四条の煙が行き交う路 -筑豊本線 折尾-中間間 1971年4月1日(その1)-


この一年間、室蘭本線で撮影したほぼ「バッタ撮り」のカットを、これでもかこれでもかと展開してきたわけですが、さて次の企画はどうしよう。ベタなカットしか撮れないというところから、今回からのネタは北の室蘭本線に対して南の筑豊本線ということで、室蘭本線の「あそこの立体交差」から沼ノ端駅までと同様、当時日本で2か所しかなかった非電化複々線区間である、筑豊本線の折尾-中間間で撮影したカットの全公開にしました。この区間も列車数は若松方面と黒崎方面両方来るのでかなりの列車密度。おまけに平坦な市街地から郊外風景ですから、おいおいバッタ撮り中心にならざるを得ません。流石に二度行って飽きてしまいましたが、九州に入って最初の朝のウォーミングアップとしては、なかなかテンションが盛り上がる区間ではありました。とはいえ中3と高1の時の二回ですので同じ列車でもムダにカット数が多いのも特徴かも。当分これでお付き合いください。



折尾駅で山陽筋の夜行急行を下車し、名物東筑軒の「かしわめし」を朝飯用に購入し、筑豊本線の中間駅までを久々の撮影旅行のウォーミングアップがてら撮影しながら歩く。というのは、ある時代までの九州撮影旅行の初日の朝の定番といってもいいだろう。このパターンで撮影旅行をスタートさせた同業者も多いと思われる。海外の旅行や出張の時、目的地に着いた時には「言語モード」をチェンジできるように、デスティネーションの国のエアラインをあえて選び、機中から外国語に慣らしておくという旅の極意があるが、撮影の勘も取り戻すまでに若干時間がかかるので、たくさん列車がやってくるところでウォーミングアップできるというのは、けっこうポイントが高いのだ。


ましてやこの時はまだ高校に入る前。撮影の経験も少なかったので、なおさらモードチェンジが重要になる。筑豊本線はすでに二度目だが、折尾-中間間の複々線区間で撮影するのはこの時が初めて。若松方面からの本線と黒崎方面からの連絡線が並走し出す辺りで、この日最初のターゲットが登場。朝霧をついてやってきたのは、直方機関区のD6069号機が牽引する黒崎方面からの下り貨物列車。最初のカットではわからないものの、よく見ると列車はセフ1輌のみ。それでもけなげに力行中。バッタ撮りもバッタ撮り、単なるアップになっているワリには、霧が効果を発揮してそれなりに面白い絵になっているかも。


次にやってきたのは、若松方面に向かう上り貨物列車。牽引するのは若松機関区の49654号機。このカットは撮影場所が結構面白い。オーバークロスしているのは、国道3号線のバイパス。現在では4車線(この区間は折尾駅入り口交差点の右折車線があるので5車線)の立派な幹線道路になっているものの、この当時はまだ2車線分が開通したのみ。橋台はできているものの、現在の西行き車線用の橋梁しかかかっておらず、これを対面交通で使っていたものと思われる。国道3号線も、まだ鹿児島本線に沿って市街地内を走る旧道がメインだったようで、交通量もまばら。列島全体に近代化の槌音が響き出す時代の息吹が伝わってくるかのようだ。


同じ列車が近づいてきたところで、もうワンカット。バイパスの築堤をバックに急坂を駆け下りてきたところにあるスーパーカブのあんちゃんが通過待ちをしている踏切は、いかにも模型のジオラマのよう。この狭いスペースにいろいろな要素が詰め込まれているところが、いかにも地面屋の心をくすぐる。グーグルストリートビューで確認したところ、バックの石垣も、ホーロー看板がアクセントになっている平屋の家屋も、約半世紀を経た今も立派に現存している模様。ちなみに福北ゆたか線がメインラインとなった今では、この区間は黒崎方面の手前の線路が現存し、若松方面の線路は撤去されて空き地となっている。


見返りで49654号機をアップで捉える。49654号機は昭和初頭から九州で活躍し、田川線の最末期まで活躍したカマで、中高ランボード、リベットなしのテンダ、パイプ煙突など、九州の9600ならではの特徴に溢れている。ところでこの列車は、当時僅かに残っていた中小炭鉱からの出荷を集めたものと思われる。小さいながら専用ホッパを持っている炭鉱は直接セラに積載するものの、ベルトコンベア等の手作業で積載する炭鉱からの出荷は、積み込み作業がやりやすいトラを利用していた。トラもセラ同様17トンの積載が可能なので、実際の取引では同じように「一台分」としてカウントできたのであろう。


今度は若松方面から、下り旅客列車が登場。牽引するのは当時最後の2輌だけが若松機関区残って活躍していたD50型式。そのうちD50205号機が勢いよく力走している。同時に黒崎方面からは、キハ58系のディーゼル急行が並走してきた。位置関係がちょっと微妙だが、こんな複々線での並走シーンを撮っていたとは思わなかった。というより全く忘れていたのというのが本音。このあたりのバックの鹿児島本線と筑豊本線に挟まれたエリアは、その後再開発されて愛真学園の中高短大が建設され、全く違う風景になってしまっている。かつての姿をとどめたカットという意味では、この景色の記録も貴重かもしれない。


速度の差からディーゼル急行を上手くやり過ごして、下り旅客列車を難なくアップで捉える。D50205号機は、この前の年の夏に撮影に来た時も大活躍していて、けっこう調子のいいカマだったようだ。同じく最後の2輌の片割れである140号機は、動態保存されることが決まっていたせいか大事に温存されてあまり出番がなかった分、205号機の出番が多かったということかもしれない。朝霧も晴れて、朝日を浴びながら旅客列車を牽引する快走は、すでに希少だったD50型式の晴れ姿という感じさえする。完全燃焼で力行中の白いドラフトも、いかにも快調そうに輝いている。


最接近したところで、型式写真風に機関車をクローズアップ。205号機は九州入りしたのは1955年と意外に新しい。それ以降、長崎本線と筑豊本線で活躍してきた。パイプ煙突化されたのはかなり晩年のことで、43・10頃。それまでは化粧煙突が残っていたのが、すでにその頃現われていた蒸機を撮影するファンのレンズが捉えている。パイプ煙突についてはいろいろ意見があるとは思うが、このカマのようにD50型式でLP43とパイプ煙突の組合せというスタイルは、頭のところだけ見るとあたかもC53型式の幻を見るようで、昭和ヒトケタのモダニズムという感じもして、個人的にはけっこう好きだったりするのだが。




(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる