鶴見をめぐる表情 -1970年春〜夏-


旧国鉄の車扱貨物が、まだ日本のライフラインを支えていた頃、全国の大都市には、貨物駅と貨物専用の国鉄路線とがつきものでした。これらは、その後の鉄道貨物のシェア低下とともに廃止され、今では、記憶の中だけで偲ぶものとなってしまいました。東京では、汐留の貨物駅や、そこから伸びる築地市場への専用線などが有名ですね。一方横浜では、今のみなとみらいの横浜駅側の入口付近に東横浜貨物駅があり、俗に高島線呼ばれた東海道線の貨物支線が、新鶴見操車場からそこへ向って伸びていました。いまでもこの線は、根岸の神奈川臨海鉄道からやってくる石油タンク車の通り道の一部として残っています。実はこの高島線は、1970年10月に電化されるまで、東京近郊では最後まで蒸気機関車が大活躍していた路線として、ファンの間では有名でした。SL末期といっても、当時から石油関係の輸送があった路線なので、列車頻度も高く、大変効率いい撮影ができました。ぼくが蒸気の写真を撮るようになって、最初に足繁く通ったポイントの一つです。シャッターチャンスが多かった分、蒸気機関車の写真の撮り方の中でも、シャッターチャンスについては、「ここで練習した」といっても過言ではありません。今回は、そんな鶴見周辺で出会った、蒸気でない「なつかしい車輛たち」にスポットを当ててみます。



鶴見といっているワリには、いきなり子安付近でダウトなのですが、貨物駅で入換作業にいそしむDD13の366号機です。この撮影は、そのあとでみなとまつりに行ったので、70年のゴールデンウィークなのですが、すでに架線柱が立ち並んでいます。しかし、架線そのものはまだ張られていないという、微妙な時期です。ぼくがティーンズの頃は、DD13なんてのは飽きるほど見ていますが、ほんとにワザワザ撮影する対象ではなかったので、ほとんど写真は撮っていません。このカットも、振り向きざまシャッターを切ったら偶然写ってしまった、というのが真相です。そういうのは、貨車も同じで、じっくりこ見ると、コキ5500にC10コンテナが載っているというのも、時代ですね。


今度からは正真証明の鶴見、それも高島線の撮影地として知られた、鶴見川の橋梁です。まず最初は、京浜東北線の103系、洋光台行き。これは5月の下旬ぐらいの撮影でしょうか。根岸線が大船まで開通したのは、1973年のことですから、当時はまだ洋光台が終点でした。ぼくらなんかからすると、低運転台、冷房なしの103なんて、「ケ」の極みみたいな電車でしたが、若い鉄ちゃんからすると、正面の通風孔があいていて、ヘッドライトもLP403一発、なんて姿に惹かれるんでしょうね。高運転台の冷房付きとかくると、ほんとにうれしかった時代です。まあ、時の流れは感じるけど。ところで、こういう角度から見上げると、本当に1067mmってナローですね。


さて、鶴見といえばやっぱりこれ。国電の姥捨山(禁)、鶴見線。件の低運転台103系もここに骨を埋めたわけですし、101系もついの住み家はここだったのですが、ぼくらからすると鶴見の臨港地区というと、17m級電車の終焉の地、というイメージが強いです。昨年の日記のコーナーで、30年以上ぶりに鶴見線に乗った話を書きましたが、その「30年以上前」の記録がこれ(笑)。ちょっと日々が過ぎた6月ごろでしょうか。もしかすると、7月の中旬かもしれません。ま、このころは、2週間おきには行ってましたから。当時は、土曜日に学校がありましたから、これが限界頻度ともいえますが。先頭車輌は、旧モハ31系の、クモハ11 200番台。平妻非貫通の「省電」の顔って、結構好きだったんですよ。更新前は正面の幕板が、側面と同様の幅で狭かった分、その位置にリベットが残っているのがいいですね。電車は変ってしまいましたが、独特のホームの雰囲気は、意外なくらい変っていません。


再び鶴見川橋梁に登場したのは、皆さん大好きなEF58。ぼくらより上の世代でも下の世代でも、58は大好きでしょう。が、ぼくらの鉄分がいちばん濃かった時期のEF58って、「うらぶれて、どこにでもいた」状態で、「売れなくなった往年のスターが、地方の営業で稼いでる」ような感じだったんだよね。ということで、実はあんまり好きじゃない。旧型電機なら、デッキがなくっちゃ。やろうと思えばいくらでも撮影できたんだけど、ほとんど撮っていないのが実情。これは、その数少ない一コマ。これを撮ったのは、夏休みに入ってますね。7月でしょうか。なんとよく見ると、碓氷鉄道むらに保存されている、172号機ではないですか。なんか、こういう偶然が多いなあ。172というと「宇都宮」という人が多いかと思いますが、いたんですよ、宮原に。ということで、荷物列車か臨時列車かの運用だと思いますが。当時のダイヤとか全くわかりません。どなかた詳しい方、教えてくださいな。


この鶴見川橋梁は、当時の関東の東海道線の中では、横に並ぶ線路数の最も多いところで、いろいろな列車のすれ違いや並走が見られましたが、それだけに、なかなかタイミングが合うのもかえって珍しいもの。偶然の一瞬ですが、横須賀線と京浜東北線が並ぶところを捉えたカットです。これは、もう8月でしょうか。構図的には架線柱がうるさいのですが、鉄道写真入門者の中学生が、パッと思いつきで撮ったワリには、よくこの瞬間で撮ったと思います。まあ、自分で昔の自分を誉めてもしょうがないのですが(照)。横須賀線が、東海道線を走っていますが、横須賀線が分離したのは、この10年以上後のことですから、それほど珍しい話ではありません。それよりこの先頭車クハ111-1318は、A-A基準ながら、デカ目で、非ユニットサッシ、非ATS、非冷房準備という、最初期型の1輌です。ほぼできたてで、原型を示していますが、珍しいですね。ところで、運転台すぐ後ろの「かぶりつき席」に乗ってる女のコ。首出しちゃアブないよ。でも、もし「あれ、わたしだ」とか、心当たりのある方がいらっしゃったら、mailででもご連絡ください(笑)。


さて、いよいよ最後。やはりこれがないのもまずかろうと、D51が登場しました。しかし、注目すべきはその後ろ。なんと、京浜東北線を、旧型電車の編成が走っているではないですか。よく見ると、3輌目のモハ72は800番台ですよ。京浜東北線の73系お別れ運転は、1971年4月19日ですから、これもまたあと半年強の命。このころはまだ、旧型国電と蒸気機関車が、首都圏でも実用に供されていたんです。こういう世界を、つい昨日のコトのように覚えている人が中心になって買うから、鉄道模型の売れ筋って、「ある世界」に片寄っちゃうんでしょうね。ちなみに、D51の786号機は、このちょっと前まで大宮にいたカマ。新鶴見のSLの最末期は、首都圏の蒸気機関車の最末期でもあり、新鶴見に関東エリアの全検の残っているD51を全部集めて、必要数を確保していましたが、これもそんな一台です。わかるヒトにはわかると思いますが、700番台でありながらカマボコドーム、というのは、かなり珍しいです。786〜790の汽車会社製の5輌は飛び番で、前後の番号のものが1942年の1910〜12月製なのに対し、1943年の9〜10月製と1年以上製造時期が遅いのです。とはいっても、俗に準戦時型として知られる846番(1942年12月)以降より、製造時期は早く、もしかすると、簡略工法の最も早い事例の一つかもしれません。確かに、旧御代田駅に保存されている兄弟分の787号も、カマボコドームですし。


(c)2005 FUJII Yoshihiko


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる