湖畔のコッペル 西武山口線の蒸機 -1972年10月9日-


この前多摩方面で仕事があった時、微妙に間に時間が空いていて何か時間を潰せる材料はないかと考え、ふとレオライナー・新交通システムになってからの西武山口線に乗ったことがないことに気付いた。国分寺から西武遊園地-西武球場前から所沢経由で国分寺に戻ってくる経路で一周。そもそも西武山口線は、コッペルの撮影に行って以来半世紀ぶり。線路も並走する道も大きく変わっているが、かすかに覚えている景色を思い出させる地形も所々に残っている。ということで、頚城鉄道で使われていたコッペル製Cタンク2号機が、動態に復活してすぐに撮影に行ったときのカットから、このコーナーの初期に<西武山口線のコッペルと国分寺のE851 -1972年10月9日->で使用していないものを取り上げます。井笠鉄道の客車が使われるようになって、これで軽便っぽい写真が撮れるとばかりに喜んで馳せたものと思われます。



この時はどうやら家からルートとして行きやすかったこともあり、国分寺から西武園遊園地駅(当時)に向かい、遊園地前駅からユネスコ村駅までロケハンを兼ねてまず乗車、そのあとユネスコ村駅から撮影を始めたようで、当時もすでに観光施設に沿って走っていた現在のレオライナー化されたエリアは避けて、新交通システム化されず現在でも場所によっては廃線跡が確認できる中間地点までの間で撮影を行い、再びおとぎ列車に乗車して戻ってくるという行程だったと思われます。ということで、これが最初でしょうか。ユネスコ村駅を出たところの踏切で、到着する列車を狙います。西武園まで5kmという案内が場所を示しています。いまのレオライナーは総延長4km弱で5qないですからね。



これは正向なので遊園地前駅行きの列車。とにかくどうやって撮影したのか全く記憶がありません。写真と当時の地図から辿って、他人の写真の考証みたいにやるしかないですね。これは稜線に沿って走っていて、正向の列車の非公式側から撮っていますから、その逆の北側に向かって傾斜が落ち込んでいるところということはわかります。となると山口信号所を越えて、今なら後ろに西武球場のドームが見えるところでしょうか。茶色のカローラスプリンターと、白いパブリカでしょうか。いずれにしろ当時の大衆車ですが、こうやってみると今の軽自動車のサイズですね。小さなクルマと、小さな鉄道車輛。軽便鉄道が、かつて地域の足としてありがたがれた理由もわかるというものです。



正向がアウトカーブから撮れているということは、中峰信号所も近いゴルフ場の脇のところすね。ここまで歩いてきて、そのあとまたユネスコ村駅まで戻ったようです。この後のユネスコ村行きは山口信号所で撮影していて、そのカットを<西武山口線のコッペルと国分寺のE851 -1972年10月9日->で使っています。トップライトなので列車こそ逆光気味ですが、線路は良く写っています。こうやってみると、地方鉄道法に準拠して敷設された鉄道路線ということがわかる保線状態です。これって使ってるレールも30sじゃないのかな。のみならず路盤の厚さといい、ちゃんとチョックが入っているところといい、当時の西武多摩川線とかと変わらないんじゃないの。少なくともナローファンが大好きな「ヘロヘロ」じゃないですね。



ユネスコ村駅を出発して、大きくカーブして山口信号所に到着する少し前にあった埼玉県道55号線をオーバークロスするトラス橋は、陸橋としてはかなりの落差があるとともに他の雑景がはいらない切通になっているので、沿線でも有数の「お立ち台」として人気がありました。小さなトラス橋ですが、これもナローというには立派過ぎる橋梁ですね。ナローレイアウトでこんな橋を架ける人はいないでしょう。簡易線でC12とかが走っていていもおかしくないような。それにしても、エクタクロームは陽射しが強くて露出が合えば、ほんとに褪色しないですね。今回の写真は、スキャンしたままでほとんどポストプロの補正は掛けてません。秋晴れの空の様子が、半世紀近く経った今でも活き活きと伝わってきます。




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