南の庫から 宮崎機関区'71冬 -1971年12月16日-


このところ、だいぶ寄り道も多かったのですが、再び王道復活。南の庫からシリーズもラストスパートということで、南九州の機関区風景をおとどけします。復活第一弾は、宮崎機関区から。東国原知事の就任以来「宮崎ブーム」が続いていますが、SLブーム末期も、パシフィック好きにとっては「宮崎ブーム」。田野-門石-青井岳間を何度も踏破した身としては、吉松と並んで気になる機関区でした。しかし、宮崎機関区は、南九州では見学・撮影許可がおりない機関区しても知られていました。とはいうものの、駅と並列に機関区施設があるおかげで、ホームからは撮り放題。したがって、比較的写真はよく見かけます。この時は通算三回目、日豊本線は二回目の九州撮影行ですが、前の時は直接青井岳駅に降り立ったので、宮崎駅での撮影は、この時が最初でした。



九州の撮影行といえば、45・10以降は、山陽夜行で九州へ入り、その日はまず筑豊地区で撮影、次に日豊本線の夜行普通列車である521レで宮崎入り(47・3以降は急行みやざきに格上げ)というのが定番でした(決めつけるヤツ)。宮崎到着は6時台なので、いかに西国・南国といっても、陽が出るか出ないかぐらいのタイミング。おいおい駅撮りは、夜明け前ということになります。そんな、まさに昇る直前の朝日をバックにした、宮崎機関区のC57199号機。九州島内では、炭鉱から直接石炭車で機関区まで石炭をデリバリしていたので、南九州には珍しく、セラの姿が見えます。それだけでなく、セフもいますね。延々、宮崎まで来てたりしたんですね。


続いて朝の撮影は、日南線用に配置されていた、宮崎機関区のC5692号機。92号機というと、日南線で91号機と重連で御召しを牽引し、その後もピカピカした姿で活躍していましたが、これはその前の「普段仕様」。給水塔、給砂塔、スポートという「三点セット」に囲まれた姿は、ジオラマ的な興味も深々です。さて、若さとは恐ろしいもので、夜行2日目なら、まだまだ元気です。3泊目を布団の上で過ごせば、体力も回復。この時はこれから2週間撮りまわりました。そういう意味では、受験のあった高3の時に、自粛しつつ行った、全部夜行の「0泊5日の弾丸ツアー」というのも、今考えればよくやったものです。


さてこの日は、高鍋付近と大淀川橋梁で撮影を行いました。青森から転属になり、日豊本線では初登場となるC61を狙うためです。夕方、この日の宿泊地である青井岳に向かうべく、ふたたび宮崎駅頭に立つと、もう一度、機関区にたむろするカマを狙います。運良く、お目当てのC61特集となりました。まずは、C6120号機。C61の宮崎機関区への転属は、46年10月ですから、この時はまさに転属したての時期。LP405の副灯も残っていますし、テンダの増炭板も、キャブ側に寄せる九州式ではなく、盛り上げて積んでもこぼれないようにする東北式のままです。九州らしいのは、密閉式キャブのドアを外してしまったコトぐらい。これは多分、機関区で外してしまったのでしょう。


実はこのとき、もう一輌C61がいました。鹿児島工場の配給車代用のワム50000を挟んで、後位に控えているのは、C6118号機です。18号機と20号機といえば、こりゃModelsIMON製のHO1067ですね。実は両方持っていたりするのですが。セラもワムもあるので、「なんちゃって写真」でやってみたいですね。それだけでなく、製品化計画時に、この写真をはじめとする両機の形式写真や細部写真を、資料として提供していますので、そういう「ご縁」も感じたりします。もっとも、IMON製の年代考証は、日豊仕様はもう少しあと、奥羽仕様はもう少し前、という感じなのですが。もっとも、九州のカマと、東北のカマは、皆さんが思っているより、意外と仕様が共通するところが多いのですが。


最後は、C6118号機の形式写真風カット。電柱やスポートがカブってますので、形式写真としては失格ですが、機関区風景としては臨場感もあるし、機関車のディティール加工だけではなく、機関区風景のジオラマ製作の資料としても使えそうです。この18号機と20号機、昭和40年代スタイルの蒸気機関車のディティール加工が好きなヒトからすると、「違いの作り分け」にゾクゾクするような、微妙な差があるのですが、そうでないヒトからすると、同じに見えてしまうのかもしれません。まあ、そんなモンですよね。18号機も同様に、青森仕様のままですが、このスタイルで運用されていた時期はそう長くないので、これはこれで、今となっては貴重なタイミングだったといえるかもしれません。



(c)2008 FUJII Yoshihiko


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる