名残の蝦夷梅雨 室蘭本線栗山-栗丘間 その1 -1975年7月14日-


昨年から始めたこの現役蒸気最末期シリーズも、なんのかんの言って一年続いてしまっている。もうこうなるとシリーズ化ということで、例によってネタが尽きるまでこの線で突っ走るしかない。今回は、75年夏に行った最後の北海道撮影旅行から。この日はいわゆる蝦夷梅雨。7月の中旬から下旬になると、梅雨前線が本州から北上して道南から道央付近にかかるようになり、一週間ほどの雨季がある。「北海道に梅雨がないというのは、気象庁が北海道地区に対して梅雨入り・梅雨明け宣言をしないというだけで、梅雨前線はしっかり北海道にかかって雨を降らせる。しかし、「天気は俺が決める」とばかりの気象庁の上から目線度はいったい何なんだ。全く以て役人の思い上がりもはなはだしい。この時期はちょうど夏休みの始まりに当たるので、学生時代夏休みに入るや蒸気機関車を写すぞとばかりに喜び勇んで北海道に撮影旅行に旅立ち、連日雨に祟られたという苦い記憶を持っている同業者も多いことと思われる。そう、当時から蒸機の撮影者は北海道に梅雨があることをみんな知っていたのだ。



この時は観光と組み合わせて、室蘭本線とそれまで撮ったことのない夕張線をユルく撮影するというのが目的だった。北海道初日のこの日は例によって蝦夷梅雨。夕張線方面はただでさえ光線状態が悪いので、安易に栗丘にやって来たものと思われる。栗丘で降りて、手始めに場内信号機のあたりで下りの返空セキ列車を撮影する。牽引するのは岩見沢第一機関区のD51367号機。同機は1940(昭和15)年に日立笠戸で新製、函館機関区に配備されて以来、一貫して北海道、それも函館本線で活躍してきたカマ。この後、蒸機全廃を目前にして廃車になったため、この時期まで残ったカマとしては珍しく保存されていない。オリジナルと思われるAD66180準拠の煙室扉のナンバープレートが凛々しい。



続いておなじみのトンネルのところまで歩いてゆく。トンネルの付近には現役蒸気最後の夏休みとあってすでに同業者がわんさか。これでは国道をオーバークロスする辺りまでいっても、撮影ポジションの確保もままならなそう。ということでトンネルから出て築堤を走っているところで捉えることとする。雨足が段々と強まる中、やって来たのは下りの旅客列車。牽引しているのは岩見沢第一機関区のD51形式と思われるが、機番は定かでない。この時期になると検査期限で離脱するC57も現れる一方、すでに代替機はどこにもないので、無煙化までの間のつなぎとして旅客列車にもD51の運用が段々増えてきていた。ここからサミットに向けてのわずかな間だが上り勾配が続くので、カマを焚き力行に入っている。雨の中でドレンが派手に飛び散っているのは、ファンサービスもあるのかな。



三連続で下り列車がやってくる。前の旅客列車とほぼ同じ地点なのだが、アウトカーブ側からの撮影。こんどはトラ90000やレムなど多様な貨車を連結した車扱い貨物。これも標準型D51の牽引だが、光線状態の悪さもあって全く機番の比定は不可能。この時期になると、残存している機関車の数が限られてくるので、標準型D51といっても側面をとらえていれば、バイパス弁点検穴の形態やキャブの装備等からある程度類推もできるのだが、正面となると余程特徴的な位置にナンバープレートが付いている機番とかでないと、とても判別できない。おまけにもう今日は打ち止めにしようとでも言いたげなやる気の無さが、画面からも伝わってきてしまうなあ。



もう雨が強くなってきたので栗丘の駅に引き上げる途中で、上り貨物列車をひとまず撮影。出発したばかりなので、カマを焚いて力行中。給水ポンプもハイピッチで稼働しているので、給水加熱器の排気管からは雨のせいもあり、ドレンもかくやという蒸気が舞っている。最初のカットに出てきた、栗丘駅の場内信号の反対側。栗丘駅からは単線になるので、出発信号機はこの状態だと赤を現示。というわけで場内信号機は黄を現示している。雨も強くなって、なんか全体がぼやけてるなあ。そういえばこの3年前の夏、やはりこの時期(7月16日)に栗山-栗丘間で撮影したけど、その時も激しい雨だったことを思い出した。ぼくの中での栗丘の記憶は、蝦夷梅雨と切り離せないものがある。





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