60年代、ハーフ判カメラの思い出 その1(先史遺跡発掘シリーズ その8) -1966年〜1968年-


小学生から中学1年生ぐらいまでの頃に撮影したハーフ判のネガも、春にスキャンしたので出尽くしたかと思っていましたが、その時発見されたネガの束をもう一度精査したら、まだけっこうネタが残っているのが発見されました。とういうことで、予定を変更して、今回からは「60年代、ハーフ判カメラの思い出」と称して、そんなカットをまとめてお届けすることとします。これまた、数ヶ月は続くと思います。てなワケで、またガキの写真にお付き合い願うこととなりますが、40年以上も前の記録ということで、ご笑覧いただければ幸いです。その分、てんこ盛りで行きます。その時代を知っている方にはなつかしく、知らない方には驚きをもって、何かを感じ取っていただければと思います。



最初は、当時のぼくにしては珍しく、常磐線方面のカットから。まずは、上野駅高架ホームに佇む、常磐線各駅停車取手行きのクハ79形式。常磐線は、東京の主要国電区間の中では最後まで旧型電車が残ったいましたが、複々線化し地下鉄千代田線に乗り入れる1971年4月に緩行線から姿を消し、その1年後には快速線からも引退したのでした。ということで、このころはまだ72系の天下だった時代です。バックに見える地上ホームも、まだまだ堂々と感じられる時代でした。


目を転じて山側のホームを見ると、東北本線か常磐線の夜行急行が到着しています。さすがにこのサイズでは、サボや号車札を読み取ることは不可能です。しかし、窓下の表記が「寝台」の2文字で「B寝台」ではないことから、1969年5月のモノクラス制施行以前の撮影であることがわかります。次のカットとシーケンシャルになっているので、当時の時刻表があれば、列車の考証は可能ですが、残念ながら資料を持ち合わせてはいません。当然冷房化以前で、屋根上にはファンカバーがならんでいますので、ナハネフ10かナハネフ11ということになります。


ホームの大宮寄りに行くと、ちょうど上越線のエース、上り特急「とき」がやってきました。細かくは読み取れませんが、ヘッドマークにはうっすらと2文字のかなが見えています。それと入れ違うかのように、165系の下り急行が発車してゆきます。当然、急行はまだ非冷です。前のカットに半そでシャツの男性が写っており、天気も雨であることから、季節は梅雨の頃と推測されます。となると、撮影時期は1968年の初夏ということになります。なんと、これも43・10前ですね。ダイヤがなくても、43・10前の一般の時刻表があれば、「とき」と急行が上野で同時発着があるタイミングは限られますので、関連する列車名だけでなく、撮影時刻まで考証できるんですが。


そして、常磐線に乗って向かった先、ここはどこでしょうね。大きな貨物駅がありますが、キロポストは一桁。となると北千住ですかね。複々線化以前なので、全く想像がつきません。折りしも、EF80牽引の貨物列車がやってきました。EF80なんてのも、撮影したのは前にも後にも、この時だけです。北千住となると、下り貨物でしょうか。貨物駅を見ると、トラ、ワラの先にいるのは、家畜車じゃないですか。当時は、都内の貨物駅まで、牛を生きたまま運んできていたんですね。この一連のカットは、12歳の中学一年生の時の撮影です。


貨物列車が停止したところに駆け寄って、連結面の撮影です。ナンバーが読めるので、機関車は田端機関区のEF802号機とわかります。ぼくが生まれ育ったのは、東京でも西・南側なので、東・北側は子供の頃にはほとんど縁がなく、行ったことのない土地でした。確かに写真が残っているので、行って撮影したことは間違いないのですが、記憶も定かでないし、ネガを見つけてびっくり、スキャンしてまたびっくりという感じです。ところで、バックに「ヤヨイ」という看板が写っていますが、調べてみると、今でも北千住駅の西側に「ヤヨイビル」というのがあります。ということは、やはり北千住なんでしょうかね。先程の急行の件も含め、わかる方がいたら教えてください。


場所は一転して、中野駅です。中野駅7番線に停車中の、中央線上り貨物列車。牽引機は、八王子機関区のEF1023号機です。23号機は、関門トンネル出身の機関車ですが、ステンレス化はされませんでした。最後はけっこう後まで飯田線で活躍したので、おなじみの方も多いと思います。知ってか知らずか、まさにこの機関車が作られた「流線形時代」を思わせる、未来派からバウハウスに続くモダニズム全開の構図。小学生の写真にしては、偶然でしょうが、このカマの特徴をよく捉えていると思います。光線状態もいいので、風雪に耐えたその面構えがよく写っています。奥にチラリと見える地下鉄5000系は、よく見るとアルミ車ですね。


今度は、貨物列車に編成された貨車にレンズを向けます。まずは、アジア石油のタキ9800。まだまだこの時代、異径胴のタンク車は斬新な感じがしました。アジア石油は、合併を繰り返して今のコスモ石油のルーツの一つとなった元売会社ですが、中堅元売の常として、合併・社名変更を繰り返していたので、ふくろうマークは変わらなくても、社名は亜細亜石油→アジア石油→アジア共石と目まぐるしく変わっていました。その中でアジア石油という表記だったのは、1964年から70年の間ですから、これはこれでけっこう貴重な記録といえます。


続いて、日本石油のタキ2100形式、2450号。2450ってキリがいいので、形式のファーストナンバーみたいですが、形式はタキ2100です。ホームの上には、毛皮のコートや和服を着た女性の姿が見えます。また、チラりと行商のオバさんの背負子みたいな荷物も見えます。中野駅の7番線自体は、今もその姿はあまり変わっていませんが、そこにいる乗客と列車が違うと、たちまち1960年代の臭いがプンプンしてきます。レイアウトに時代性を持ち込むときにも、単に古っぽく作ればいいワケではなく、こういう生きた時代性を取り込む必要がありますね。


トラに積まれている積荷は、コンクリート製の側溝のフタです。まだまだこの時代は下水の普及率にも限界があり、俗に「ドブ」と呼ばれた側溝が道路の脇にあり、そこに排水を流していました。当然、生活廃水だけで汚物は流せないので、トイレは汲み取り式です。また、地域によっては、自然に地面に吸収させる枡を使って排水を処理していることもありました。この辺も、50代以上のヒトしか知らない「常識」になっちゃったんでしょうね。その向こう4番線には、中野折り返しの東西線始発の5000系アルミ車が停車しています。5・6番線の人の気配も、なんか模型の人形のようで、ジオラマ派の心をくすぐります。


8番線の側から、北口広場を俯瞰します。なんと、サンプラザも中野区役所もなく、警察学校のほうまで広々と望めます。丹頂型の電話ボックス、富士重工ボディー・UDエンジンの関東バス、駅前の運送会社など、昭和の地方都市の情景そのものです。しかしこのカットは、撮影時期の考証に重要なヒントを与えてくれます。東西線がアルミ車なので、66年以降。中野区役所が竣工したのが68年10月なので、その1年以上前。そして、写っている人たちはコートを着ているので時期は冬。ということで、撮影時期は66年末から67年初頭と絞り込めます。陽射しの感じがクセモノですが、ひとまず67年の1月としておきましょうか。とにかくその前後一月であることは間違いないでしょう。


最後にもうちょっと古いカットを、一つお届けします。多分、このカットは、営団地下鉄東西線が中野まで開通した直後、家の近くの区間である落合-中野間を初めて乗りにいったとき、中野駅で撮影したものだと思われます。開通を待ちわびたように初乗車したのは覚えていますので、多分間違いないと思うのですが。となると、開通が1966年3月16日の水曜日ですから、その直後の休日ということで、3月20日の日曜日か、3月21日の春分の日かどちらかでしょう。休日が日曜日だけだと、特定できたんですけどね。小学校5年生、10歳の時の写真です。


(c)2011 FUJII Yoshihiko


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる