線路端で見かけた変なモノ その1 -1973年4月・5月 74年7月-


3.11東日本大震災の後、押入の中から発見されたネガの束も先月で終わり。今月からは、また元の展開に戻るのかと思いきや、またまた新シリーズをはじめてしまいました。実は、今年の夏前から、全ネガのデジタル化という野望をスタートさせ、それまでにスキャン済みのものも含めると、およそ100本分ぐらいのネガがデジタイズされました。全コマスキャンなので、当然いろいろ発見があります。端のほうに写っている車輛のナンバーが読めたりするのもデジタルならではですが、こんなもの写してたの、というカットもいろいろ発見されてしまいます。ということで、そんなふつうの「鉄道写真」では写さないような、変な、いや貴重なカットの数々。まずはレイアウト屋さんならではといえる、建造物のあれこれから参りましょう。



まず最初は、吉松駅の駅名票から。列車は3番線に入っていますね。九州地区特有の、蛍光灯が入った三角形のアンドン型駅名票もちゃんとあります。蛍光灯といえば、ホームの照明は、すでに蛍光灯です。さらに、跨線橋もセメント製の新しいものになっています。昭和40年代とはいっても、全てが全て古めかしいものだったわけではないのです。逆に、ある程度の新しさを同居させることが、昭和30年代以前の風景と、昭和40年代の風景を作り分けるポイントといえましょうか。よく見ると、鯉のぼりは外されたものの、柱と鉄片の飾りが立ったままになっています。時期は1973年の5月下旬。鯉さえ下ろせば、意外とそのアタりは鷹揚だったんですね。


吉松を発車して見えてきたのは、国労の吉松支部の建物です。組合活動の牙城だった旧国鉄では、組合支部の建物というのも、ある程度大きな現業部門にはつきものでした。その善し悪しや支持するしないはさておき、北海道ではおなじみの「団結号」などとともに、今となってはその時期の国鉄を象徴する風物詩であることは間違いありません。その奥に並ぶのは、官舎でしょうか。手前のヤツは、いかにもそれっぽい感じですが、さらに奥にあるヤツは、公団住宅のようなコンクリート造りの陸屋根です。よく見ると、屋根の上にはUHFのアンテナが。そういう時代感なんですよ。生垣の脇に停まっているのは、三菱の軽自動車ミニカでしょうか。こうやって見ると、360の軽はホントに小さいです。


ほら出た。保線用モーターカー。これで盛り上がるのは、根っこがナローファンのヒトですね。確かに線路はサブロクですが、このレールのヘロヘロ度は何ということでしょう。これ、30kgですらないんじゃないのかな。ぼくは「そっちの趣味」はないので、これ以上の詮索はその道の達人におまかせします(とはいえ、ナローの記事で70年代のTMSに掲載されたという「黒歴史」はあったりするのだが)。しかしこの時代は、こういう保線用車輛は、続行とかで線路閉鎖せずに走らせちゃってたんですよね。イザという場合は外せばいいということで。大らかな時代でした。これ、場所は矢岳駅だと思うのですが、確証はありません。でも、真幸や大畑でないことは確かなので、きっとそうです。ここまでの3カットは、例の高校の修学旅行の途中、同じ日の撮影です。


国労が出てきたからには、やはり動労も。鬼の動労と恐れられた、革マル派の巣窟、国鉄動力車労働組合。宮崎機関区の動労支部の建物です。こっちは旗が立ってますね。この建物、宮崎駅から見て機関庫の手前にあるので、ホームから機関車を撮影していて「写っちゃった」人は多いと思いますが、わざわざ記録に残した方は少ないんじゃないかと思います。でも、この時期にはなくてはならない記録でしょう。無煙化される機関区は合理化反対闘争の牙城でもあり、この次の年蒸気廃止寸前に撮影に来たときは、合理化反対の春闘と春の嵐の襲来が重なって日豊本線が完全にストップしてしまうという、とんでもない体験をしました。ちなみに手前のトラ55000は、蒸気機関車用の石炭を運んできたものです。1973年4月の撮影です。


組合ネタが多いので、またも組合ネタで押して行きます。志布志機関区の、動労の掲示板です。内容を読んでみると、参議院選挙での動労推薦候補の当選御礼のようです。特にこの時の参院選は、動力車労組委員長の目黒今朝次郎氏が社会党から全国区で出馬し、初当選を決めただけに、ヴォルテージの上り方も半端ではないようですね。それはさておき、左側は石積み土台の給水塔、右側の電柱は変圧器の台座です。足元に密生しているバランが、いかにも南国を思わせます。南九州には、野生のバランがありますから。それにしても、ここにもまたヘロヘロな線路。特に、枕木の間隔は、もはやナローですね。ほら、そこのあなた。ヘロヘロ線路で萌えないように。TT9でローカル線をやるなら、N用レールではなくPECOのHOe用のレールを使った方がいいかもしれません。1974年7月の撮影です。


これはおなじみ、後藤寺駅の信号所です。手前が日田彦山線/田川線、裏側が後藤寺線という位置関係で、両者を見渡せる三角地帯にありました。これも、蒸気撮影のついでに写っているというヒトは多いんじゃないでしょうか。でもこのカットは、分岐器/信号駆動用のロッドの半端ない様子を記録したくて撮影したものです。明らかに、模型の資料にしたくて撮ったカットです。ポイントのところで線路をくぐっているところをよく見ると、このために枕木を一本抜いてあります。建物の土台を見ると、リンクのロッドが外された跡がありますから、もとはもっと多かったんですね。全て、アナログ・人力でやっていたのですから、ホントに恐れ入ります。脱帽。


最後に、ちらっと蒸気の姿が入ったカットを。知られざるスイッチバックでおなじみだった(なんか矛盾してますね)、日田彦山線呼野駅。タブレット閉塞機が並べられた取扱室の窓越しに、D51の牽引する、上りのセメント用ホッパー車(ホキ3500でしょうか、私有貨車はよくわかりません)専用列車が側線に入って交換待ちをしている姿が見えます。1973年4月の撮影です。スイッチバック廃止直前の姿はイザ知らず、蒸気現役時代の呼野駅の写真はあまり見ませんね。日田彦山線も、筑豊地区の蒸気路線の中では、撮影に訪問したのはずいぶん後回しになり、筑豊本線系統が無煙化されたこの時が、最初で最後の訪問となりました。



(c)2012 FUJII Yoshihiko


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