京の初夏、ひがな一日(その4) -1973年5月-


延々とお送りしてきた、40年前のある初夏の日の京都も、これで4回目。いよいよラストです。厳密に言うと、朝、東京を新幹線で出発して、その日の午後が京都の班行動の時間ということになっていたので、電車に乗りまくっていた時間は、たかだが半日。それで4回引っ張るのだから、まあ濃い一日だったこと。でもまあ、鉄道趣味というのは、いつでも時間との戦いですからね。あの西尾克三郎さんも、「もう4〜5年早く生まれていれば、空制化前の古典機が撮れたのに」と残念がったそうですから、自分に残された時間を120%生かしたいという欲望は、趣味人としてはナチュラルなものなのでしょう。前回の「嵐電」嵐山駅のつづきからスタートですが、今回は「補遺編」ということで、修学旅行時のネタの中から、京都以外のものも含めてお届けします。



嵐電の嵐山駅からは、観光地にも寄らずに、阪急の嵐山駅に向かいます。阪急の嵐山線は、阪急の路線の中では、複線→単線化とか、古い車輛が専用で運用されるとか、「メジャーなローカル線」として知られていますが、それは当時から変わっていません。かえってこの数年の方が、嵐山のメジャー観光地化をうけて、本線直通列車や、専用観光列車の運行など、脚光を浴びているかもしれません。この当時は、一形式一編成の210系、211-261-212の3輌編成が、嵐山線専用の車輛として運用されていました。まずは、その編成の嵐山方の先頭車、212号の嵐山駅1番ホームでのアップから。


ちょっと角度を変えて、編成全体を捉えます。210系は、廃車になった電動貨車3000形の電装部品を使い、610系に似た新造車体を載っけて1956年に製作された車輛で、最初から支線用という、ちょっとわびしい電車です。1976年には廃車になってしまいますが、両先頭車は広島電鉄に譲渡され、1080形として1989年まで生き延びていました。この数年前までは、阪急唯一の「流線型」として知られた200系も、嵐山線の専用車として運用されていました。嵐山駅のホームは、鉄骨トラスの上屋など、比較的変わっていないといえるのではないでしょうか。なんか、今の方がかえってレトロ調になってしまった感じもしますが。


さて、嵐山線に乗車して、桂駅で乗り換えです。その時間を利用して、桂駅側の先頭車211号をトップにした形式写真を撮影しました。この桂線用ホームは、本線用のホームから形式写真を撮りやすいので、目にする210系の写真の多くが、この構図(あるいは、反対側の212を先頭とした構図)ですね。この時点では、すでにワンパンタ・引き通しになっていることがわかります。ぼくらはこのあと、阪急で四条河原町へ向かい、そこから徒歩で鴨川を渡って四条駅から京阪電鉄に乗車。京阪は丹波橋で下車して近鉄京都線に乗り換え、京都駅に向かうという行程を取ったのでした。これで、京都市内の電車は完全制覇ということになりますが、京阪・近鉄はもう夕方ということもあり、写真がありません。あしからず。


ここから先が、今回の補遺たる由縁。いわば、ボーナストラックです。この修学旅行のデスティネーションは、九州一周。すでに、高千穂線の写真や、宮崎駅の写真等、このコーナーでもその途中で撮影した写真はいくつか発表していますが、まあ、「鉄」仲間で修学旅行委員の過半数を独占し、勝手に日程を決めてしまったのですから、尋常でない行程もいっぱい入っています。これもその一つ。大畑のループ線を行く、「急行えびの」の車窓風景です。キハ58、キロ28、キハ65と連なっているのが、ディーゼルファンには急行全盛時代を思わせてグッときます。この頃は、16番でキハ65っていうと、あのシナノマイクロ製のバラキットしかなかったのですが、気合で作りましたよ。懐かしいなあ。まあ、こんな列車に乗って、こんな路線を通る修学旅行というものねえ。おして知るべしです。


で、補遺の真打ち、鹿児島市電の登場です。鹿児島は、蒸気機関車の撮影ツアーで何度か通っていますが、みな乗り換えの都合で早朝か夜かだったので、市電の写真はこの2カットしかありません。まずは、上町線、長田町付近を行く、2系統清水町行き。車輛は大阪市電から譲渡された、800形830号。しかし、この写真の撮影地を比定するのは、苦労しました。次のカットから、上町線のどこかというのはわかるのですが、なんせ記憶がありません。しかし、特徴的な交差点の形から、長田町付近の交差点と判断しました。この付近には、有名な鹿児島本線との立体交差があり、そこで撮りたかったのかと思いますが、残念ながら、時間との関係で撮れていません。しかし、上町線もすでに廃線になっていますから、これも貴重な記録でしょう。


諸久さんの写真展の影響というワケではないのですが、この「ひがな一日」シリーズも、「路面電車に始まり、路面電車に終わる」展開になってしまいました。最後を飾るのは、上町線・大学病院前電停での、2系統郡元行きの800形821号です。大学病院前は、その後私学校跡と停留所名が変更になりました。この写真でいうと左側が、その私学校のあった鶴丸城址です。そしてドン突きが、城山をバックに薩摩義士の碑。そこから線路は右にカーブして専用軌道になっていました。こうやって見ると、なかなか鹿児島市らしいところで、ワンカットものにしていたんですね。全く記憶にありませんが、ネガが事実を伝えてくれます。病院の入り口に駐車しているダイハツのオート三輪も、マニア向けですね。



(c)2012 FUJII Yoshihiko


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる