梅小路蒸気機関車館(その4) -1974年12月-


さて、今回も予告通り、1974年冬の梅小路蒸気機関車館での写真。流石に今回で最後にしよう、ということで、この時撮影した形式については、テンコ盛りでお届けします。実は、これ以降梅小路には行ったことがなく、今どうなっているかというのは、雑誌とかの記事で特集されている範囲でしか知りません。しかし、近況を知っている人の話だと相当に変っているらしく、最近の梅小路しか知らない若い人からは、これらの画像も「昔の梅小路ってこうだったのか」と、新鮮な驚きを持って見ている、などという声も頂きました。まあこの時代は、まだ現役蒸気がいたワケですから、いかに博物館といっても、時の流れが生み出した変化は、ノスタルジーの対象となっても不思議はありません。そういえば、交通博物館閉館でいろいろ特集されている中で、「昔は9850の動輪が、ローラー上で動いた」というくだりには、思わず「そうそう」と懐かしがってしまいましたから。あれ、動くとき、ガラガラガラとスゴい音がしたんだよね。とか、まあ、そういうことなんでしょう。



この日、有火になっていた機関車のしんがりとして、C56の登場です。C56160号機は、今でも現役動態機のバリバリで、西日本方面では、イベント列車に引っ張りダコの活躍をしています。小型軽量でどの線にも入線可能な上、バック運転にも強いので、転車台の無い一般の線区でも運用可能、という点が人気の秘密でしょうが、基本的には状態が良かった、というのが大きかったでしょう。その後の動態復活機の顔ぶれをみれば、もしC1164号機の状態が良ければ、そちらが重用されていた可能性も大ですから。機関車にも、ずいぶん運不運がありますが、コイツはラッキーなカマだといえるでしょうね。


一線おいて、C622号機と並ぶC56。一見、蒸気現役時代の機関区風景を思わせますが、リアルタイムの蒸気を知っている者にとっては、この組み合わせは違和感バリバリです。実は、C56という機関車は「長距離簡易線」用に開発された機関車で、適応すべき路線が極めて限られています。ほとんどの簡易線は、さほど距離がなく、元来のC12でことたりてしまいます。だからこそ、C12はその後も増備される一方、C56は160輌中90輌が戦地へ供出されてしまったワケです。東海、山陽筋にはいませんし、北海道にもいませんでした。ということで、この両者が同時に配属されていた庫はないですし、運用の途中で顔をあわすコトも、レギュラー的にはありませんでした。ところで模型専業のヒトって、パイピングには凝っても、こういう「リアリティー」にはウトいヒトが多いように思うのですが。


いよいよ、お出まし。颯爽とドレーンを切って、転車台に向います。それにしても、撮影者より係員の方が多い、というのが、のどかでいいですね。まだ、SLブームが狂乱化する前の頃を思い起こさせます。当然ながら、係員は皆、当時の国鉄における、各担当毎の正式な制服を着ています。あと、機関士の視線に注目。蒸気機関車というのは、電車とは違い、キャブの正面の窓から、直接目視して運転するものではありません。前方を確認するときには、キャブ側面から顔を出して見るものですし、入換等では、旗の合図を見て、それに従って運転するものなのです。だからこそ、北海道ではバタフライスクリーンが必要だし、デフを切り詰める必要もあった、ということなのです。


転車台上での、形式写真。C56は使用線区が限られていたこともあり、比較的形態上のバリエーションが少ない機種の一つです。この160号機も、仕様変更はキャブ旋回窓、前照燈LP403換装、バイパス弁点検窓程度。個別の特徴も、4本角の煙室扉ハンドルと、コンプレッサー排気管が妙にスラントしている点、キャブ吊上げフックがP字型2個(これは珍しい)、キャブ屋根延長、といったところです。カトー製の16番のモデルをベースにしても、ワリと簡単に「らしく」できますね。ところで、LP403のC56って、ぼく好きなんですよ。チワワとか小型犬みたいで、一段と愛嬌がある感じだし。ところで、なんでオリジナルのLP42だと、もろ煙室上に前照燈が鎮座ましましてるんでしょうか。国鉄の制式機では、ほかに例がない処理なので、なんか変な感じですよね。なんでだろ。昔からなんとも謎だったのですが。


C56のショーでは、救援車の入換を見せてくれました。救援車を引き出し、転車台に乗っけたところ。バックにチラリと写っている山陰線用のDD51と、撮影者のあんちゃんが、そこはかとなく「現役感」を盛り上げています。それにしてもこの客車、張り上げ屋根に、あとから雨どいをつけているんですねぇ。その分、妻面が不思議な処理になっています。編成を組む必要がないので、当然といえば当然ですが、貫通幌のない妻板というのも、張り上げと合間って、なんとも不思議な感じです。C56の入換運用というと、個人的にはやはり吉松(心の故郷)がなつかしいです。2輌配置ですが、1輌が山野線の貨物に入り、もう1輌が吉松構内入換という運用だったのですが、当然のことながら、引き出し時には大空転、ブレーキ時には大滑走。「吉松荘」に泊まっていると、未明から、その大奮闘が聞こえてきたものでした。


さて、ここからがラストスパート。残りの機関車を、正面写真でお届けします。まずはC59。C59は、実物を見ると実にスマートでバランスのとれたカマで、本線急客機の頂点として、戦時体制直前にも関わらず、デザインにも並々ならぬ力を込めて設計されたことが改めてわかります。そういう意味では、戦前型の方がよりスタイリッシュで、好きなのですが、正面の顔は戦後型も共通ですから。しかしC59って、16番の模型になると、決まってマッチョになりすぎて、スマートな感じがしません。サブロクの絶妙なバランスの上に成り立ったデザインなだけに、ちょっとデフォルメしても印象が全く変ってしまう、ということなのでしょう。特に正面については、16番だったら、C59と称しているモデルより、C57第4次型と称しているモデルの方が、煙突の高さを除けば、C59の印象に近い気がします。まあ、デザインのバランス感っていうのは、そういう微妙なところにあるのも確かですが。


続いて、C61。C61は、鹿児島本線のがぎりぎりで間にあったり、けっこう現役時代に写しています。こうやって正面から見ると、C59とそっくりですね。もっというと、前回登場したD51半流もそっくりさんです。まあ、ボイラーの直径とか同じなので、似ていてアタりまえなのですが。基本的なディメンションも、制式機はかなり共通したものがありますから。そういう意味では、旧軍の軍用機などとは違い、国鉄の制式機というのは、当時としてはかなり規格化が進んでいた、ということができるのでしょう。先輪の入換など、部品の使いまわしもよくありましたし。もっともドイツの01なんて、番台区分で2シリンダーと3シリンダーがあったりするくらいですから、仕様としては、パシフィック、ミカドはみんな共通といってもいいのかもしれません。


8620と9600は、ペアで撮影したカットがあったので、お手軽に。9633号機は、築港にいた入換用のカマですが、ぼくらの世代だと、昭和42年度のNHK朝の連続テレビ小説「旅路」の「主役」としての活躍がなつかしいです。この時期は、SLブームがマニアから一般に広がる直前の時期でしたが、「旅路」は北海道の鉄道員一家を描いたドラマで、確か塩谷駅が舞台だったと思いますが、どんなストーリーだったかも含め、流石に記憶が曖昧です。このときに、時代設定に合わせて整備され、一般の北海道仕様の9600とは、かなり異なる外観になりました。その後も記念として、そのまま大事に使われたのが、若番でキレイなカマ(青森の入換に20番台がいたが、入換仕様になっていたはず)ということで、梅小路入りのきっかけになったはずです。8630号は、製造時にはSキャブだったものを、空制改造時に、ランボードの後半の嵩上げの際、裾を切り落とし、一般型になったものです。


最後はC53の登場です。梅小路の保存機の中でも、C53だけは、ぼくが生まれる前に、全機現役から引退してしまっていました。C51も、幼児期に関西本線とかで見た記憶がありますし、B6やネルソンも、払い下げ機等で、道すがら見た記憶があります。そういう意味では、C53は制式機ながら、ぼくの中では「古典機」になってしまい、どうも模型等の興味の対象にはなりません。しかし、蒸気全廃後の世代からすれば、C62もC53も、保存機でしか見れない、という意味では等価なんですね。若年のNゲージャーとかが、蒸気の模型を「形の面白さ」だけで選んでたりするのを見ますが、それもむべなるかな。そういう意味でも、この梅小路蒸気機関車館を作ったというのは、ある種「SLブーム」の遺跡ともいえるのですが、当時の国鉄のフトコロ事情を考えると、大英断だったと思います。



(c)2006 FUJII Yoshihiko


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