キハ22の追憶 -72年夏-


HO1067の車輌、300輌目が「キハ22」だったのを記念して、このWebの鉄道関係コーナーは時ならず「キハ22ウィーク」と化していますが、「記憶の中の鉄道風景」も、これに便乗して、安易ですがキハ22特集という次第。ところが、チェックし始めたら、実は余りカットがない。当時の撮影行では、キハ22なんて「ケ」の「ケ」ですから、試し撮りか、余程の「実験的カットの素材」か、どちらかしかないんですよね。ということで、すでにこのコーナーで取り上げたカットを除くと、今回の5カットぐらいしかないというのが実情。これもまた、蒸気機関車現役当時のファン心理の実情ではあるのですが。



おなじみ、植苗-沼ノ端間の立体交差のオーバークロスを行く、千歳線・室蘭行き、キハ22 54号。いかにも「来たから撮った」という感じですが、その通り、見上げたら面白いカットになるかな、と思ってあまり考えずにシャッターを押したカットです。説明が入れば、みなさん「なるほどあそこか」を思うでしょうが、ノーヒントで当てられる人は、蒸気現役時代にかなり経験を積んでいるファンの方でしょうね。ところで、なかなかガーダー橋をこういう角度から見るチャンスは少ないのですが、こういう角度で見上げた経験があるヒトなら、16番の模型には違和感を感じるに違いありません。個人的には、ほんのりと見える白熱灯の室内灯が、旅情をそそります。1972年7月14日の撮影です。


このシリーズでは、やっぱりどこかに蒸気機関車が出てこないともの足りません。ということで、ちょっとカラメ手から、蒸気とキハ22の出会いのシーン。ぼくの乗っている列車がキハ22、すれ違う貨物列車は、追分機関区のギースルエジェクタ付き、D51742号機の牽引です。この頃の北海道の標準型D51というと、ほとんど特定番号に対する思い入れが持てない状態ですが、73年には廃車になってしまったカマです。撮影は1972年7月16日、栗山付近で撮影した帰りがけ。場所は、一番右側の線も本線に見えるところからすると、今一つ自信がありませんが、沼ノ端でしょうか。それより、さらに右端に見えるモーターカーのほうに興味を持たれる方も、ナローファンとかには多いかもしれませんね。


さて、ここから先の3カットは、いずれも大沼周辺、1972年7月17日の撮影です。まずは、砂原廻り大沼-銚子口間というか、これはまだ大沼駅のはずれといったところを行く、ディーゼルカー4連。これ、先頭はキハ21ですね。あと3輌はキハ22だけど。よく見るとこのキハ21、ヘッドライトのところが、いわゆる「九州塗り」じゃないですか。北海道でも、ヘッドライトの下を直線で塗り分けていたんですね。函館周辺は、北海道の中では比較的内地に近い景色をしていますので、かえって、キハ22が走っているのが妙な雰囲気です。これも、後の3輌までキハ21だったら、どこの撮影だかわかりにくいでしょうね。


ここからは、カラーポジで撮影したカット。要は「凝ってみた写真」の習作です。まずは、小沼の湖尻付近を行く、4連のディーゼルカー。これも先頭はキハ21ですね。まあ、渡島半島の太平洋岸は、北海道の中では比較的冬季の気候も落ち着いていて、かえって東北北部の日本海岸のほうが厳しいくらいですから、寒地仕様ではあっても酷寒地仕様ではないキハ21が、道内でも集中的に配備されていたというのも理解できます。色があるディーゼルカーだから、この光線状態でも絵になるのであって、これは黒い蒸気だったら、文字通り「色気のない」写真になってしまうでしょう。模型の写真を撮っていると、こういう点は大いに気になるところです。


最後は、これまた小沼湖畔を行く、またまたキハ21。キハ22って言いながら、キハ21のほうが多いじゃん(笑)。蒸気機関車末期のSLブームの頃になると、鉄道写真の領域でも、広田尚敬氏のようなカメラマンではなくフォトグラファーな写真家が現れ、記録性だけでなく、表現性の高い鉄道写真を発表するようになりました。まあ、この時ぼくは高校生ですが、70年代の高校生は背伸びしたい年頃。ちょっと格好をつけたカットも撮ってみたい、なんて思うワケです。とはいえ、本命の蒸気では、とてもそういう冒険はまだできませんので(最末期になると、けっこうやってしまったが(笑))、おいおいディーゼルカーがディーゼル機関車牽引の列車で、トライすることになります。これも、そんな「ガキが凝ってみた」カット。まあ、そんなことでもないと、一般型気動車のカラーショットなんて残ってないワケで。


(c)2009 FUJII Yoshihiko


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