拝島の八高号 -喧騒の中の八高線無煙化記念列車 1970年10月4日--


作品発表からアーカイブの制作まで、鉄道写真で幅広く活躍されている、田駄雄作氏こと寺田牧夫さんのblog「【安楽鉄道趣味】 轍楽之路」。面白いコンテンツがいろいろ登場するので、いつもチェックしているのだけれど、「撮影マナー今昔」と題された、2010年4月1日のコラムを見て、アッと思う。なんか、どっかで見たことのあるカットが載っているじゃないの。さっそく、ネガアルバムを引っ張り出し、当該カットをスキャンしてみてびっくり。まさに、おなじ陸橋上で1mぐらいしか離れていないところから撮っている上に、シャッターチャンスも、ほぼ同じタイミングのカットがあるではないですか。記念列車なので、この日この列車を撮影したヒトはとても多いでしょうが、並んで同時に撮ったカットがインターネット上にある、というのも、なかなかおつなモノ。ということで、急遽、今月のコンテンツとして登場です。これを機会に、記念列車シリーズというのを始めてしまいましょうかねぇ。



まず最初は、比較的オーソドックスなカットから。というより、このときは、こういう整然とした情景を撮れたヒトは、ほとんどいなかったのではないでしょうか。場所は拝島駅の八王子よりの、青梅線をオーバークロスするところ。このサミット手前から撮れば、向こう側の撮影者は写らないだろうと判断し、雨の中、気合で早くからサミットのかぶりつきを確保した次第。ここはけっこう急な登りなので、一応力行しているのが、雨空のおかげでちゃんと写っています。機関車は、最後は新鶴見機関区にいて、高島線でもおなじみだった、「キリのいい」D51515号機。いかにも「バッタ撮り」な構図には、実はワケがあります。


同じ場所から、振り向きざま通りすぎる列車を撮ったカット。すぐ後ろにも、これだけ撮影者が構えていましたので、こちらも気を使って、草の中に隠れるようにして撮影していたのです。この時ぼくは中学3年生。この年の春から本格的に蒸気機関車の撮影をはじめ、夏には、九州に初めての撮影旅行、続いて万博見学とあわせて近畿地区の撮影旅行と、これから5年間続く、熱くて濃い世界にハマり始めた年でした。半年強の経験で、全然シャッタータイミングが合わない状態から、そのぐらいの撮影場所の選定と周りへの気遣いはできるようにはなっていたということです。この方々の「マナー」も、今の基準からすると相当なモノですが、当時としてはまだまだ紳士的なほうでしょうか。


寺田さんのblogの主旨は、今も昔も撮影マナーは同じようなもので、昔の方が良かったということはなく、線路に自由に立ち入ることのできた昔の方が、よほど無法状態だった、というもの。それなら、寺田さんのカットよりも、もっとヤバい状態の記録を撮ってるぞ、というのが、今回の動機付け。さっそく登場する、ヤバいカットです(笑)。これは、列車ではなく、明らかに群衆を狙ったカットですが、画面の左側に注目。西武拝島線の拝島駅のホームから、直接線路を突っ切って、列車のいる八高線ホームになだれ込むヒトたちが写っています。中には、子供連れの母親まで。確かに、昔の田舎の駅では、線路に降りて隣のホームへと移動したものですが。傘を差しながらの撮影なので、傘の紐が写ってますね。ということで、ちょっと小さめに。


で、八高号の停車しているホームの状態が、これ。八高線ホームからは、もう線路敷の中にまでヒトが溢れています。とはいえ、この時点ではまだ青梅線・五日市線側は、平穏を保っています。その間には、警備の鉄道公安官(当時は、警察官の鉄道警察隊ではなく、国鉄職員の鉄道公安官)と国鉄の職員が、いかめしく並んでいます。このまま発車時まで、整然としたままいくと思ったら大違い。架線のあるほうの状況を、良く覚えておいてくださいね。しかし、そのバックに並んでいるのは、横田基地に向かう「米タン」ことタキ3000の群れ。こっちのほうにひきこまれてしまうマニアの方もいるのではないでしょうか。それだと、ぼくなんかだと、写した写真こそないものの、番号だけでなく「US AIRFORCE」の文字と、JP-4といった積荷種別のレタリングが入っていた時代のほうが懐かしいんですが。


さて、これが寺田さんとシンクロしたカット。寺田さんは望遠レンズを利用されているようですので、画角は違いますが、列車と周りの位置関係で判断すると、タイミングの違っいは1秒程度のものでしょう。しかし、この状況。八高線の上り線は、完全に「お立ち台」と化してしまっています。土手の上のヒトたちも、半数ぐらいは、柵を乗り越えて鉄道用地内に侵入しています。圧巻は、画面の右側。公安官が、あれだけ整然と警備していたはずなのに、30人以上の撮影者が、八高線の線路を乗り越え、青梅線の貨物ヤードの中から撮影しているではないですか。それも、公安官に混じって。そういう意味では、このレベルは「黙認」だったということですね。さらには、米タンのところから、この喧騒状態を撮影しているヒトも。昔のほうが、余程「自己責任」だったという、いい証拠でしょう。


最後は、足元にやってきた、D51515号機をアップで。良く見ると、御召し風の磨きだしだけでなく、関東のカマにつきものだった、LP405の副灯やクルクルパーを外しているんですね。この記念運転にかける意気込みが感じられます。515号機は、水戸市の千波湖畔公園に保存されています。大宮工場製で、水戸、大宮、八王子、新鶴見と、関東一筋、それも長らく東京近郊で活躍しましたから、首都圏のファンにはおなじみのカマといえるでしょう。この時が現役最後の活躍で、11月には廃車されてしまいますが、40年の時を経てからこんな話題を呼んでしまうのですから、それはそれで「一世一代の大舞台」ということができるでしょう。そして、1970年10月の東京は、このあと二週間にわたって、高島線無煙化記念列車が走るという、SLブームの幕開きを飾る、前代未聞の大騒ぎへと突入したのでした。


(c)2010 FUJII Yoshihiko


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