山陽路・昭和40年夏(先史遺跡発掘シリーズ その5) -1965年8月-


さて、今回も前回に引き続いて、昭和40年の8月の山陽旅行の思い出、小学校4年生で9歳だったときの写真です。前回は広島駅でしたが、それに続く各地のカットをお届けします。とはいえ、鉄道好きとはいえ、9歳のガキが、それほど深く考えずに撮った写真なので、例によって今回も純粋に貴重な記録として見ていただければ幸いです。



まず最初は、前回の残りカットから。うっかり見過ごしてしまいましたが、広島駅頭ではD52129号機のキャブのアップも撮影していました。まあ、単にそこにあったから撮ったという感じではありますが、これでも読み取れる情報はいろいろあります。129号機は汽車会社製なんですが、キャブは角窓で、デッキ部の嵩上げとともに、屋根を角型に切り取っているタイプであるとともに、キャブ後縁の面取りの具合から、もともと屋根があったところがはっきりわかります。また、駅ビルの工事は、まだ窓にサッシが嵌っていない状態ということも見て取れます。しかし、当時は足場に養生シートをかけてないんですね。これもまた発見です。


父方の祖母の実家は、広島から山の中に入って行った筒賀村にありました。先頃廃止された可部線の先端区間の終点、三段峡駅などがあった地区です。そこに向かうべく、可部線で加計までに行こうと乗車中に撮影したカット。可部駅での、クモハ11型200番台が写っています。この時は、可部線は加計駅まで通じていましたが、可部から先はやはり未電化でしたので、加計まで行く列車はディーゼル。その車内から、電車を撮影したものらしく、乗り換えてくる乗客の姿が見えます。髪型といい、表情といい、いかにも1960年代という風情です。電車は、元モハ31型。初期更新車らしく、正面の雨どいが一直線と、戦前の面影を残しているのが古豪ぶりを強調しています。


その後、父方の祖父の実家のあった光・下松を訪ね、山陽路を東に戻りながら、各地を観光して廻りました。そんな中で、倉敷は寄るべき瀬戸内の観光地の一つ。前日に訪ねた尾道から乗ってきた岡山ローカルの電車から、倉敷駅に降り立ちます。そこで、乗ってきた電車を撮影しました。糸崎-岡山間の電車は、ぶどう色のクモハ51。戦前派の旧型国電自体は、この頃はまだ東京にもたくさんおり、中央緩行線にも、津田沼区のクハ55やクモハ41が繋がっていましたので、決して珍しくはなかったのですが、正面窓のHゴム、球形の運転席通風器、大型の貫通幌、引っ掛け式のサボなど、大鉄仕様の装備は、なかなか新線で刺激的な印象でした。


次はホームの表情。乗務員室扉の窓からちょっと身を乗り出した車掌さんが、妙に手持ち無沙汰ですが、貫通扉の窓もフルオープンと、山陽路の夏は暑いのでしょう。列車用のホームなので、電車のドアの靴ずりとの段差がスゴいですが、昔はこんなのは当たり前でしたね。これでもまだ主要駅なので、このぐらいで済んでいるという感じです。ホーム上には階段を埋めた跡がありますが、これはさすがに乗務員用の通路の跡でしょう。反対側のホームのベンチにも人影が見えます。やはり、岡山倉敷間は、人の移動も多く、鉄道への需要も高かったようです。こんな駅ナカの表情は、昭和40年代を通して変わらず、ぼくらが蒸気機関車を撮影に行った頃とも共通する風情があります。


さらに、もう一つ寄ってワンカット。カメラが、ハーフ判のオリンパスペンなので、自然に縦位置になってますが、今から見れば、なかなか面白い構図です。戸袋のところにもたれかかっている少年は、なんかヒネていますが、短パンの半ズボンを履いているので、小学生6年生とかなのでしょうか。当時の男のコは、子供は半ズボン、中学生以上は長ズボンというのが、日本の標準スタイルで、中学生でも小柄なヤツだと、半ズボンをはいていれば、子供料金で乗れたなんて話もあります。その奥のドアからは、件の段差をものともせず、女性が電車に乗り込もうとしています。今はかなり減ってしまいましたが、若い女性は、夏はノースリーブのワンピースというのも、これまた定番でした。


ということで、四連発。出発してゆく岡山行きと、見送る駅員さん。お客さんは次々と、跨線橋を渡ってゆきます。隣の線には、チラリと入換用と思われるハチロクの姿が見えています。さすがに山陽本線は、この時すでにPC枕木に50kgレールという重装備です。まあ、非電化の頃から、C59、C62、D52といった機関車が闊歩していたのですから、重軌条化が進んでいても当然ですが。それにしても、麻の開襟シャツや、ホンコンシャツと呼ばれた半袖のワイシャツなど、当時の男性のファッションは、バリカンで刈上げた髪型とも相まって、今から見るとエキゾチックとも言える雰囲気を醸し出しています。こんな雰囲気は、いまや中国でも、内陸部の四級・五級都市まで行かなくては見られそうにありません。昭和40年の日本は、まだこんな時代でした。


最後は、姫路まで戻ってきました。これまた姫路駅の駅ビルをバックに撮影したのは、貨物列車を牽引する、姫路第一機関区所属のC11177号機。播但線の区間列車でしょうか、姫新線の列車でしょうか。当時の運用に関する資料がないので、ちょっと判断しかねます。117号機は、LP405前照灯や、サイドタンクの振動防止梁など、典型的な姫路のカマといった外見をしています。窓も扉も点検蓋も開け放っていますが、タダでさえ暑いC11のキャブ内は、灼熱地獄だったでしょう。このあとは姫路一区の無煙化まで居残った上、最後は全検期限が残っていたのか、北海道は苗穂に転属になり、蒸気末期の1973年11月まで活躍した、比較的長寿なカマでした。まあ、これを撮影した時点では、そんなこと知る由もないのですが。



(c)2011 FUJII Yoshihiko


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