東京の雪 -1974年2月-


2005年から2006年にかけての冬は、例年になく寒さが厳しく、各地で積雪の記録を更新する結果となりました。それにかこつけて、ということではないのですが、これは、1970年代の東京の雪の記録です。ブロニカS2にエクタクロームという豪勢な機材で撮っていますが、この組合せを使い始めたのが、1972年の夏から。そして鉄道写真を写していたのが、事実上1974年一杯なので、おのずと1972年度か、1973年度の冬ということになります。ここで、気象庁の記録を調べてみると、1972〜3の冬には、東京で積もるほどの降雪を記録した日はありません。となると1973〜4となりますが、このときは、2月6、7、8日の三連続降雪と、3月27、28日の春のドカ雪の2回、積雪を記録しています。ところが3月27、28日は、最後の南九州のパシフィックを写しに九州にいました(オマケに合理化反対ストで、青井岳に缶詰になっていた)ので、この写真は、2月6、7、8日のどれか、ということになりますね。



まずは、総武線直通緩行線の津田沼行き。カナリアイエローの101系電車です。場所は、このコーナーの3回目「中央線 中野-東中野 -1968年-」で取り上げたのと同じ、実家の裏に当る、中野-東中野間で築堤が切通しに変る、歩道橋の周辺です。ぼくが5〜6歳ぐらいの頃までは、ちょうどこの電車の先頭付近に、第4種の踏切がありました。当時から列車頻度は高く、幼児の足では、安全に向こう側まで渡れるのか、とても心配で恐かったコトを覚えています。それにしても、ブローニーの威力は強烈で、退色も少なく、先頭車がテールライトが外嵌で、運転室仕切りの窓が小さい二次形ということまでキッチリ見て取れます。


線路の反対側に渡り、中野方へ少し向うと、なんとも珍しい車輛がやってきました。2輌のクモヤ90にエスコートされた、大井工場からの出場車とおぼしき、2台のモハ72です。一輌は全金の920番台、もう一輌は通常の500番台というバリエーションです。この時期、この場所で73系というと、津田沼電車区にいた、外房線、内房線のローカル運用の車輛ということになります。この時点で、通常の運用では、すでにここで旧型電車を見ることはできませんでした。回送とはいえ、雪と旧型電車という取り合わせは、これはこれで運が良かったともいえるでしょう。


同じ回送電車を、見返りカットでもう一度。ぶどう色2号の車輛は、通常の景色の中だと、色彩に沈んでしまって目立たないのですが、雪が降っているさなかで、空も地面も白1色だと、逆に結構引き立ちます。段々、雪足も強まっているようで、車輛も雪に霞んでいます。降りしきる雪に包まれた、複々線。このカットをパッと見ただけでは、一瞬どこで撮影したものなのか、なかなかわかりにくいでしょう。かなた、中野電車区付近には、上りの緩行線の電車がチラリと見えています。


前のカットとほぼ同じポジションから撮影した、快速線のバーミリオンの101系。さすがにISO160では、このぐらい降り出すと、1/60か1/30かというのがギリギリで、先頭部分は完全にブレてしまっていますね。1輌目でも、第2扉あたりからは、一応止まっているようですが。シャッタースピードの限界から、先頭部分だけが流れてしまっているというカットは、なんか、戦前や昭和20年代の鉄道写真を思わせます。101系、冷房なし、といっても、その時代では、それが全く日常であり常識だったわけで、特別な思いは持てないというのが、我々の世代の宿命なのでしょう。


やってきました。名残のキハ58系DC急行。中央東線のDC急行は1975年までですから、栄光の歴史の中では最晩年ということができるでしょう。先頭はキハ58、2輌目がキハ65、3輌目はサンバイザーがチラリと見えるのでキロでしょうか。もはやこの時代は、急行は冷房付きが常識となっていました。1968年の写真では冷房のレの字もなかったのが、この5年間で、すっかり情勢が変っています。まさにこの時期は、無煙化に代表されるように、鉄道の近代化が強力に進められた期間だったといえるでしょう。


再び線路を渡って南側に戻り、こんどは東中野方に移動しました。そこにやってきたのが、先ほどの回送電車。東京都内の旧国鉄路線の構造から、配給電車や荷物電車、回送電車といった電車系の臨時モノは、直接千葉方面に入ることができず、一旦中野まで行き、そこから折り返すカタチで千葉方面に向っていました。この電車も、大井工場から大崎にでて山手線に乗り、新宿で緩行線に転線、中野で進行方向を変えて津田沼、という経路をとったのでしょう。それにしても、旧型電車が4輌で4パンタを全部上げている、というのも壮観ですね。


少し小降りになった中をやってきたのは、EF64の牽引する下りの客レ。場所はもう、皆さんおなじみの桜の名所です。スノープローに雪が付着しているのも、どこか頼もしく感じます。この2年ぐらい前までは、旧型電気+暖房車が残っていたのですが、EF64が牽いていても、やはり旧客は風情があります。いわゆる「鈍行」は、必然的に良く乗りましたから、ある種「B級グルメ」的ななつかしさがこびりついています。しかし、今や貨物に残ったEF64自体が淘汰されるご時世ですからね。


最後は、EF64の通過シーン。桜並木に雪がついてミニ樹氷状態になり、まるで花が咲いたかのような気配です。雪で下校が早まったのか、明大中野の生徒が、連なって駅へと向っています。そう、この日は平日なのです(6(水)、7(木)、8(金))。なのに、当時まだ高校生のぼくがなんでこれを撮れたのかというと、実はこのときは高3の3学期。受験対応で、授業は終わってしまい、家庭研修週間に入っていたのです。高2から高3の春休みには、九州にいってますし、高3の夏休みには、ミニ撮影行を行っていますし、なんのことはない、自粛したのは、高3の冬休みだけ、って話もありますが。でも、その冬に九州にいけていれば、あと2〜3本「日南3号」が撮れたかもしれないんだけど。


(c)2006 FUJII Yoshihiko


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