京の初夏、ひがな一日(その2) -1973年5月-


さて、加茂大橋で市電を降りた我々は、次の目的地たる京福電鉄の出町柳駅へ向かいます。今でこそ京阪電鉄の鴨東線が開通し、大阪は淀屋橋から出町柳行きの特急が走っていますが、かつてはそうではありません。もともと、京阪電鉄本線の線路は、三条駅から三条通り右折し、京津線とつながっていました。都市間は郊外電車でも、街中は路面電車という、インタアーバンの基本に忠実な路線でした。当時は、叡山線は京福電鉄の路線で、三条に延長して京阪と接続を図る構想こそあったものの、基本的には出町柳で市電と乗り継ぐことで京都の街中に出る路線でした。1970年代の同線は、京都の街並同様、戦前の「電鉄」のムードを色濃く残す、当時としてもレトロな路線として、ノスタルジックな魅力があったことを覚えています。



出町柳駅の3号線には、デナ21形式の2輌編成が停車しています。先頭はデナ24号。昭和4年に、叡山線のルーツとなった、京都電燈が製造した車輛です。パンタグラフ化されたのは1978年ですから、当時はまだポール集電。とはいえ、もはや路面電車も末期の時代ですから、全国的に見てもポール集電はとても珍しいものでした。今では世界遺産に指定されましたが、町全体が博物館のような京都にふさわしい、古色蒼然とした電車に、思わずタイムスリップしたものです。


そんなホームの状況を、1号線に停車中の電車越しに覗いてみました。ガキのクセに、こういう写真が好きだったんですねぇ。この手の構図は、この頃よく撮っています。乗務員室扉もない上に、スタンションポールとパイプだけの仕切り。向こうに見える乗客のファッションや、駅名票の字体等がなければ、いつ頃の写真なのか、わからなくなってしまいそうです。窓枠の周りのリベットも、大時代的なムードを盛り上げています。一体、この電車の正体は何なのでしょうか。


ということで、ちょっと引きで撮ったカットで種明かしです。電車は、デナ500形式のデナ510号。元阪神の小型車831形式を、1964年に譲り受けた車輛です。これまた、昭和3〜4年に作られた車輛であり、京阪神地区の電鉄会社に共通するインタアーバン規格の車輛ですから、市電の車輛限界にも乗り入れ可能であり、京福電鉄でも他の車輛に溶け込んで、違和感なく活躍していました。しかし、こうやって見ると、ホームには若い女性の旅行客も多く、ディスカバー・ジャパンキャンペーンがスタートして、すでに「アンノン族」とか言われだしていた時期であることが偲ばれます。


デナ510号の正面を、アップで捉えます。東京でも、京浜急行や京成、京王など、インタアーバン的に路面電車と乗り入れを図った電鉄会社もありますが、東急、小田急、西武など、最初から郊外電車スタイルで開業した民鉄のほうが多く、関東人にとっては、標準軌のインタアーバンスタイルの電車は、エキゾチックな印象があります。特に京福電鉄の車輛は、いわばポール集電に「復元」されているので、ますます昔の姿を思わせる魅力があります。しかし「喫茶店」に代表されるような阪神の小型車、見たことも撮ったこともないのかと思っていたら、ちゃんとチェックしていたんですね。全然忘れてました。


一旦ホームから出て、デナ510号の八瀬遊園行きが、出町柳駅を出発するシーンを撮影します。まあ出発といっても電車ですので、蒸気とは違い、スチルにしてしまうと、コレといった特色はないのですが。それよりこのカットのポイントは、雑然とした勝手口的な雰囲気でしょう。妙にポールの電車とマッチして、得もいわれぬムードをかもしだしています。一般のヒトからすると、ただちらかっていて汚いだけかもしれませんが、ジオラマ屋さんからすると、このような雰囲気がたまらないのです。我ながら、よく撮ったと思います。文字通り、自画自賛ですいませんが(笑)。


さて、そのまま駅構内の外れにある側線まで行くと、なにやら「ゲテ」な車輛が停まっています。というより、こいつが気になったから、外を廻って側線の方に向かったというほうが正しいでしょう。知るヒトぞ知る叡山線の人気者、デワ101です。これまた昭和3年に、木造単車を改造して作られた車輛です。まずは定番というか、模型化図面を起す事を考えた、真横の写真から。荷台の側板をおろしている上に、手前にトロッコが2台あり、肝心の二軸台車が見えませんが、上廻りはバッチリですね。


今度は、斜め前方から全体を押えます。こうやって見ると「デワ」とはいうものの、荷台は完全に無蓋車そのものの構造であることがわかります。製造当初から、こういう構造だったようなので、ある意味「屋根があるからワ」という、こじつけの確信犯なのでしょう。その屋根を支えるトラス材も、なかなか魅力的なアクセントになっています。70年代当時の模型ファンのセンスからすれば、トロリーファンならずとも模型にしたくなる車輛ではあります。もっとも当時はトラクションモーターがなかったので、この手の車輛は、16番で作るのはほとんど不可能だったんですけどね。


近くによって、ディテールの撮影です。ポール集電もそうですが、木造車・単車というのも、すでに貴重な存在で、マニア心を大いにくすぐるところがありました。それぞれのディテールも、電車として走るのに必要最低限という感じのシンプルさで、ある種、軽便趣味に通じるワビサビの世界があります。そういう関心からは、このへろへろの線路、20kgとかそういう感じですね。標軌のへろへろ。めったやたらと線路間隔が広く見え、まるでブロードゲージのような感覚です。多分、明治時代の電車はこういう感じだったんでしょうから、当時の人が「広軌」と呼んだ気持ちも、わからないでもありません。


正面図もおさえます。正面のディテールのアップ。こうやって見ると、正面は、腰板に木目が見えず、木造鋼板張りであることがわかります。前照灯も、よく見るとこれ、LP42じゃないですか。大きさの感じから、LP403かな、と思ってしまいますが、そのぐらい「小顔」だということです。標識灯もガイコツ形じゃない、ワリと近代的なスタイルのヤツがついています。ということで、ご興味のある向きは、ぜひこれを資料として、模型制作にトライしてみてください。


最後は、宝ヶ池駅に停車するデオ200形式、鞍馬行き。ナンバーは今ひとつはっきりしませんが、拡大してみると、デオ202号ではないかと思われます。戦後の車輛なので、出町柳で見た、昭和初期に作られた三輌に比べると、ずいぶん見慣れた感じがします。一番線、八瀬遊園からやってくる出町柳行きのホームから撮影していますので、この時は、叡山線は、宝ヶ池まで乗車して、折り返したようです。高等学校の修学旅行の初日、京都の自由行動での珍道中は、まだまだ続きます。



(c)2012 FUJII Yoshihiko


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる