東京急行電鉄 自由が丘駅 -1972年-


1970年代初頭の首都圏の民鉄(当時は「国鉄」に対して「私鉄」という呼び方が普通でしたが)は、高度成長による首都圏の人口増加、それに対応する地下鉄乗り入れや路線延長、長編成化など、乗客増をバックにした「輸送力増強のための近代化」が推し進められ、その姿を大きく変えつつあった時代です。一言でいえば、戦前の私鉄網形成時代の雰囲気をまだ残していた、小型の釣り掛け車が走る「戦後の私鉄の姿」から、20m級大型車の長編成が走る「今に繋がる私鉄の姿」への転換点だったといえるでしょう。そんな首都圏大手私鉄の中でも興味を惹かれたのは、やはり通学途中に目にすることができる電車が中心でした。まあこれは、皆さんもご経験のある当然の流れといえるでしょうか。具体的には、新宿で見かける「小田急線」「京王線」、渋谷で見かける「東急線」「井の頭線」というのが四天王でした。井の頭線は通学に使っていたのでさておき、小田急線・京王線は、乗ろうと思えば、渋谷を通らず、それぞれ下北沢・明大前を経由するだけで、毎日でも乗れました。しかし東急線は、ちらりと渋谷駅頭で見ることはできても、「わざわざ乗りにいかなくては乗れない」路線なので、ぼくの中では少しステータスが高い電車でした。今回は、そんな70年代初頭の東急線がテーマです。



渋谷から東横線に乗ったぼくは、自由が丘の駅に降り立ちました。実は、この日の目的地や用件は、ネガのこの先のコマと記憶からハッキリしているのですが、これを先にバラすと次回のネタがミエミエになってしまいますので、今回は秘密です。自由が丘駅の立地をご存知の方ならすぐわかると思いますが、このホームの上屋の影のあまりの長さは、冬の朝ならではです。周辺の条件から、この写真の撮影は昭和47年度ということが判明していますので、1972年12月か1973年1月ということになります。朝の撮影ということは、普通に学校に行ったのでは撮れない時間ですが、この日はサボったわけではなく、ある特別な事情がある日でした。その「事情」については、この先のコマでわかりますので、そのときにご説明しましょう。渋谷方面のホームに停車しているのは、当時の東横線の主といえる7000系。地下鉄日比谷線直通の北千住行きです。フタの閉まったベンチレーターも、冬の風物詩でした。しかし、こうやって見ると、パイオニア台車ってとんでもない構造していたんですね。


電車を乗り換えるべく、階下ホーム1番線へと降りていきました。このときはまだ「新玉川線」開通前ですから、ここが「田園都市線」でした。長津田方面に向かって、やって来たのは回送列車。先頭車はクハ7500型の異端児、アルミ車体試作車のクハ7500号です。奇しくもこの車輛は改造され、いわゆる「派手車」デヤ7290号となり、いまでも健在なばかりか、東急線各線の上を縦横無尽に走りまわっています。2番線ホームの大井町行きは、昭和20年代も半ばになってから戦災復旧名義で製作された、クハ3670型のファーストナンバー、クハ3671号です。しかし、時計を見ると午前9時。ホームにはまだ、当時の言葉でいう「サラリーマン」が多い時間帯です。


次に向い側の2番線に入ってきたのは、デハ3600型、3607号を先頭とする大井町行きです。デハ3600型は、先ほどのクハ3670型と同様、戦後間もなく戦災復旧名義で製造された車輛ですが、こちらは名義だけではなく、実際に台枠・鋼体を買い集めて、叩きなおして復旧した車輛がベースになっています。このため車輛限界が「省電サイズ」で、それ以前の東急プロパーの車輛より大きいのが特徴です。確かに、更新されてノーシル・ノーヘッダーになると、どことなく戦前の「半流省電」の面影が伝わってくる気もします。ホームに掲げられた「方面表示」には、誇らしく「すずかけ台」の文字。この年の4月、4年ぶりに田園都市線が延長され、「つくし野-すずかけ台」間が開業したばかりだったのでした。


さて、そろそろ撮影は打ち止めにして、電車に乗って移動しようか、というところにやってきたのは、クハ3750型3752号を先頭とする長津田行き。クハ3750は相方のデハ3700と同様、東急としては戦後はじめて新製された車輛で、当時量産された、いわゆる「運輸省規格型」です。更新時の作業内容から、デハ3700とは異なり正面非貫通のままという、ちょっと古風な感じが残っており、時代がかった感じがします。デハ3700、3750は、その後名鉄に譲渡され、大手私鉄間の移籍という、珍しい経歴を経たことでも知られています。このあとぼくは、この編成に乗ったのでした。ということで、次回に続きます。


(c)2005 FUJII Yoshihiko


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる