鹿児島本線三太郎越え(佐敷太郎越え・肥後田浦-海浦間) -1970年7月31日-


このコーナーも、4ヶ月連続で初期の梅小路を特集してしまったので、そろそろ新しい切り口でネタを出さなくてはいけないタイミング。ということで、初心に返って、というワケではないのですが、今月は、はじめて泊りがけで「撮影旅行」に出かけた、1970年夏の九州ツアーから、鹿児島本線で撮影した「蒸気以外」のカットです。この2ヶ月後の1970年10月には、鹿児島本線の熊本以南が電化され、東京から鹿児島まで、幹線はすべて電化されることになります。架線柱こそ立ち並び、電化の訓練運転も始まっていましたが、最後のC60、C61の活躍にはギリギリ間に合った、というところです。場所は、薩摩と肥後の国境の難所として知られた「三太郎越え」のうち、まん中の「佐敷太郎越え」と呼ばれた峠付近です。一眼レフを使い始めて半年強、まだまだ初心者の中学3年生の写真なので、いろいろ難はありますが、なんせ今となっては貴重な36年前のカット。このアタりは、一つお許しを。



はじめてのワリには、のっけから佐敷太郎越えなどという、とんでもないトコロを選んで撮影することになってしまっているのですが、これはこれで理由があります。時間的余裕があるならば、もう一つ手前側の上田浦-肥後田浦間の海岸から赤松太郎越えに入るところ(ここは今でも撮影地として知られていますが)を狙うのでしょう。しかし、この日は九州入りした日で、朝一から撮影できるスケジュールではありません。また、なるべく列車の本数を稼ごうとすると、列車での移動は無駄が多く、国道3号線の九州産交バスでの移動が効率的、ということになります。この列車のダイヤとバスのダイヤ、国道からの近さを考えると、このアタりが一番「打率がいい」ということになりました。まずは小手調べという感じで、上り普通列車のディーゼルカー。キハ20型2輌で、17系2輌を挟んだ編成ですが、この中間の17系。よく見ると中間車のキハ18ではないですか。今まで、全然気がつきませんでした。


それにしても、ダイヤと地図だけで撮影地を決めちゃうというのも、荒ワザではありますが、このころは、超有名な「お立ち台」以外は、撮影地情報というのがほとんどなく、どちらにしろ、ある程度は自分でアタりをつけて、現地でロケハンして、という手順が必要でした。路線踏破の撮影地解説が特集されるのは、鉄道百年の72年ぐらいからと記憶しています。しかし、よく考えるとこの区間、今は九州新幹線の開業とともに第三セクター化され、肥薩オレンジ鉄道ですよね。列車は、習熟運転のED7635号機を前位に連結した、電蒸運転の貨物列車。次位の蒸気機関車は、出水区のナメクジD5194号機。なにやら測定のためか、車掌車とその次のトキには、ヘルメットを被った職員が鈴なりで作業をしています。まさに、電化完成直前、という雰囲気です。ちなみに、貨車の5輌目から8輌目まで、「セラ」が4輌つながっていますが、この時代九州では、大規模な機関区への石炭の配送は、石炭車をそのまま運用していました。


颯爽とやってきたのは、東京行きの特急はやぶさ。ブルートレインやディーゼル特急も、模型をやっている身からすると、それなりに「格好いい」ので、くれば撮影こそしましたが、次にやってくる本命の蒸気の撮影タイミングを図るための練習カットだったことも確かです。DD51の牽引する20系などというと、ぼくらより10歳ぐらい下の「ブルートレインブーム」世代にとっては、垂涎の的かもしれませんが、ぼくらからすると「刺身のツマ」的な存在でした。それでも、今となっては歴史の証人ですね。牽引機のDD51683号機は、九州らしからぬ寒地仕様。それもそのはず、電化までのツナギとして鳥栖区に新製配備され、鹿児島電化とともに秋田区に転属、本来の寒地仕様を活かして、奥羽線で活躍しました。その後、国鉄最後の本線蒸気の代替として追分区所属になりましたが、1976年4月13日の追分機関区の火災で焼失してしまった悲運の機関車です。


こんどは、下りの特急はやぶさの登場。牽引するのは、DD5143号機。鳥栖区らしい、若番の非重連仕様機です。上の683号機とは、端梁、デッキ手すり、点検ドア等、正面の顔つきがけっこう違います。この時代は、組合問題等、国鉄内部の構造的な問題が矛盾を噴出していた時期でもあり、作業簡略化の中でヘッドマークも廃止されていました。個人的には、この姿もけっこうなつかしくて好きなのですが。2輌目のカニ21を見ると、最近一部で話題の、カニの「裾の短さ」がはっきりとわかりますね。「鉄道」模型ファンからすると、築堤、切通し、田んぼ、農家、ススキ、遠くに見える国道、といかにもレイアウトかジオラマにしたくなるような光景が詰まっています。とはいっても、トンネルに向って一直線に昇っている線路を再現するには、どれだけスペースが必要なのでしょうか。


さてここまできて、蒸気機関車が電蒸運転のD51だけ、というのでは申し訳ないので、ワンカット。とはいえ、例によってカラメ手からということで、熊本機関区の夜景です。実は、夜景のバルブ撮影もけっこう好きで、末期にはカラーポジのバルブ撮影なんていう大胆なこともできるようになりましたが、このときはまさに初体験。露出時間をヘクってますが、お許しください。並んでいるのは、豊肥本線用の9600型。熊本区には、標準デフ付き、中上タンク、というあまり九州らしからぬカマが多かったのですが、手前の2台ともそうですね。そして、ちょっと小さいのですが先頭のカマは、門デフとキャブ下の切り落としから、79602号機と特定できます。そう、こいつこそ、その後北海道に渡り、独特の切り詰め門デフ(これはこれで、けっこうシャープなデザインだったとは思う)となり、国鉄最後の現役蒸気機関車となったカマです。そして奇しくも、先ほどのDD51683号機と同様、1976年4月13日の追分機関区の火災で焼失してしまいました。被災車輛では、もう一輌DD51684号機も元鳥栖区所属で、この3輌は熊本でしばしば出会っていたものと思われます。意外と知られていない、火災事故の裏話です。


最後に、ちょっとオマケのカット。花岡山から見た、熊本駅、熊本機関区です。「ナントカは、高いところに登りたがる」ではないですが、空撮のように駅を見下ろせる山があるところでは、けっこう上から撮影をしました。極端なところでは、函館山の山頂展望台から、函館駅を発車する列車を撮影する、なんてのもやりました。記憶になかったのですが、熊本でもやっぱりやってたんですね(笑)。そういえば、中央付近に見える熊本区のレンガ庫も、新幹線工事で先ごろ解体されてしまいました。引き上げ線には、ディーゼルカーや12系客車の姿が見えます。給炭塔の付近は、蒸気機関車の煙でモヤっています。右上の操車場にも車輛があふれており、鉄道に活気があった時代を偲ばせます。「鉄道が社会を支えていた」時代を知っている世代としては、やはりこういうシーンはグッときますね。



(c)2006 FUJII Yoshihiko


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