新商品開発の極意

(その1)



前から思っていたんだけど、最近その思いを強くしていることに、人間には、本質的に、
「霊能のある人間と、霊能のない人間」
という、構造的違いがあるんじゃないのかな、ってことがある。
霊能がある人間ってのは、なにか問題を解決しようとか、アイディアを出そうとかいうときは、アタマん中を空っぽにして、無念無想で集中すると、30秒から、せいぜい5分ぐらいで、答えがでる。
で、あとは、その答えを他人に説明するための理屈や、それを具体化するための方策を考えればいい。まあ、この部分では、理性や知識も使うのだが。
で、商品開発もけっきょくはこれなのだ。
「霊能」さえあれば、無念無想で念ずれば、パッと浮かんでくる。
このプロセスは、霊能のない人間からは、どうしてもわからないし、理解できない。しかしもともと説明できる類のものではないから、このギャップに議論が入ると、どうやっても埋められなくなる。
まあ、「霊能」という単語がいやなら、「才能」でも、「クリエーティビティー」でも、なんでもいいのだが、やっぱり、イメージとしては、霊能というのがぴったりくる。あまりに本質といえば本質だが、つきつめてしまえば、商品開発もクリエーティブな活動の一つ。だから、霊能というか、ある種の天性のセンス次第というのは、いかにもしがたいところだ。でも、自分の持っている能力を、どのように活かすかという部分では、やり方によって、うまい・へたがでてくる。今回は、そのあたりの極意について、ちょっと書いてみよう。やはり、ヒット商品を出す鍵は、なんといっても「ユーザの気持ち」をつかむこと。だから、どうやってユーザの気持ちになるか、気持ちを理解するかが、商品作りのポイントになるのはいうまでもない。あなたは、すでに売れている商品を見たり、世の中の動きを見たりするとき、きちんとその本質を見抜いているだろうか。それをユーザの視点からつかむためには、次の3つのポイントがある。

1.自分の相対的な位置を知ること
そもそも自分が世の中でどういうポジショニングにいるか。その相対的な位置関係を把握することが、相手の視点を知る第一歩となる。極右と極左みたいに、極端に意見が違うほうが、互いに相手を認めあい一目置き合う関係をつくりやすい。そもそものポジショニングがあいまいな「進歩的知識人」とか「市民活動家」みたいな人には、自分以外の見方を端から否定する態度が良くみられる。
このような例は、自分が全体の中でどういう位置なのかを知る人ほど、相手の位置もわかりやすいし、逆に漠然と「自分が真ん中」だと思っていると、いろいろな立場や視点があることがわからなくなることを示している。自分が中心で固定している「天動説」ではいけない。自分も、相手も、みんながみんな相対的だという「地動説」にたってはじめて、世の中全体の構図が見えてくる。

2.先入観やステレオタイプでものを見ない
いわゆる「頭が固い」人が、ヒットをつくれないのは、これが理由だ。しかし、自分は「頭が固くない」と思っている人でも、意外に型にはまった発想をしがちなもの。特に、いろいろ経験豊富であればあるほど、ついつい楽だから、前例に当てはめてものを考えがちになる。だが、これでは相手の心をつかむアイディアはでてこない。
これで問題が起こりがちなのは、自分と違うパーソナリティーを持った層がターゲットとなっているときだ。たとえば、オジさんが、子供とかヤングとか考える場合。自分の子供の時とか、学生の時のことを考えてもダメ。そもそも時代背景も豊かさも全然違うのだから、そんなイメージが通じるわけがない。別の国の話と考えたほうがいい。それならまだ、「今のあなた」が何を考え、何を呼吸しているかから発想したほうがヒットにつながる。今という時代が求めている要素のほうが、デモグラフィックな特性が求める要素よりずっと強い。子供だって、ヤングだって、今の時代の構成員であり、今の社会をともにつくっている仲間なのだから。

3.理論・データから発想しない
理論的な人ほど、理論は信用していない。それは、理論からはなにも生まれてこないことは、ロジカルに考えれば容易に理解できるから。と書くと、何か言葉の遊びになってしまうが、人は自信がないときほど、理屈やデータに頼りがちになる傾向がある。だが、それは逃げでしかない。自分が良く見えていないからこそ、なにかに頼りたくなっているだけだ。実はそんなときこそ、眼力がものを言う。はっきり見えてはいなくても、実際に見てみて、感じてみて、そこで思いついたことを大事にすべきなのだ。
1000人の声を「情報」として聞いても、なにも生まれない。そこで自分が何を感じたか、何を思ったか、から発想をスタートしたほうが、ずっと相手にアピールするものが生まれる。異文化を学ぶためには、いくら机上で研究してもわからないものがある。しかし、それは実際に異文化の中に入ってみれば、すぐに感じとれるものだ。そして、そういう「感じとること」しかないものほど、異文化の本質であることも多い。つきつめていえば、自分で自分のためにモノをつくるの以外は、すべて「異文化を持つ人とのコミュニケーション」といっても過言ではないのが現代のモノ作りだ。そういう中で共通言語となり得るのは、人間としての本質的な「うれしさ」「楽しさ」といった気持ちよさだけだし、それは、あなただって共通に感じ得るモノなのだ。


(95/07)



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