首都圏最後のD51天国 -高島貨物線・1970年4月〜8月・その1-


新鶴見操車場と横浜港を結ぶ高島貨物線は、貨物がコンテナと専用貨物だけになった今でも、石油タンク車やコンテナなどの専用列車が行き交う、貨物輸送の幹線です。それだけに、かつて鉄道が貨物輸送の主役だった時代には、横浜港や京浜工業地帯に発着する貨物を捌く大動脈だったことは、容易に想像されます。そんな列車密度の濃い貨物線に、首都圏最後の蒸気機関車の牙城として、蒸気機関車終焉の日まで、大量のD51が活躍していました。あと五年。時間にせきたてられるように、残された蒸気機関車の撮影にハマりだした中学生のぼくにとっては、数十分おきに列車が行きかう高島貨物線は、鉄道写真を覚えた道場のような場所です。最初はカブったり、タイミングが合わなかったり、惨憺たるモノでしたが、2ヶ月もするうちに、それなりにシャッターが切れるようになりました。そんな「恥ずかしい」カットの中から、都会の中の蒸気天国の最後の日々を偲んでみます。



鶴見川を渡る石油専用列車は、今も昔も変わりません。しかし当時は、機関車がD51、貨車はタキ35000/45000系列と、まっ黒な編成でした。牽引する機関車は、新鶴見機関区のD51130号機。集煙装置を取り外した短い煙突、ボイラ上の重油タンク、キャブ屋根の延長等、中央本線、信越線で活躍してきた、長野工場型重装備の名残が特徴的です。新鶴見へは1969年9月に長岡から転入し、この年の10月には秋田へ転出と、一年あまりの活躍でしたが、調子のいいカマだったようで、よくその姿を見かけたものです。



大宮から転属してきた451号機の牽引する列車が、横須賀線の113系と並走します。当時は、横須賀線と東海道線が分離しておらず、同じ線路を走っていましたが、モノクロ写真でも塗り分け位置が違うので、容易に判別できます。貨物列車の先頭2輌は、おなじみホキ2200型。穀物、飼料のバラ積み輸送用でしたので、九州に撮影に行くと、よく編成中に組み込まれ、彩りを添えるアクセントになっていました。3輌目は、内航用の海上コンテナを、チキに積載したものではないかと思います。模型ではおなじみですが、流石に港へ向かう路線という感じがします。


鶴見川に水鏡で機影を映す、車扱貨物列車。当時の鶴見川は、ドブ川レベルの水質でしたが、こうしてみる分には絵になりますね。機番はナンバーが読み取れないのですが、スチームドーム前に「コ」の字型の手すりがあることから、八王子からやってきた207号機と考証しました。末期の新鶴見は、関東一円から全検期限の残っているカマをかき集めて使用していました。この当時、新鶴見機関区には16輌が配備されていましたが、そのほとんどがいわゆる関東型の装備で、大宮工場標準仕様であり、なかなか機番考証が難しい世界です。まあ、東海道本線、山陽本線、東北本線など、幹線系の機関区の全盛期に配置されていたカマは、かなりそういう傾向が強いのですが。


516号機が牽引する、ク5000型を連ねた自動車輸送列車。この区間のク5000は、港への輸出用車の輸送と、日産追浜工場からの出荷と、上りも下りも積荷がある、珍しい路線でした。516号機は大宮工場製で、長く大宮機関区で活躍したカマです。最後は、長らく水戸機関区で活躍した515号機と共に、連番で新鶴見に揃い踏み。いまではどちらも保存機となっています。番号の語呂が良いせいでしょうか、この両機は末期でも、新鶴見配属機の中ではきれいなカマとして目立っていました。


鶴見駅での、蒸気牽引列車同士の交換風景。前に、このコーナーで特集をやったときには、全く見逃してましたね。鶴見駅に停車中の列車を牽引するのは、またもや登場の130号機。当時の関東のカマにしては、LP403一発でLP405の副灯がないのが珍しいところです。この頃の関東では、1年間ぐらいの短期的転属では、仕様変更とかしなかったのでしょうか。一方、手前側で石油専用列車を牽引しているのは、考証が難しいのですが、この日のほかのカットをヒントにして考えると、408号機でしょうか。


最後は、当時の撮影風景を捉えたカットで。このカットでは判別できませんが、前のカットから考証すると、448号機のようです。新製以来、ずっと東京周辺で活躍してきたカマで、新小岩からの転属してきました。この後は酒田に転属して、終焉を迎えます。これまた、横須賀線と並走です。ブームになり始めとはいっても、画面に写っているだけで、15人の「撮り鉄」がいます。なかには、マミヤプレスらしきカメラのヒトもいますが、このくらいの密度なら、楽々ポジションを決められますね。1輌目のワム50000が泣かせます。



(c)2010 FUJII Yoshihiko


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