雨の栗山(その1) -1972年7月16日-


さて、この一年間1972年7月の初めての北海道撮影旅行から、室蘭本線で撮影したメインカメラのカットを追いかけてきましたが、実は室蘭本線はもう一日撮影しています。もう「毒を喰らわば皿まで」という感じで、これも行ってしまいましょう。もう勢いですね。3日目はこれまた撮影地として知られた、栗山-栗丘間で撮影しました。ここは室蘭本線の岩見沢-室蘭間では珍しくサミットになっている区間。おまけにあまり北海道っぽくない景色で、本土のちょっとした峠越えのような雰囲気が味わえます。ちょっと冷水峠っぽいイメージもありますね。さあ、3日間を1年以上引っ張るこの暴挙。もうちょっとお付き合いください。



まずは栗山-栗丘間に向かう列車の中ですれ違った、岩見沢第一機関区のD51737号機が牽引する上り貨物列車。乗っている下り旅客列車を牽引しているのは、C57144号機。そのテンダを乗車中の客車内から捉えたカットは、<男の背中 -ドラフトと煙の香りの思い出・その2->で公開しています。この列車には苫小牧から乗りましたし、この次のカットは追分で入換中の9600型式の写真なので、苫小牧-追分間のどこかではあるのですが。線形からして沼ノ端より北側のようですし、国道が東側に平行していますから遠浅-早来間ではないかと思われますが、流石に同じような景色が続く路線なのでそれ以上の場所の特定はちょっと難しいようです。まあ、当時のダイヤがあれば推定できるとは思いますが。


今回の撮影は、全てサミットの栗丘側で撮影していますので、栗丘で降りて逆に戻る形で国道との立体交差のところまでやってきたようです。流石に記憶はありません。195kmのキロポストのところで最初に撮影したのは、岩見沢第一機関区のD51332号機が牽引する上りの貨物列車。機関車に続くトラの群れには、炭鉱の坑木に使う丸太が満載されています。北海道の炭鉱には欠かせない貨車といえばなんといってもセキが有名ですが、丸太を積んだ無蓋車や長物車もこの時期の北海道の炭鉱の名物です。332号機は新製以来北海道一筋のカマで、追分から函館・五稜郭、そして岩見沢第一とずっと道南の幹線で活躍しました。


さらに栗山側に進んで、上り線と下り線とが分かれてトンネルに向かう部分での撮影です。下り線をやってきたのは、鷲別機関区のD511098号機の牽引する下り貨物列車。ワム・ワラが中心の車扱貨物ですが、通風車や冷蔵車といった生鮮食品関係の貨物が入っているのが特色です。道央の都市が仕向地なのでしょう。ツムやレは、産地から専用列車を組成して大都市の市場へ繰り出す姿が思い出されますが、地方都市の市場向けに1〜2輌の単位で荷を運ぶこともけっこうありました。1098号機は羽越筋で活躍の後1960年に渡道し、鷲別と追分で活躍しました。しかし、さすがに鷲別のカマは汚いですね。この距離でもナンバープレートが読みづらいです。


今度は振り返る形で、上り線と下り線が分かれるあたりでの撮影です。滝川機関区のD51561号機が牽引する上りの貨物列車がやってきました。この日は降ったりやんだりという天気でしたが、このあたりからかなり本降りになってきたようです。ワム・ワラといった有蓋車中心ですが、コンテナを満載したコキも連なっていますので、根室本線経由で道央からやってきた貨物をヤード間直行で運ぶ列車でしょうか。多分本土向けの貨物が中心になっているものと思われます。こういう重要なロジスティックスも蒸気機関車が担っていたという事実には、改めて驚かされます。


続けてD51561号機を、至近距離のアップで。上り線はサミットに向かって登る形なので力行していますが、勾配は短区間ということもあり機関助士は投炭中ではなく着席していますね。同機は苗穂工場製で、北海道一筋の道産子です。函館機関区が長く、その後は滝川機関区で活躍し、現役蒸気機関車が終焉するころまで活躍しました。その後川場村のSLホテルで保存され、圧搾空気による動態復元の第一号となったことで有名になりました。しかし恒松さんが亡くなっため、動態保存は中止され、また静態保存に戻っているようです。故人の想いが伝わる長野工場仕様になったスタイルはそのままのようですが。


ほぼ同じですが、もうちょっと栗山寄りのところで次のカットです。やってきたのは岩見沢第一機関区のC57135号機が牽引する上り旅客列車。国道の路面を見ると、かなり雨も強く降っているようです。よく「北海道には梅雨がない」と言われますが、7月に北海道に撮影に行ったことのある人ならわかるでしょうが、そんなことはありません。本州が梅雨明けする7月の後半は、北上した梅雨前線が見事に北海道にかかって停滞します。7月後半は、北海道の雨季なのです。しかし、明治以降に開拓された北海道においては、この雨季を梅雨とは呼びませんでした。そう、北海道には「梅雨がない」のではなく、「雨季を梅雨と呼ばない」のが正解なのです。


これもアップのカットで押さえます。この区間は直線区間のように遠望が利くわけではないので、35oのメインとサブは列車によって使い分けて構図を変えています。カラーは全列車撮っているのですが、したがってモノクロではカブりはあまりありません。今や大宮の鉄道博物館に鎮座し、知らない人はいない存在の135号機ですが、この時点ではそれほど人気が高かったわけではありません。よく撮られていますから調子は良かったんだと思いますが、44号機とか若番の方が人気があったような。ほんと、土壇場での逆転という感じです。土壇場でもなぜか踏段改造を免れた57号機の方が、番号の面白さもあって人気だったと思うのですが。まあ、人生もそんなもんですね。




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