南の庫から 宮崎機関区4 補遺編 -'73〜'74-


3度あるコトは、4度ある(笑)。ということで、宮崎がらみのカットで、前回登場しなかったモノを、「補遺」ということで取り上げます。基本的には、前回の1973年4月以降は、73年5月の修学旅行時、74年3〜4月、74年7月とさらに3回宮崎に足を踏み入れています。この中で、74年3〜4月の時は、カラーポジのみでモノクロを撮っていませんので、残りの3回から、いくつかのカットを選んでお届けします。



まずは、前々回の続きで、1973年4月6日の朝の風景です。昼のカットでも、夜のカットでも黙々と宮崎駅の入換をしていた、C57115号機。これからお役につくカットなのですが、なんとこの機関車、テンダーのナンバープレートがありません。当時、休車や廃車になった機関車でおなじみの、ペンキ書きのメモのようなナンバーさえありません。当然、前々回にふれたように、区名札も入っていません。転属はなかったので、大分機関区所属、宮崎機関区貸出、という扱いだと思うのですが、確証は持てません。カマそのものも相当に荒れていましたが、こういう状態のまま使われていた機関車もいたんですね。クルマなら、ナンバーなしだと違反切符切られてしまいますが。


次は、前回と同様、1973年4月6日夜のバルブ撮影。カマは、前回もチラリと登場した、南延岡機関区のD511095号機。3000Lの重油タンクこそ外していますが、LP405の副灯といい、密閉キャブといい、土崎工場持ちの奥羽本線仕様そのままのD51です。密閉キャブのドアも、この時点ではちゃんと残っていますし。折り返しのない、戦時タイプのまま鋼体化(?)したデフも、九州ではけっこう珍しい存在です。まあ、昔から東北と九州の間の転属は多く、補助装備はさておき、基本的仕様も比較的似ている部分が多いので、転属して時間が経つと、段々紛れ込んでしまう傾向が強いようです。


ここからの2カットは、それから2ヶ月ちょっとあと、5月に高校の修学旅行で九州を回った「ついでに」撮影したモノです。この時の写真は、このコーナーでもすでに何度か取り上げていますが、「鉄」な仲間が旅行の企画委員を独占し、ディープな日程をたてたので、途中でいろいろ楽しめるツアーとなりました。宮崎でも、駅近くの旅館に泊まったので、夕食前に駅に撮影にこれたという次第。そんな夕方の宮崎機関区です。仕業に備えて、給炭・給水の終わった機関車がならんでいます。先頭は、C6118号機。この時C61は、まだ18、19、20、28とみんな残っていましたが、検査期限の順に、夏から次々と廃車になってゆきます。次位はD51、その次はC57。また、ターンテーブルのところには、テンダの前照灯を光らせたC57がいますが、さすがにこのサイズだと、機種はわかっても、番号の考証はできませんね。


続けて、同じときに撮影したカット。宮崎駅貨物ホーム前で入換に励む、宮崎機関区のC5692号機。夕方で逆光という悪条件なので、画面が眠くなってしまっていてすいません。この時点では、御召し列車の牽引から一ヶ月以上経っているわけですが、テンダの縁取りや手すりなど、まだまだ御召し運用時の装飾が随所に残り、きれいに手入れされています。このカマは、この年の秋に廃車になってしまいますが、その時まで、宮崎機関区のペットのような感じで、きれいに使われていたようです。


雨中の都城駅で、入換作業を行う、鹿児島機関区のC57124号機。なんの変哲もない、駅頭の写真ですが、個人的には意味の多い一枚です。それは、これが日豊本線で撮影した、C57の最後のカットだから。撮影日は、1974年7月21日。この年の4月に、日豊本線、吉都線が無煙化され、蒸気牽引列車がなくなりました。しかし、宮崎駅、都城駅の入換用として、鹿児島機関区所属のC55、C57が、1974年末まで使用されていました。SLブームにギリギリ間に合った当時の年少ファンの中には、この運用で最後のC55をギリギリ見ることが出来たヒトも多いかと思います。この時点で九州では、伊田・後藤寺・糸田・田川線の9600、高森線のC12、湯前線の8620、志布志線のC58、大隈線・日南線のC11しか、蒸気機関車は残っていませんでした。このあとの旅程は、志布志線、日南線をはじめて撮影し、吉松で撮影した入換用のC12が、この5年間でなんども通った九州での最後に撮影した蒸気機関車となりました。



(c)2009 FUJII Yoshihiko


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