西九州の追憶 その4 松浦線 1 -1971年11月-


今回も引き続き、ぼくの撮影旅行としてはイレギュラーな71年の長崎ツアーの記録からお届けします。長崎本線、佐世保線ときて、もう一つ早岐機関区の蒸気機関車の運用があった松浦線に足を延ばしました。松浦線は今でも松浦鉄道として第三セクタで存続していますが、入江と半島が連続する玄海灘沿いを、複雑な線形で縫うように一周する路線です。もともと海運の方が発達していた地域なので、そうとう無理をして線路が巡っており、それなりに風光明媚で人気もありました。元々軽便鉄道だったのを国有化しサブロクに改軌した路線ですが、比較的軸重が重いC11と8620が運用されていましたので、それなりの線路容量はあったものと思われます。



この日は、朝に佐世保線の重連を撮った後でやってきたのでしょうか。松浦線については一列車限定、基本的にワンポイントでの撮影、それも駅撮りと割り切っての対応です。その割に、タップリ撮れるようにという作戦だったようで、けっこうカット数は稼いでいます。ということで、まずは最初のカット、駅にアプローチしてくる8620牽引の貨物列車。特徴的な、比較的長いスパンの連続ガーダー橋を渡っています。松浦線にこんな橋は少ないので、わかる人はこれでもう場所がわかってしまいまうでしょう。橋が越えているのは、川ではなく江迎湾。だからスパンが長いんです。そして、この駅は江迎駅(現在の江迎鹿町駅)ということになります。


江迎湾の橋を越え、駅にアプローチする直線区間に進入した貨物列車。位置関係からすると、上りの貨物列車ですね。場内信号機の脇を通り過ぎようとしています。ある程度の距離があるストレートからY分岐で場内に入るというのは、ある意味ローカル線らしい風情がありますね。模型のレイアウトに取り入れたい情景ですが、模型にするとガーダー橋はせいぜい2連だし直線区間も30pが限度。それ以上だとデカくなりすぎてレイアウトに収まりません。根本的に冗長感が違う。ここが難しいんですよね、平凡な田舎の風景ほど。このネガも劣化が激しいんですが、日中の撮影の分画像が残っており、まだ景色とか様子が見取れますね。


ポイントを渡り、駅構内に列車が入ってきます。牽引機は関さんのK-7タイプ小工デフを装着した、早岐機関区の48647号機。おなじみ、1969年の長崎国体でお召列車を8620型式が重連で牽引したときの、前補機になったカマです。それにしても、ワンポイントでよくこのカマがきましたね。佐世保線での小工デフ同士のC11とC57の重連といい、この時はなかなかに引きが良かったようですね。今から見るとヘロヘロの線路に見えますが、当時としてはわりとキチンとした規格です。それにしても、駐車場に止まっている青いクルマ。ピックアップ・トラックですね。日産ブルーバードベースでしょうか。乗用車をベースとしたトラックが、当時は販売されていたんですよ。


線路をオーバークロスする歩道橋からの撮影だったようで、振り返って駅の構内の俯瞰撮影。列車はワム4輌とヨの5輌編成。いかにも模型的です。江迎駅は、急行列車も停車する線内ではメジャーな駅。貨物の出荷量も多かったようで、貨物ホームもそれなりに充実してます。写真としての面白さはさておき、駅の情景の記録としては、こういう写真はジオラマ屋さんからするととても貴重です。おまけに画質が悪くてもカラーというのは、価値が高い。貨物ホームの脇にコンテナが一つ置かれていますが、この時期はこういうローカルエリアでも、すでにコンテナによる出荷が広がっていたことがわかります。かなりのローカル線でも貨物の出荷のあるところでは、コキを連結した貨物列車を目にすることが多かったですからね。


今度は、その貨物ホームのところに行って、入換シーンの撮影です。当時の車扱貨物は、貨物出荷のある駅ごとに、貨物列車を牽引してきた機関車がこまめに貨物側線で入換をしながら走っていました。小さい駅では、車掌と乗務員だけで入換をしてしまいましたが、江迎駅は比較的大きな駅と見えて、駅の助役と構内係がちゃんといて、入換の指示をしています。貨車も、ワム90000、ワラ1、ワム80000といい感じにデコボコしていて、楽しめます。それにしても、一番手前と4輌目に連結されているワム80000。すっかり煤で燻されて、真っ黒にウェザリングされています。当時は、こんな感じだったんですね。貨物ホームの周辺の状況もよくわかります。


機関車に近寄って、アップで撮影します。二つ並んだ主本線・副本線の出発信号機が、どちらも停止を現示しています。腕木式信号機は、デフォルトの定位が停止で、わざわざ切り替えなくては、反位の進行になりません。進行を現示させるというのは、それ自体意味を持ちますから、ジオラマを作るときとか気を使ってくださいな。よく見ると、60kmのキロポストも見えます。今回はすでにわかっていますが、撮影場所を考証するときには、キロポストは極めて確実な証拠になります。第三セクタになっても、駅中心の里程は線路の付け替えとかなければ行われていませんから、景色が変わっても場所を特定するエビデンスとしては重要です。


さらに機関車に寄って撮影します。このカットは露出が悪く、状態もよくないのですが、入換中で貨車を推進している状況であることはわかります。地上では構内係が手旗で誘導しています。こういう場合、機関士が振り返って首を窓の外に出し、直接構内係の合図を視認することも多いのですが、この時は機関助士の手が空いていたのか、手旗の確認と視認に入っています。こういうローカル線でも三人がかりで安全確認とは、いかにも国鉄末期という手のかけ方ですなあ。まあ、かつての官鉄、鉄道省といったマンコストを無視できた時代の手厚いやり方が、国鉄になってからも基本となっていたものの、いざ赤字になりマンコストの見直しをしようとなると、今度は組合が強くなりすぎにっちもさっちもいかなくなった様子が、こんなところからも見て取れますね。


48647号機も本線上に戻り、発車を待ちます。今、入換で貨物側線に押し込んだワム90000との並びをアップで撮ります。これも決して状態はよくないのですが、前回までのカットに比べると比較的「マシ」なようで、いろいろ機関車の特徴が読み取れます。2年前のお召牽引時に取り付けたステンレスの装飾は、まだまだ各所に残っています。デフレクタの縁取りは塗りつぶされて、ランボードの縁も白く塗られていますが、エンドビームの縁取りと、解放テコ、ツカミ棒についてはステンレスの装飾が残り、この時期でも大事に磨かれていたことが見て取れます。十文字ハンドルのついた丸穴プレートの煙室扉ハンドルも、磨かれ、輝いています。前照灯がLP42のままというのも、九州では少数派ですね。


ホームに残っていた列車に連結し、発車までの時を過ごします。前のカットよりはちょっと下がっているので、駅名票がはっきりと読み取れます。もうわかっているのですが、毛筆体で「えむかえ」とくっきり。48647号機は、高千穂線の未成区間の橋の上に現在でも保存されています。なんか、さらし者のような感じではありますが。大正期の機関車のパイプ煙突換装は意見が分かれるところですが、個人的にはデフ付きのカマには、パイプ煙突もいいんじゃないかと思います。まあ、九州ではパイプ煙突化した事例が多いんですよね。それで見慣れているということもあるかもしれませんが、特に小工デフのカマについては、パイプの方が好きだったりします。ということで、次回に続きます。


(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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