大分の日豊本線 -1973年5月-


日豊本線の大分-宮崎間は、1974年4月に電化により無煙化されるまで蒸気機関車が運用されていた線区でした。この中でも南延岡-宮崎間はけっこう列車頻度も高く、71年10月に青森機関区のC61が転属し運用されたことから人気の撮影地となり、ぼくも何度も撮影に行っています。大分-南延岡間はD51の運用による貨物列車が走っていましたが、撮影可能な列車本数が極めて少なく、往年の名撮影地だった「宗太郎越え」とかあるものの、限られた撮影旅行の日程をここに割くというのは中々リスクがあり、手を出せないでいました。列車本数の少なさは、今でも「特急列車しか走らない線区」として知られているほどです。そんな中、大分まで、これもまたオヤジの仕事にカメラマンで付いて行くというチャンスが発生。大分市内で朝の内なら、撮影する時間もなんとか取れそうだし、運よくそこにまとまって列車がやってくるダイヤ。ということで、前にも後にも一回だけ。峠越えでない街中なのが残念ですが、それでも貴重なチャンスに撮影したカットをお届けします。これも、そういう事情でフジの35oネガカラーでの撮影ですので、極めてネガの状態が悪くなっていることをご了承ください。



朝霧の中を、下り貨物列車がやってきました。場所は、大分-高城間の大分川橋梁。ほどほど長いスパンで、川岸の道路を一連のトラスで、残りの川をガーダーで渡るその姿は今も変わっていません。この時点では幸崎まで電化されており、この区間は架線の下を蒸気機関車牽引の貨物列車が走るという構図でした。線路の海側には県道の橋があり、そちらの方から河川敷に降りて撮影した感じでしょうか。奥には豊肥本線の鉄橋もチラリと見えています。ここは大分駅からも結構近い街の中なのですが、広い河川敷を持つ川なので街並みは見えず、それなりに落ち着いた構図になっていますね。レム5000でしょうか、青帯入りの冷蔵車がいいアクセントになっています。


川を越えるガーダー橋に差し掛かります。半逆光で霧がかかった雰囲気はいい感じです。さてこの機関車、標準型も標準型。当時この仕様のカマは南延岡に10輌という主力。さすがにこれでは機番を特定できません。せめて砂撒き管や空気配管など、パイピングの様子がわかれば何とかなるのですが。しかし大分機関区を出庫してすぐなので、宗太郎越えに備えて石炭は北海道のように車輌限界一杯。機関区が比較的多く短距離運用が多かった九州では、こういう積み方は結構珍しいです。霧で湿度が高い分、石炭をくべてはいないものの、力行のドラフトの蒸気がたなびいて、結構いい感じですね。


川面に映る煙と共に、見返り気味でさらにワンカット。この角度だとちょっと朝日も当って、編成もくっきり見えてきます。前から4輌がワム80000、レム5000を挟んでワラ1が続く。これはこの時代ではかなりの編成美。大分-南延岡間は駅発の車扱貨物は上りの農水産物を除くと少なく、宮崎県内仕向けの直行が多かったので、こういうかたちになったのでしょう。波紋に揺れる水鏡もいい感じですが、D51が牽引するこの雰囲気。高島貨物線の鶴見川橋梁を思い出してしまいますね。こういうの、ジオラマで作りたいけど絶対無理。静止画を撮るジオラマを作るだけでも最低で3畳分ぐらいは必要です。でも、本当に水を入れるジオラマ作りたいな。


続いて南延岡機関区のD51485号機の牽引する上り貨物列車。架線柱の向き、光線の向き、単線であることなどを考えると、大分川から高城よりのところで、適当にバッタ撮りしたものと思われます。適当に撮ったカットって、本当に覚えてませんね。その時はそれなりに撮るんですけど。485号機は小倉工場製で、新製以来一貫して九州に配属されていた、まさに生え抜きガマ。さらに戦後はずっと南延岡で活躍し続けた、まさに九州男児。今も延岡に保存されている、幸運なカマです。光線状態がいいので、いわゆる「九州色」。鉄色っぽい独特の色合いが伝わってきます。しかしこのナンバーなんか色味が。青が入っていたのでしょうか。ちょっとナゾですね。


さて、続けて上りの貨物列車。またまた大分川の鉄橋、それもトラスのところで捉えます。ちょっと興味を惹く編成ですが、まずは機関車から。こいつはカマボコドームですが、板台枠の標準型テンダの準戦時型。この時期準戦時型の可能性があるカマは、南延岡では871号機と923号機です。どちらも奥羽線電化で東北から九州に転属したカマですが、923号機はドームは流線型の標準型に換装されています。ということで、このカマは871号機と比定致しました。871号機は、もともと東北配属から、九州に転属、再び東北に転属した上で九州に戻ってくるという生涯を送った奇遇なカマです。九州の方が長かったので、この時は老後に育ちの故郷に帰ってきたというところでしょうか。


さて問題は、機関車の次位に連結された操重車です。明らかにD51より長い。おまけに6軸ボギー。こんなのが、特大貨物でも線路封鎖でもなく、定期の貨物に連結されて回送されていたんですよ。国鉄時代は、国鉄内部で全部自分で決裁出来たので、平気でこういうのもありだったんですね。これは橋梁建設用の「ソ200形式」のようです。前にもあとにも操重車の走行シーンを撮ったのは、これだけ。ソ200は全長26mあるんですよね。電化を前にした線形改善・複線化が行われていた時代なので、その工事に使われていたのでしょう。それはさておき、デカい鳥が飛んでますね。烏よりは大きそう。鳶かなんかでしょうか。猛禽類っぽくて格好いいですね。D51と鳥の競演。これも他にないカットです。


さて最後はオマケ。大分運転所の俯瞰撮影です。この時間になると霧もあがっていい天気。けっこうネガもきれいに残っています。ED76やDD51の姿が見えますが、どれも新しくキレイですね。この時代、旭川機関区などもそうですが、幹線でも蒸気機関車・電気機関車・ディーゼル機関車が全て顔を合わせる大型機関区がありました。模型ファンとしては、こういう全動力対応ってワクワクします。ある意味、蒸気末期の昭和40年代は「三役揃い踏み」みたいな感じで、オールスターの顔合わせがあったという意味では、いい時代でした。この時代をリアルタイムで過ごした人に、今も模型ファンが多いというのは自分の自戒も含めてわかる気がします。



(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる