京の初夏、ひがな一日(その1) -1973年5月-


すでにこのシリーズでも何度か紹介していますが、高校の修学旅行は、今でも記憶に残る珍道中でした。これも前に触れていますが、その高校では、修学旅行のスケジュールは、かなりの部分生徒が自主的に決められるルールになっていました。そこで一計を案じて、「鉄」の同好会のメンバーがいるクラスではそのメンバーが、いないクラスでは息のかかったヤツが旅行委員に立候補することで委員会を乗っ取り、思いっきり我々が楽しめるスケジュールを組んでしまおうと策略したのでした。この作戦は見事成功、なんとも楽しいスケジュールを組めました。それだけではなく、旅行中にインフルエンザが流行し、発熱した生徒に教師が付き添って、東京まで連れて帰るコトを繰り返した結果、最後の日にはほとんど教師が生徒を管理することが不可能になり、完全に自主運営という「解放区」になってしまうというオマケまでつきました。その初日は、京都で一日を過ごすというもの。班ごとに自主行動で、計画を立てて見学とというスケジュールです。もちろん「鉄」の仲間は、史跡めぐりではなく、まる一日乗りと撮りに終始するスケジュール。その一日の行状を、何回かに分けてお届けします。



新幹線で京都に到着、旅館への到着時間や、途中の連絡方法を確認したら、自由行動の始まりです。まあ、この頃にはメンバーは何度も自分で撮影旅行に行っていますので、自由行動はお手の物。逆に、まとまって行動するほうが大変で、思いやられます。実際、すでにメンバーの一人は朝新幹線に遅刻し、午後から追いかけてきて合流という、スタートからとんでもない展開に。ちなみに、この時新幹線の車内で電話で呼び出されるという体験を、初めてしました。まずは、2系統の京都市電で河原町通りを上ります(理由は後述)。左手に土塀が見えますので、これは七条通りから河原町通りに入ってすぐの、東本願寺の渉成園のところですね。京都駅行きの2系統、1667号車とすれ違います。


ここからは、河原町通りを上ってゆくのにあわせて、シーケンシャルにネガのコマを追っていけばいいので、40年の年月を経ていても、比較的考証がしやすいのが助かります。街並が、段々都会っぽくなってきました。ちょっと先の通りの角に、京都銀行の大きな支店が見えます。順番からすると、五条通りの角のところにある、京都銀行の河原町支店でしょうか。規模の大きい地銀は、地元では支店の底地を持っていることが多いので、ビルに建て替えても、場所は変わっていないことが多いようです。向こう側から、京都駅行きの5系統、1931号車がやってきています。それにしても、この縁を入れた前面窓越しの構図、好きだったんですね。またやってますよ。


電車は、おなじみ四条河原町交差点にさしかかります。このあたりは、前々回のみやこへの道の行き帰り -1970年8月20日・21日-でも取り上げましたが、高度成長、列島改造で街並が大きく変化したこの時代でも、景色はあまり変化していません。京都の街並が大きく変わってきたのは、バブル崩壊後の90年代後半になってから、という気がします。さすがに繁華街なので、混雑はしていますが、平日の午前中なので、まだまだ余裕がある感じです。すれ違う京都駅行き2系統の1563号車と、先行する13系統たかの行きの2613号車の姿が見えます。


河原町通りでも、もっとも賑やかなあたりを進みます。まさに、前々回のカットで取り上げたあたりを、今度は車内から眺める感じです。路上には、日産ブルーバード、トヨタカローラ、コロナ、マークIIなど、タクシーだと中型ではなく小型扱いになるような車種があふれています。いまでもそうですが、京都といえば小型タクシーという印象が強いです。向こうからやってきたのは、「臨」の系統板を掲げた、934号車四条河原町行き。5系統の区間運転と思われます。934号車は、烏丸線廃止とともに廃車になった、ツーマン仕様の車輛。こうやって見ると、我々の見慣れた京都市電の顔つきとは、ちょっと違った風貌で妙な感じです。


もうちょっとだけ、北に上ってきました。丸善のビルが見えますから、河原町蛸薬師。四条河原町と河原町三条(縦横の通りの名前が逆になっているのが面白いですね)の、大体真中へんというところでしょうか。丸善は東京でも有名ですが、京都では、アカデミックな街だったことが影響して、古くから知的文化の象徴のように捉えられていたようです。それだかに、数年前に成りますが、丸善京都店閉店が京都のインテリの方々に与えたショックは大きかったようです。やってきたのは、京都駅行き5系統の2608号車です。こうやって見ると、それなりに京都市電は乗って撮影しているんですね。まあ、かつての京都の街では、トラム発祥の地だけに、市電がなくてはならない乗り物だったことも確かですが。


繁華街を抜けて、再び空が開けて広がってきました。「インテリアきたむら」とか、「大広京都支局」とか、はっきり読み取れる看板がありますから、昭和40年代に京都に住んでいたか、あるいはその時代の住居地図を持っているかすれば、用意に比定できるのでしょうが、こちらはそのどっちでもありません。こういうときには、あらゆる情報を味方につけるのが吉。写真を拡大してよく見ると、バス停・電停の名前が3文字ではありませんか。となると、この区間では「荒神口」しかありません。すれ違う電車は、またまた「臨」の系統板を掲げた四条河原町行き。これまたツーマン仕様の900形式のようですが、番号が今ひとつ読みきれません。一の位の下側が丸っこいようなので、当時残っていた車番からすると、933号車か935豪奢だと思われます。


さあ、目的地が近くなってきました。遠くに、河原町今出川の交差点がかすかに見えています。荒神口は過ぎていますから、府立医大病院のあたりでしょうか。前を行くのは、13系統たかの行きの、2613号車。四条河原町で先行していった車輛に、このあたりでまた追いついてしまった感じです。河原町今出川というと、条件反射のように思い出すのが「マツモト模型」。このときは、SLブームという時節柄、撮り専門のメンバーの方が多く、模型もやるメンバーは少数だったので寄ってはいませんが、マツモト模型、ユニバーサル模型を訪ねて、このあたりまで足を伸ばしたことも、一度や二度ではありません。


やっと、目的地につきました。加茂大橋の停留所で降りて、叡電の出町柳駅に向かいます。河原町今出川で、百万遍のほうにまがってほしかったので、わざわざ2系統に乗ってきたわけです。この日のプランは、京都のトラムとインタアーバンを乗りまくって制覇するというもの。当時、関西は「私鉄王国」という印象が強く、それぞれの会社が独自の個性を持っているのというのが、鉄道ファンのイメージでした。この1649号車が、いままで我々が乗ってきた電車で、降りてちょうど出発したところと思われます。ということで、次回はまだ京福電鉄だったころの、叡電が登場します。そんな京都の一日は、まだまだ続きます。



(c)2012 FUJII Yoshihiko


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる