小海線の一日 -1972年7月-


SLブームと鉄道100年が重なり、空前絶後の鉄道ブームに沸いた1972年。まだ鉄道のロマンが国民全体に共有されていた時期でもあり、テレビでも「大いなる旅路」という鉄道を舞台にした大河ドラマがオンエアされたり、一般の人もカメラを手に蒸気機関車が走る線区に旅行に行ったりしたものである。そんな時期、関東圏ではすでに無煙化が達成され、首都圏から一番近い蒸機使用線区というと、関東の周縁に当る会津・只見線と小海線であった。どちらも会津、八ヶ岳と観光地に近いこともあり、かなり多くの方々が撮影に繰り出し休日ともなるとごった返していた。個人的には「山の中を小さな機関車がコトコト走る」情景はあまり好まなかったこともあり、泊りを入れないと撮影しにくい会津・只見線は最後まで行かなかったし、小海線も一日だけ日帰りで行ってお茶を濁しただけでだった。今回は、1972年夏の日曜日、前にも後にも一日だけ小海線に行った日の記録である(清里・野辺山はその後何度も行ったが、全てクルマ使用)。1972年の夏は、北海道をはじめそれまで行っていなかった路線を潰しまくるべく撮影に行きまくった上に、8月に父親の仕事の関係で米国に半月渡航していたので、一箇所については日帰りが限度だったということもあるのだが。なお、今回は偶然45・10改正の小海線ダイヤを見れたため、行程を正確に追うことができたので、それも入れ込んで解説したい。



この頃の小海線というと前夜から入って朝の下りの「野辺山高原号」をメインに撮影する人が多かったが、そこまで気合も思い入れもないので、朝一の中央線で小淵沢へ向かい、そこから1235Dで信濃川上に向かう。まずは信濃川上-佐久広瀬間で下り貨物193レを狙う。やってきたカマはC56144号機。しかし荷がなく牽引するのはワフ22000一輌のみ。それでも一応絵になるのがC56型式というところか。1/87 12mmのHO1067の登場当初、市販車輌は珊瑚のC56とワフ21000とだけだったのを思い起こさせる。それでもここは上り勾配なので、けなげに力行中。このカマには爆煙ではなく、このぐらいの感じが似合うと思う。


続けて、同列車の見返りカット。ワフは長鉄局小諸駅常備で、運用も指定された小海線専用車であることが標記から読み取れる。実はこの2カットはどこでどう撮ったか全く記憶がなく、バッタ撮りで有名撮影地でもないので考証に苦労するかと思ったのだが、このトンネルですべてが解消。信濃川上-野辺山間はまだ上り勾配が続くものの高原の内部に入っておりトンネルはない。逆に信濃川上-佐久広瀬間は、信濃川上の小諸側に一箇所だけトンネルがある。ということで、あっさり解決。しかし、C56のテンダーの幅と、ワフの幅ってこんなに違うのかね。改めてびっくり。


さてその後は信濃川上駅に戻ってきて、駅構内で佐久海ノ口で交換してやってくる上り貨物192レを撮影。次に野辺山までの移動で乗車する列車の時刻の関係で、こいつの走行写真は野辺山-清里間で撮ることにし、信濃川上では駅進入や入換シーンを撮影することにした。カマはC56150号機。また、有蓋車の歴史を示すようなこの編成がファン好み。X型のドアブレイジングが特徴のワム21000型式、最も標準的な鋼製有蓋車のワム90000型式、国鉄近代二軸貨車の典型といえるワラ1型式。鈍尻にワフ22000が控えている。いかにも模型ファンが好みそうな組合せが泣けるところ。実際にこういう編成があったんだからね。しかしこの30kgレール、信じられないヘロヘロさ。ナローだよなあ。


C56150号機の型式写真。長野工場持ちのC56型式は飯山線をはじめ豪雪地仕様のカマが多いが、中込機関区の小海線用のカマはキャブ屋根延長はあるものの、その他は比較的原型を残した仕様になっている。これは沿線が高原で寒冷地ではあるが、乾燥気候で積雪はないのでそれほど重装備が必要なかったことと、どのカマも戦時中に中込機関区に配属されて以来、一貫して小海線で活躍してきたことが関係していると考えられる。しかしLP405一灯の前照灯と、小さなグリップハンドル一つしかない煙室扉手摺りは、中込区のカマの特徴だが、なんとも見た目が寂しい感じ。LP403を装備した吉松のC5691号機の押し出しとは、全く違う形式のようだ。


2404D「急行八ヶ岳」で野辺山に先回りして、おなじみ野辺山-清里間のお立ち台で先程のC56150号機の牽引する192レを撮影。この日はモヤっていて八ヶ岳が見えない状態だったので、背景を気にせず純粋に列車を中心にした絵作りを狙う。こうやってみると全くもってジオラマだなあ。とはいえちゃんと作ると、この部分だけで定尺ベニア一枚分ぐらい必要になるし、必要になる木の数たるや諭吉さんがいくつあっても足らないレベル。得意の実写背景を使ったとしても、真横は圧縮のトリックが効かないので最低でも90p長ぐらいのジオラマになってしまう。いわんやレイアウトをやですなあ。


ますます午後のモヤが濃くなってきたところで、やってきたのは皆さんお目当ての8136レ「八ヶ岳高原号」。よく見ると線路脇にも撮影者がうじゃうじゃ。編成は換算を減らすべく、ナハフ10-オハ46-ナハ10の軽量トリオ。とはいえ乗客は満員で、夏らしくドアを開け拡げたデッキにまで人が溢れている。当時も今もそうだが、私はあまり写真に煙を求めないので、下り勾配で惰行している状態でも、全体のバランスが良ければ全然OKだったりする。まあ、模型は煙吐かないし。中込のカマは判別しがたいが、仕業から考えると、すでに撮影した144号機はまだ193レが運用中、150号機はこの時小淵沢なので、149号機か159号機のどちらかであろう。


さて、この日に小海線に行ったのにはワケがある。当時まだDD16も量産がはじまったばかりだったので、C56自体は簡易線区の貨物用としてまだけっこう残っていた。しかし、旅客列車を牽引することは少なく、それが見られる線区として小海線の「八ヶ岳高原号」は人気があった。だがこの日は、小諸から小海まで上野発で信越線から乗り入れてくる臨時急行「こうみ号」が走る日だったのだ。どちらかというと、こちらの方をメインに撮りに行った気がする。「八ヶ岳高原号」を撮ったのち「急行すわ」で移動すれば、ラストスパートの小海-馬流間でぎりぎり間に合う勘定。川沿いに走ってくる列車を、まずは望遠で押さえる。


レンズを付け替えて、近づいてきた列車を狙う。カマはなんと糸魚川機関区のC56125号機。とはいえ、夏場の多客時や野菜出荷時期には臨時列車が設定されるため、信越・北陸のC56使用線区からカマの借入を行うことが多かったので、決して珍客とは言えないのが面白いところ。125号機は中込のカマに似た比較的オリジナルに近い仕様ながら、標準型の煙室扉手摺りとAA6000準拠のいわゆる「型式入りナンバープレート」で、前照灯はLP405ながらちょっと重厚な迫力を感じさせてくれる。客車はオハ47-オハ47-オハフ33。真ん中のオハ47のみ青15号のようだ。この時代、急行用客車は基本的に青15号だったので、ぶどう色2号の客車が入ると、いかにも臨時という感じがする。



(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる