大沼・小沼をめぐって -函館本線 大沼駅・大沼公園駅周辺 1972年7月18日(その4)-


1972年夏の最初の北海道撮影旅行。その最終日を過ごした函館本線函館口の大沼駅や大沼公園駅周辺を中心に撮影した一日を追うシリーズの4回目。ここまできてやっとお昼になり、少し夏らしい空気に包まれてきた頃に撮影したカットです。列車本数が多くなる時間帯ですので、今回はかなり効率的に撮っています。その分、有名な「お立ち台」に三脚を立てっぱなしで、数をこなしている感じもありますが。



「お立ち台」の丘に登る前に、線路レベルから小沼を見通したカットで下り貨物列車を撮影します。牽引機は五稜郭機関区のD52204号機。かろうじてナンバーが読み取れます。昼になって陽が出てきたこともあり、アップのカットはカラーポジに任せて、モノクロは引いて景色中心に撮影したものと思われ、これ以降寄ったカットはモノクロではありません。多分線路際なので、手持ちで35mmとブローニーをの持ち替えて撮影しているものと思われます。204号機はD52形式では唯一踏段改造の対象となった機番ですが、こうやって正面よりから撮る分にはあまり目立ちません。未電化複線にD52。これこそ蒸気が主役の幹線の最後の姿ですね。


丘の頂上にあるこのおなじみのお立ち台は、北を向けば大沼駅のバックに駒ケ岳が大きく控え、南を向けば小沼沿いに走る列車を撮れると、上り列車にも下り列車にもそれなりに「らしい」カットが撮れるポイントです。難をいえば構図に差をつけにくいというところでしょうか。次の上り列車はD52型式の牽引。カラーで正面からのカットを撮って、モノクロでは小沼沿いの見返りを狙いました。が、この列車。回送のD52が次位にぶら下がっています。無火ですし、テンダの石炭が完全に空っぽなので、検査からの回送でしょうか。事前にわかっていればもう少し撮り方もあったのでしょうが、俯瞰で狙ったのでは、無火回送というのがはっきりわかってしまいますね。


次は上り列車なので振り返って大沼駅の方を向いてポジションを取り直します。駒ケ岳もだいぶ見えてきましたが、頂上の「ツノ」は今日は無理そうですね。大沼駅を発車してきたのは、D51型式が牽引する上りの貨物列車。牽引機の比定はかなり難しいのですが、ナンバーの百の位はなんとか「1」と読み取れます。この区間を走行するD51型式は全て長万部機関区のカマですから、当時の配置表から100番台を調べると、146、147、148、150、163の輌が配属されています。このうち146号機は先ほど下りで撮ったばかりですし、163号機は煙室扉に通風用の穴が開いていますから、明らかにちがいます。そこで3機の見える特徴を分析して、150号機と判定しました。


ここからが、昼になって雲も薄くなり太陽光線も落ち着いてたところで、上りと下りのD52牽引列車が立て続けにやってくるこのお立ち台でのメインイベントになります。まずは小沼沿いに上がってくるD52型式牽引の下り貨物列車。牽引しているのは、現在は京都鉄道博物館で保存されているラストナンバー468号機です。この時点ではすでに梅小路での保存(当時は動態保存前提だった)が決定されていましたから、ぜひ現役のところを撮りたいカマでしたので、狙ったところで来てくれてうれしかったです。列車は前部車掌車が連結されていませんし、編成の半分弱が返空の冷蔵車ですので、連絡船から引き継いだ拠点間の直通貨物列車でしょう。


再び振り返って北の方を向き、駒ヶ岳をバックにしたお立ち台で挑みます。やってきたのは上り貨物列車。この時期、この列車は回送の機関車が次位に連結され、D52の重連で運用されていました。この時点では山線のニセコはC62重連牽引ではなくなっていましたが(C62はまだ現役で普通列車一往復の運用は残っていた)、D52型式は好きなカマですし、こいつはぜひ撮りたかったヤツです。駒ケ岳も雲に隠れて「ツノ無し」ですし、風向きが悪く煙が完全に列車にまとわり付いて次位の機関車も顔の部分しか見えていませんが、それでもD52の重連です。これが見れて撮れたというだけでもこの日は充分に満足感がありました。


これはありがたいので、この次の機関車のアップも載せてしまいましょう。こちらのカットだと、次位の機関車もエンジン部はバッチリ見えています。これならバッチリナンバーも読み取れます。前位が202号機、次位が404号機です。どうでもいいけど、倍数系列のキレイな数列の重連ですね。当時五稜郭機関区に配置されていたD52型式だと、204と404というのも悪くないし、404と414というのもありでしょうか。いずれにしろ404号機がカギですね。半世紀経ってはじめて知りましたが、これはなんかご利益がありそう。この区間は駒ケ岳を廻る勾配はあるものの、昔から単機で牽き切れる定数の編成だったので(藤城線ができる前は、後補機の運用はあった)、本来なら重連はあまり出てこない区間だけにいい思い出です。





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