う分布の元になったものと思われます。陽射しが強いこともあり、鉄色に黒光りしている九州のカマの色がモノクロでも伝わってきます。しかしよく見るとこのカマ、前部暖房管がついてますね。戦後は一貫して直方配置だったのですが、どういう理由で付けられたんでしょうかねえ。





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