企業と情報化




いままでの人類の歴史で見るならば、どんな分野においても、表現をするのに修練を必要とするような、いわば「敷居の高さ」みたいなものがあったことは、歴然とした事実だと思います。

だからこそ、センスを持っていても、充分にそれを発揮できなかったヒトも多かった一方で、センスもないのに、過去の表現例の知識をいっぱい持っていて、手先のテクニックだけで、さも自分がすごいことができるような顔をして、威張ってた人も多かったのでしょう。

ところが、ハイテクのすごいところは、こういう徒弟制度みたいな「敷居」を、一気に打ち破ってしまったところにあります。たとえば音楽でいえば、たぐいまれな音楽のセンスがある人なら、楽器の練習をしなくても、自分の音楽をクリエイトするチャンスがいくらでも得られるようになったわけです。

もちろん、機械を使うというのは、センスがあろうと、センスがなかろうと誰でもできることですが、それを使ってできた作品は、あまりに歴然と、その人のセンスを反映しています。例えてみれば、足で移動する限り、どんなに鍛えても瞬間で時速40キロ、持続するなら時速20キロ程度しか出せません。でも、原チャリ使うだけでも、この限界は簡単に破れます。ただ、その先その乗り物をコントロールしてどれだけ速く走れるかは、F-1レーサーのように、反射神経とか、動体視力とか、リアルタイムの読みとか、個人の能力の差がよりはっきりとついてしまうようなものです。

産業革命のときの「機械」は、手足といった、筋肉のところで起こった変化なので、比較的この問題は意識されませんでした。人間はどちらかというと筋力は非力な動物だったからです。しかし、情報革命のハイテク機器やネットワークは、人間のアイデンティティーともいえる知的能力のところで起こるだけに、人間により厳しいものとなります。

世の中には、パソコンを使うことに対して抵抗したり、不要論を唱える人がいます。不要論を唱える人はさておき、抵抗する人は、はっきりいって、「自分がパソコンを利用する目的のない人」だと、ぼくは認識しています。自分の知恵を出す能力がなく、過去の他人の知恵を整理してまとめるだけの人とか、そもそも延髄から下の機能しかない人とかです。

今までの、高度成長期までの日本のホワイトカラーは、すべて事務作業を人海戦術でやるためのものでしたから、こういう人間も、使いようがあったのですね。驚くべきことですが。だけど、彼らがやっていたこと、彼らができることというのは、実は、パソコンでできることそのものです。彼らは、人間パソコンだったのです。

だから、彼らの存在自体がパソコンで置き換えられてしまうことを本能的に感じとって、抵抗しているのです。パソコンと同等以下の機能しか持たない人が、どうしてパソコンを「使える」のでしょうか。

自分のオリジナリティー、アイデンティティーを持っていて、表現したい世界がある人なら、パソコンなんて道具は、マスターするのは簡単です。たとえば楽器と、シーケンサーを比べれば、シーケンサーのほうが確実に1/10、下手すると1/100の手間でマスターできます。でも、目的がないヒトは、どうやってもマスターできません。そりゃ「操作」は覚えられるかもしれません。でもそれは「使う」こととは似て非なるものです。

生まれたときには、人間には一人一人、確かに個性と感受性があったはずです。だから、子供の頃には、美しいものを美しいと感じられたのです。だけど、人間は安易に流れるもの。だんだん、楽なほうへ楽なほうへとなにもしないでいるうちに、そういう「人間らしい能力」は、だんだん退化してしまうのです。

そして生まれるのが、パソコン以下の人間です。

そんな人、どうしてフォローする必要性があるのでしょうか。ほっとけばいいじゃないですか。それが、自由競争、市場原理でしょう。パソコンが使えなくったって、それは自ら安易な道を選んだバチです。負ける自由もあれば、勝つ自由もある。こういう競争原理が働くようにしておけば、まだ、最後の危機意識だけは捨てずにいた人なら、なんとか気づくでしょう。

ネットワーク社会、情報化社会って、こういうもんでしょ。
ぼくは、少なくともこういう議論が話題になり始めた10数年前からそう信じてきたし、ことあるごとに、社内外で、そう主張し続けてきました。

かつて「一人一台、分散処理」システムの導入を前提にした情報戦略立案のプロジェクトに関わったことがあります。そこででた結論は、「使わないのは勝手、それでデメリットがあっても本人の責任。ただし、自分が使わないからといって、使いたい人間に使わせないという行動はさせない」というものです。

パソコンなんて、鉛筆とか、サインペンとか、そういうレベルのもの。所詮は、なにかを手軽にやるための道具です。そんなにシャカリキになって、広めたり、啓蒙したりするようなしろものじゃないですよ。それは幻想。偉いのは、人間の能力。そういうものではないですか。覚めてかからないと、逆に広まりませんよ。

で、internetのバカ騒ぎも、多少は落ち着いてきた昨今ですが、世の中がネットワーク化されて、一番意味があるのはなにかと考えるには、良い日柄になったといえるのではないでしょうか。

ネットワークなんてのは、所詮はインフラです。その上に流れる情報は、送り手と受け手の関係においては変りません。小包だろうが、宅急便だろうが、相手に安くて確実に届き、それでサービスが良ければ、お客は誰が運ぶのかは問わないのと同じです。問題になるのは、インフラ間の競合です。今までのインフラそのものは、より良いインフラがでてくれば、簡単に取って代わられます。そりゃ、高くて、質が悪くてなんていうサービスは、誰も使いませんよ。

ビジネス分野でのinternetの影響の第一は、ここです。つまり、日本では企業の中に、人間メッセンジャーボーイというか、単に、データの伝達だけを受け持っている人が相当います。いわゆる管理部門での中間管理職なんて、すべてそうですね。これが、直感比率を悪くしています。もちろん中間管理職の中には付加価値を生み出している人間も多いですが、単なる人間インフラにすぎない人間も多いです。

こんな人間インフラに、OA研修したって無駄です。Ethernetのケーブルに、研修受けさせるようなもんですよ。そういう人にも、今までの経験の積み上げの中から、なんらかのノウハウはあるのでしょうから、新しいことを押しつけることよりは、そういう、「過去の資産を活かして暮らせる余生」を送らせてあげたほうが、幸せというものでしょう。

現状では過剰人員かもしれません。けれど、その人達は、いつか会社を去っていきます。その日まで、余生を送ってもらえる余裕がある間は、へたに新しい価値観を押しつけるより、みんなが幸せになれると思うのです。リストラせずとも生き残れる限界が見えたなら、多少の余剰人員は仕方ないのではないでしょうか。それをどうこうするよりは、残った人間の生産性をどうやって上げるか考えたほうがハッピーというものです。


講演資料(96/01)



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