四条の煙が行き交う路 -筑豊本線 折尾-中間間 1971年4月1日(その4)-


筑豊本線の折尾-中間間で撮影した2日間の全カットをお届けするこのシリーズも、やっとのことで第4回。ここにきて陽射しもしっかり入るようになり、線路に対して斜めの光線とはいえ、順光と逆光の差が激しくなっています。今回は折尾-中間間の複々線区間の中間地点にある、行き先別複々線から方向別複々線に移るための立体交差を越えて、中間駅側の方向別複々線区間での撮影です。方向別複々線は民鉄では急行線と緩行線というように比較的よく見られますが、旧国鉄では線区別のそれぞれ独立した複線が並んでいる区間が多く、ヤードの入り口とか限られた区間でしか見られません。ここと室蘭本線の沼ノ端から「あそこ」までの間ぐらいでしょうか。どちらも未電化複々線という旧国鉄では極めて珍しい路線だったというのも、何か不思議です。



まず若松方面の上り線にやってきたのは、若松機関区の29692号機が牽引する貨物列車。テンダのAC6425様式のローマン体の古式ゆかしい型式入りナンバープレートが、良く手入れされて光を放っています。九州ではテンダにAC6425様式やAA6000様式といった型式入りナンバープレートを装着したカマをよく見ました。これはどうやら、戦後AD66398様式のプレートに付け替えるとき残っていた古い様式のプレートをテンダに付け替えたのではなく、小倉工場でわざわざAC6425様式やAA6000様式に基づいて新たに鋳込み取り付けたもののようです。逆に正面に型式入りがついているカマの方が、元々のナンバープレートが残っていたものと思われます。


通り過ぎる29692号機を見返りで押さえます。というよりは、このカットはディテール研究用の準型式写真という感じですね。人気の高い「前上」エアタンクのカマですが、斜に構えたコンプレッサ排気管、リンゲルマン、三声汽笛、小工型キャブ吊り輪、キャブの点検穴、リベットなしテンダには増炭板と、よく九州の9600の特徴が捉えられています。前照灯もLP42のままでLP403に交換されていませんが、9600にはLP42のままだったカマもけっこういます。それだけでなく、1輌目のセフも真横から光線が来ているので、特徴あるホッパ下側の作用テコの構造などがよく見えます。こういうカットは模型を作る時に、本当に助かります。


今度は黒崎方面の上り線に、D60形式が現れました。直方機関区のD6046号機。こっちは立体交差で潜る方の線路ですから、そんなに頑張る必要もないと思うのですが九州のこの区間では珍しいぐらいの黒煙を吹きあげての大奮闘です。この黒煙をいかしつつ、次のカットでわかりますがちょっと他にも理由があったので、この当時は比較的珍しい「縦構図バッタ撮り」になりました。今では撮れるアングルが限られるので、真正面よりの縦構図というのはけっこうポピュラーになったので、この写真も違和感なく眺められますが、撮影した頃はなんか戦前の鉄道写真のような感じで見えたものです。


はい、通りすぎたところの見返りカットで種明かし。そう、単機回送だったのです。そのワリには無意味に焚きまくってますね。サービスだったのでしょうか。しかし、方向別複々線の右線を走っていますから、なんか右側通行のような感じ。そういう意味ではアメリカンなキャブとテンダを持つD60(D50)というのは、良く似合っているかもしれません。20立方米型の初期型テンダの特徴がよくわかります。D6046号機は、元D50157号機。D50時代とD60になって10年間は北海道で活躍しましたが、その後は九州に転じ予備機として筑豊の蒸機の最末期まで残ったという、変わった履歴のカマです。立体交差のオーバークロスのところには、なにやら対向列車がやってきています。


急いで立体交差線の築堤を駆け登り、先程チラリと見えた列車を撮影します。若松からの下り線にやってきたのは、若松機関区のC5557号機の牽引する下り貨物列車。若松埠頭からのセラの返空列車です。空車とはいえかなりの輌数を連ねており、末尾は築堤の彼方に消えて見えません。筑豊本線での機関車の運用はかなりフレキシブルで、D50/D51/D60といったD型機の牽引する旅客列車もたくさんありましたし、このようにパシフィックの牽引する貨物もありました。築堤部分の線路は交差部でなるべく直角に近い角度を稼ぐため大きくS字を描いており、かなりのカントがついていることが機関車の角度からわかります。


近付いてきたC5557号機をアップで捉えます。煙突に取り付けられたリンゲルマン・ステイは57号機の特徴ですが、この時はまだ本体のチャートが付いています。吉松に移動してからはステイだけになっていましたが、チャートがついているとなんとも邪魔くさい感じですね。若松機関区時代は、必ずしも57号機がC55の中で人気No1ではありませんでしたが、それはこのリンゲルマンが理由だったかもしれません。民家に掲げられた「名菓・千鳥饅頭」は、こりゃ琺瑯看板ではなく、モノホンの看板ですね。この家がお菓子屋だったのでしょうか。なんとも大時代的な感じがします。


続けて若松方面への上り線に、若松行きの上り旅客列車がやってきました。牽引機は若松機関区のC5553号機。51号機、52号機、53号機と若松機関区に揃っていた8-20テンダ振り替えトリオの一翼です。朝の通勤・通学時間帯の列車だけに、実車10輌。今となっては長大旅客列車として壮観な眺めです。蒸気機関車現役末期の頃でも、都市周辺の朝夕の旅客列車はけっこう長大編成が見られたもの。やはり他に公共交通機関がない時代だったのですね。このあたりは宅地造成中だったのでしょうか。高さ10m程度の小山ですが、半分崩されてなんかワイルドな雰囲気です。ウッドランドシーニックス製の石膏鋳型をつかった岩山のような感じで、ちょっとアメリカのレイアウトのようです。



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