大沼のDD51 -1972年7月18日-


ぼくがはじめて北海道に蒸気の撮影旅行に行ったのは、1972年の夏。蒸気の撮影旅行自体は、1970年の夏以来、機会があるたびに行っていたのですが、なんせ当時は、中学生から高校生になる頃。基本的に、夏休み、冬休み、春休みのタイミングでしか、旅行の日程は取れません。その一方で、次々と気になる路線の無煙化は進みます。おいおい、ヤバそうな線区のなかでも、自分が好きなカマが走る、好きな景色の区間で、未開拓の撮影地がありそうなところから、プライオリティーをつけて撮影に行くこととなりました。この間に、都合九州へ3回、関西へ1回、山陰に1回出かけてます。ということで、北海道はどうしても後手に回ってしまいました。72年の夏休みは、まさに鉄道100年の年ということもあり、小海線や羽越線の無泊撮影行をはじめ、心機一転手の回らなかった線区をつぶそうと駆け回りました。北海道も、その一環として、やっとその大地をふみしめることとなりました。とはいえ、北海道での撮影は、その晩年に、観光旅行の途中で日程を組み込んだのはさておき、実はこの1回しか行ってなかったりします。それでも、用意したフィルムを使い果たし、現地調達しなければならないほど、満腹感のあるツアーでした。そんなカットの中から、函館本線函館口の名撮影地、大沼周辺での若き日のDD51の活躍を選んでみました。まあ、この頃のDD51なんて「目のカタキ」ですから、撮ってないヒトのほうが多いのかもしれませんが。



大沼といえば、誰もが思い出すお立ち台。駒ケ岳をバックにした、大沼駅の出発シーンから。「あと一声」というか、頂上のみ雲がかかっているのが、ちょっと惜しいところですが、夏の大沼らしい感じは充分出てますね。列車は、鷲別区のDD51648号機が牽引する、ローカル貨物。各駅着発の車扱の貨物を、ヤード間で拾ってゆく貨物列車で、かつては貨物輸送の基本中の基本をになっていました。DL化というと、急客や急貨といった優等列車から、というイメージがあるかもしれませんが、この頃は、ダイヤはそのままで、D51の運用にそのままDD51を投入する、という感じで置き換えていたので、こういうドサ回りもこなしていたのです。


次は、いかにも夏の北海道らしい日差しの中、小沼をバックに、DD51772号機が牽引する、下り貨物です。本州へ魚を運んだ帰りの冷蔵車が、編成中にかなり目立ちます。当時は、本州対北海道の貨物輸送における鉄道のシェアは非常に高く、北海道のライフラインに関わる重要物資は、行きも帰りも、青函連絡船からこの区間を経由して運ばれていました。しかし、良く見るとこの772号機、暖地仕様じゃないですか。と思って、配置表を調べると、本来亀山のカマですね。当時は、新製から正式配備までの間、需要が逼迫している区間に一時的に車輌を貸し出すこともよくありました。当時の関西本線は、72年3月の関西地区ダイヤ大改正以降、完全に無煙化される73年10月まで、ダイヤ改正ごとに、段階的にDLが投入されていました。このカマも、亀山に10月配備のを前倒しし、夏季需要増への対応として借り入れたものでしょう。なるほど、北海道のカマとしては、異常にキレイです。


これは、DD51ではないのですが、当時の函館本線のエース格ということで、登場してもらいましょう。キハ8245号を先頭とした、下り北斗2号です。こういうのも、若い人にとってはインパクトあるんでしょうね。さて大沼付近というと、北海道の撮影行においては、初日、または最終日(あるいは両方)というのが定番でした。九州に撮影に行くときは、最初と最後が筑豊、というのとおなじで、島内の夜行を効率的に使って、時間と宿泊費を節約する旅程を組むと、必然的に決まってくる日程ということです。この時も、ここが北海道の最終日で、その日のうちに青森に渡り、東北本線の夜行で帰りました。しかし、北海道は広い分、道央を中心に、道南、道北、道東と、それぞれ夜行で行き帰りできましたから、あとは体力との兼ね合いだけ。周遊券の期限の続く限り「無泊」で通す「サバイバルツアー」の経験者も、けっこういらっしゃるのではないかと思います。


この区間で、下り北斗2号といえば、ある世代の方ならスグにピンときますね。そう、やってきたのは、下りニセコ3号。牽引機は、五稜郭のDD51745号機です。72年7月の時点では、函館本線のダイヤは、10ヶ月前までのC62が二セコを牽引していた頃と変更はありません。当然、続けてやってきます。撮影場所も、レンズも全くいっしょで芸がないのですが、まあ、DLやDCは余技ですので。ところで、この北斗2号と二セコ3号のカットは、サブボディーでの撮影です。この撮影行では、フィルムを使い果たし、現地調達したと先程書きましたが、この2カットは、その現地調達のフジのネオパンです。他のカットはメインボディーのTRI-Xでの撮影ですが、これだけ粗くスキャンした画像でも、粒子の変質の差がハッキリわかってしまいますね。当時は、やはり高くてもコダックでなくちゃ、と言われた理由が、今になると明解です。カラーだと、これがもっと差がつくのですが。


さて、このニセコ3号。実は、とんでもないオマケがついていました。走り去ってゆく最後尾には、貫通扉のない、怪しい妻板が……。よく見ると、きのこ妻だし、ふつうの荷物車にはない、小型の扉がついていたり。そうです。この日のニセコ3号には、日銀の現金輸送車、マニ34あらためマニ30が連結されていたのです。ニセコは、航送車輌を札幌まで送るという役割があり、それゆえ客車列車で残されていたため、現金需要がある季節には、当然、マニ30が連結されていても不思議ではありません。マニ30を見たことは数回ありますが、写真に納めたのはこの時だけです。しかし、現金輸送車が最後尾、っていいんですかね。西部劇の列車強盗ではないけど、編成側のブレーキ管を締め切ってから、連結器を開放してしまえば、簡単に奪えてしまえそうなんですけど。そういうマニュアルはなかったのかな(笑)。


今回の最後を飾るのは、大沼駅に進入する、上り二セコ1号。牽引機は、五稜郭のDD51742号機。先程の僚機745号にくらべると、車体に書かれた「団結スローガン」を消したあとが目立ちます。これも、今となっては「時代の証人」ですね。DL二セコも、末期の客車急行が珍しくなってからのモノに関しては、けっこう写真も見るのですが、この時代のカットは、ほとんど見たことがありません。まあ、「見たくもない」というヒトが多いことはよくわかるのですが。それにしても、航送便の郵便車をはじめ、客車のほうは全然変わってませんね。ところで、オユ10のトイレが使用中ですよ。下世話な話ですいませんが、これってけっこう貴重な記録かも。貴重といえば、駅名票のところにいる「女性バックパッカー」というのも、時代を感じさせる記録かもしれません。


さて、例によっておまけの蒸気。今回登場したのは、小沼の湖畔をゆく、長万部のD51146号機の牽く貨物列車。といっても、例によって一筋縄ではいかないぞ。編成を良く見てくださいな。連結しているのは、なんとディーゼルカー。じっと目を凝らすと、一輌目はキハ55系、二輌目はキハ58系のようです。どちらも、北海道には所属のないはずの車輌。このなぞを解くカギは、撮影した日付にあります。7月18日といえば、夏の臨時ダイヤが始まる直前。当時、北海道の観光といえば、列車による移動が主力。このため、夏季のみ内地の各地から気動車をかき集め、臨時列車に充当していたのです。夏季のみなので、耐寒装備は問題にならず、本州以南では優等列車に使いづらい、非冷房の車輌でも、風のさわやかな北海道なら大丈夫、ということで、この手の運用が行われた次第。実は、こんなのが写っていたってのは、これまたスキャンしてはじめて気付いた次第。けっこう、妙なモノが写っているものですね。


(c)2006 FUJII Yoshihiko


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