四条の煙が行き交う路 -筑豊本線 折尾-中間間 1971年4月1日(その2)-


筑豊本線の折尾-中間間は、直方がまだ煙の都だった頃は九州撮影旅行初日の定番。景色的にはたいしたことはなくバッタ撮りに終始してしまうのだが、久々に鉄道写真を撮影するウォーミングアップとしては複々線区間を次々と列車がやってくるこの区間は中々好適。大体朝から撮りはじめて、この区間を踏破して昼前には筑豊地区の違う撮影地へ移動というパターンが基本だった。とはいえこの区間を訪ねたのは、若松区のC55形式が現役だった都合2回のみ。さすがに飽きちゃうんだよね。まだまだ石炭輸送も頻繁に行われていた1971年の筑豊本線。第二回目をお届けします。



今回は、香月線直通の旅客列車からスタート。香月線は、中間駅から分岐するわずか3.5kmの盲腸線。もともと炭鉱の貨物線として開通したが、1965年に炭鉱が閉山してからは赤字ローカル線となり、JR化前の1985年には第1次特定地方交通線として廃止されてしまう。朝夕は鹿児島本線への乗り換えの便を図って筑豊本線に乗り入れ、折尾-香月間を往復する列車が設定されていた。これは若松機関区の88622号機が牽引する上り折尾行き。AC6425基準のいわゆる「形式入りボールド」のナンバープレートを正面に掲げ、人気があったカマだった。この区間はターンテーブルがないので、若松方面が正向、香月方面が逆行での運転であった。


次にやってきたのは、直方機関区のD6062号機が牽引する上り旅客列車。走っているのが黒崎方面への連絡線なので、鹿児島本線直通の門司港行きの列車である。当時から直方・飯塚方面から若松方面への乗客は少なく、小倉・門司方面の方が圧倒的に多かったため、筑豊本線の旅客列車も鹿児島本線直通の列車の方が多かった。この時点でD50・D60形式は九州が最後の砦となっていたが、直方機関区には19輌のD60が配属され、こと筑豊本線を中心とした運用においてはまだまだ主力機関車として、貨物に旅客に大活躍をしていた。D6062号機はD50229号機からの改造で、昭和29年の改造以来九州一筋、大分機関区から直方機関区と渡り歩いてきたカマ。


先ほどの香月線直通列車が折尾駅で折り返し、下り香月行きとなって戻ってきた。ハチロクに客車4輌という編成は、模型としても扱いやすいボリューム感なのでモデラー心をくすぐられる。88622号機は元房総方面で活躍していたカマで、1966年に若松機関区に転属以来、74年の無煙化まで香月線の運用で活躍し続けていた。廃車後は、なぜか長崎の壱岐島で保存されいる。88622は、九州に配置されたことのあるハチロクの中ではラストナンバーにあたる。目を黒崎からの連絡線のほうに転じると、すでに下り貨物列車が接近中であることが見て取れる。さすがの列車密度である。


見返りで88622号機をアップで撮影。なるほどデフは千葉っぽいタイプ。逆向運用があるので前部暖房管を装備しているのは、九州のカマらしい。九州では、鹿児島本線と長崎本線・佐世保線、日豊本線大分口を除くと、旅客はハチロク、貨物はキューロクの天下という時代が戦後まで長らく続いていた。そういう意味では九州を代表するカマの一つといえるのだが、この時点ではほとんどが貨物用か入換用となり、旅客列車を牽引するのは、この若松機関区配置のカマだけになってしまっていた。そういう意味では、本筋の旅客機としての最後の活躍を目にできる貴重な運用であった。オハフ33の車体に目立つリベットと、TR23の長軸車輪が時代を感じさせる。


先ほど遠くの背景にちらりとその姿を見せていたD60牽引の下り貨物列車が、続いて接近してきた。牽引するのは直方機関区のD6027号機。D6027号機はD50237号機から改造されたが、戦前から直方配置で、改造後も直方配置という珍しい経歴を持つ、いわば直方生え抜きのカマ。化粧煙突の上部の延長部分の接合部が錆びて隙間ができており、クルパーでもつけているように見えるのが面白い。福岡県立花町に保存されているようだが、状態はかなり悪いようだ。保存機の写真をみると、やはり隙間の開いた煙突をつけている。序機末期になっても化粧煙突をパイプ煙突に交換していた九州にしては珍しい。


今度は若松方面への線路を、若松行きの上り旅客列車がやってきました。牽引するのは若松機関区のD5142号機。九州らしいきれいな一次型です。この時点で若松機関区にはD50形式が2輌(最後のD50形式)とD51形式が3輌配置され、共通運用についていました。逆に直方機関区にはD60形式が集中して配置され、好対照を示していました。前年までは直方にD51がかなり配置されており、夏に撮影旅行に来たときに撮影していますが、45/10の大分機関区からのD60の大量移動で集中配備となったものです。列車以上に非電化複々線のスケール感を強調した絵柄になっています。まだ高校生になる前ですが、感動したんでしょうね。


直方機関区の49619号機が牽引する、上り貨物列車が黒崎方面への連絡線を走ってきました。セラ・セフで組成された石炭列車に見えますが、黒崎方面行きということは積荷は石灰石の方でしょう。この時点ではまだ産炭している炭鉱は筑豊地区にありましたが、積み出し桟橋は若松にあったので、同じセラでも仕向け先は若松方面になります。よくみると7輌目だけ増炭枠がなく車高がちょっと低くなっています。かなり数は少なくなっていたセム8000が混じっているものと思われます。セラとセムが混じった状態で運用していて、積荷の取引はどうなっていたんでしょうかね。貨車一杯単位じゃなくて、ちゃんと重量ベースでやっていたのでしょうか。これは疑問ですね。


近づいてきた49619号機をアップで形式写真っぽく捉えます。片持ち式の開放テコや、パイプ煙突、ちょいと横に構えた空気圧縮機のマフラー、煙室に取り付けたATS用発電機、ディスクタイプの十文字煙室扉ハンドルなど、九州の9600に良くみられた特徴を備えています。エアタンクが「前・上」タイプというのは九州でもそこそこいますが、決して北海道のようにメジャーではありません。ところがこの49619号機は、空制化の時期は新製以来の門鉄管内の配属だったんですね。ということは小倉工場での空制化改造と思われますが、小倉工場での空制化というと空制付きで新製された車輌と同じ「中・中」タイプがほとんどです。これもまた謎ですね。




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