首都圏最後のD51天国 -高島貨物線・1970年4月〜8月・その3-


軽い気持ちではじめた、40年前の「つわものどもが夢の跡」。三ヶ月連続の大特集と相成ってしまいましたが、いよいよ完結篇。中3の春・夏・秋と、撮影した時には、40年後にこういうカタチで使われるとは、思いもよらなかったですね。3回通して登場したカマは、130号機、207号機、408号機、448号機、451号機、515号機、516号機、646号機、652号機、723号機、774号機、786号機、810号機と13輌。791号機は、さよなら列車で撮影しているので、末期に新鶴見にいたカマで、撮影できなかったのは、188号機、533号機、558号機のみということになります。足繁く通っただけに、けっこうな打率ですね。もしかするとこの3輌も、機番考証不可能なカットに写っているかもしれませんが。



まず最初は、鶴見川橋梁上でドレンを切る810号機から。まあ、鶴見川橋梁も撮影しやすいんですが、みんな同じようなカットになってしまうので、タマの長さを変えるとか、思い切って奇をてらった構図にするとかしないと、マンネリ感はぬぐえません。とはいえ、中3のときですから、そんなに凝ったカットも撮れません。「オーソドックスに撮る」コトを学んでいた段階ですから。810号機は、このあと青森に転属し、奥羽本線の無煙化と共に廃車になりました。


鶴見駅で入換中の、516号機。516号機は、前回に続いての登場。操車係が、前方と後方の二人乗っているのも、いかにも人員過剰の末期の国鉄という感じです。特に、フロントデッキの係員は、通常のようにステップに乗るのではなく、北海道のように完全にフロントデッキの上に立って手旗を振っているのが面白いですね。バックの街並みも、地方都市のようで、ジオラマ派にはググっとくるものがあります。


鶴見駅-鶴見川間を行く、646号機。リレーボックスがウザいですが、多分この区間は線路立ち入りにウルサかったので、リレーボックスの死角に隠れて撮っているものと思われます。遠くに浮かぶアドバルーン、蒸気機関車と煙を競わんばかりの工場の煙突、といったところが、40年前を思い起こさせる風物詩でしょう。646号機も、関東周辺で活躍し、最後の半年だけを新鶴見で過ごしたカマです。このあと亀山に転じ、その生涯を全うしました。


こうなってくると、どれが何号機か、だんだんゴチャゴチャになってしまうが、これは652号機。幹線でも蒸気機関車が主流だった頃に撮影していたヒトたちからは、「デゴイチが来ても、フィルムがもったいないから撮らなかった」という話をよく聞くが、当時はバッタ撮りが主流だったこともあわせて考えると、ちょっとわかってくるような気がするかも。652号機も、ほぼ新鶴見一筋という、関東のカマ。まさに、働く男ですね。


これは二コマ目と同様、鶴見駅でのカット。機関車も仲良く、連番の515号機。これも再度の登場ですね。大宮工場出場車としては標準的な仕様は、両機ともよく似ています。石炭をくべ、安全弁を吹き上げて、まさに発車寸前という雰囲気。それより、一輌目のワキ1000や、二輌目のトラに積まれた商船三井の海上コンテナといった編成は、当時でもけっこう珍しく目を惹きます。


標準型の中でもとりわけ標準的といえる、関東型のD51のアップがこれだけ続くと、なんとも満腹気味ではありますが、いよいよこれにて打ち止め。さてどん尻に控えしは、774号機。これまた関東一筋、それも戦後は新鶴見一筋でしたが、高島線電化の後、山陰筋に生き延び、なんと蒸気機関車最末期の山陰本線下関口の無煙化まで、このあと5年も活躍したラッキーなカマです。今も出雲市で、静態保存されているようです。とりたてて特徴のないのが特徴という、いわば「カトーの16番D51」という感じでしょうか。


さて、最後におまけ。同じく774号機。上り列車を牽引して、鶴見川橋梁にさしかかるところです。こうやって見ると、前照灯はLP403一灯で、副灯は取り付けられた形跡もありません。新鶴見一筋でも、こういうカマはいたんですね。そのワリに、煙室扉ハンドルは、ちゃんと大宮式の十文字タイプです。これは、その後移動してから標準タイプに戻されています。それにしても、バウハウスな構図(笑)。中3なんで、わかってやったというよりは、何も考えずに格好つけたらこうなった、ってことなんでしょうが。そう考えると、モダニズムの人気の秘密って、子供が思う格好よさにあるのかもしれませんね。



(c)2010 FUJII Yoshihiko


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