貝島のコッペル31号機 -1974年7月-


今回より、この「記憶の中の鉄道風景」のコーナーは構成を変え、ブローニーのカラーポジで撮影したワンカットと、それにまつわる思い出を語るシリーズといたします。末期は35oモノクロを持たず、ブロニカにカラーポジ一台で撮るようになってましたので、けっこうカット数はあります。おまけに写したままで、そういうカットがあったことすら忘れていた写真も結構あります。ということで、これからもお付き合いください。 九州は都合7回撮影旅行に行きましたが、やはり主目だったのはC55・C57というライトパシフィック。これらの機種が現役だった間は、まだ撮ったことのないシーンや機番を撮影しようと、旅程はC55・C57が活躍する線区中心で組むのが基本でした。そして1974(昭和49)年4月。南九州に残っていたパシフィックも、鹿児島機関区に配属され宮崎と都城の入換用に残されたモノだけになり、本線上からは姿が消えました。その後、74年の7月には九州に最後の撮影旅行に行きます。この時点で蒸気機関車が残っていたのは、志布志線、日南線など、それまでは日豊本線や吉都線の方に行ってしまい足を運んだことのなかった線区を中心にまわりました。とはいっても、もう大学生になっていたし、この時の旅行は撮影一本やりではなく、たびたび九州に行ったワリには今まで行ったことのなかった観光もしながら九州を回りました。 そんな中で、北九州で足を延ばしたのは、これまた知っていて行きたかったものの機会ののなかった貝島炭鉱。けっこう交通の便の悪いところにあるので、行くとなると一日仕事。ということで博多からバスに乗って、アルコとコッペルを訪ねました。



貝島炭鉱自体は、露天掘りという比較的コスト優位性のある炭鉱だったこともあり、筑豊地区最後の炭鉱として1976(昭和51)年まで営業してしました。かつては広がった鉱区の中を、専用線が縦横に結んでいましたが、この時には筑前宮田と六坑の間だけになっていました。六坑には積込施設と機関庫があり、いかにも大きな専用線という感じで、モデラーとしても胸がときめきました。ここでは残っていたアルコの22号と23号、コッペルの31号32号と、残っていた機関車は全部撮影できました。はじめて見る大型のコッペルは、ナローの機関車とは全く違い、ドイツの近代制式機のようでエキゾチックな迫力に溢れていました。運よく筑前宮田行きの列車が走るというので、ちょっと歩いて筑豊炭鉱らしい沿線風景が入るところまで行き、撮影したのがこのカットです。




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