占い気まかせ筆まかせ


 このページは占いについて何となく考えていることを文章にしたものです。
 以前は「占術閑話」というタイトルでしたが、前々からちょっと堅いタイトルだなあと思ってはいました。
 今回、ソースをHTML5に書き換えるにあたり、「占術閑話」というのはまとめたものの名前として、このページのタイトルはやまとことばに変えて、内容も若干見直しました。たいして変わってないと思われるでしょうが、まあ単なる私の気まぐれです。
 みなさまの何かのお役に立てれば幸いです。


 ー 目 次 ー


”hiroto的”宿命観(その3) (2024/2/25)

 前回の宿命観(その2)では時間軸とは別の軸の話、すなわち周期(周波数)について述べました。終わりの方で量子論にちょっと触れましたが、今回はもっぱら現代物理学から発想した話です。
 なお最初にお断りしますが、私は物理学者ではなく、以下に書いている量子論や宇宙論の話は原著や原論文からのものではなく一般書からのものです。また私自身が物理学を専門的に勉強したわけでもありません。素人が伝聞をもとに書いたものですので、学問的かどうかは保証の限りではありません。まあ床屋政談みたいなものですかね、念のため、とはじめに断っておきます。

■ きっかけ

 これまで「"hiroto的"宿命観」で(その1)(その2)を書きました。
 本ページの随想はどちらかといえば個人的な考えの整理のためのものであり、このような駄文がまさか他の人に読まれているとはあまり思っていなかったのですが、先日読まれた方からメールをいただきました。恐縮至極で全くお恥ずかしい限りですが、お読みいただきお礼を申し上げます。

 今回は(その3)ということで、前段でも書いた通り現代物理学的な考察、というと高尚すぎる言い回しなので少しくだけた言い方をすれば、量子力学チックな話です。

 ところで話は変わりますが、最近歴史関係の新書がよく売れているようです。例えばI先生やH先生の本とか。そしてそこには従来の通説への疑問や、新説、仮説などが書かれており、また両先生の著書のみならずそういう本が増えたように思えます。また歴史の教科書もかなり書きかえられて、私の小中高校時代のころとはだいぶ異なり、さらに現在も新資料が発見され、歴史はどんどん変わっているような印象を受けています。
 そういう話を聞いたり本を読んだりしていたときにふと思ったのは、実は歴史は今でも変化しているのではないかということです。そういうことを考えているときに、量子力学に関する本の中に「現在が過去に影響を与えている」という研究もなされていると知り、ひょっとすると過去起こったこともいまだに変化しているのかもしれない、という考えに至りました。
 過去が変わるということは、時間というものを固定的に考えないということですから、これは古典力学ではなく相対論や量子力学といった現代物理の出番です。

 このあたりの私の思考の過程を順を追って話すと長くなりますのでこの項では触れません。まずは思考実験からモデルの提示、さらにそのモデルに基づく私の考えを述べたいと思います。なお、このモデルに対する私の思索は今回で終わっているわけではなく、たぶん死ぬまで続けると思います。

■ 時間に対する私の「思考実験??」

 タイトルでいきなり「思考実験」と打ち出しましたが、これは最近読んだ『思考実験』(榛葉豊著)の影響です。ちょっとミーハー(死語?)ですが。
 相対論で扱われる時間についてはいろいろな本で解説されているのでそれは他書に譲るとして、有名な思考実験として「双子のパラドクス」とか「ウラシマ効果」とか呼ばれるものがあります。またこれは実験的にも証明されています。その内容はWikipediaとかで調べてもらうして、普通の解説は、飛行機に乗っている人は相対論効果で若干長生きする(おおざっぱな言い方ですが)、という結論で終わりなのですが、もう少し考えてみましょう。

 飛行機で移動している方が時間が遅れるということは実験からも明らかな事実です。そこで、いま双子よりももっと近いクローン人間が2人いたとして(それぞれをA、Bと呼ぶこととします)、このうちAを地上に残し、Bを飛行機に乗せて2人を観察したとしましょう。すると、地上にいたAがある病気を発症したとき、その後時間を経過してから飛行機の中のBが同じ病気を発症するということが考えられます。これは双子でもある話で、全く別の場所、環境で生活していた双子が同じ時期に同じ病気にかかるということがあるそうです。で、このA,Bが互いに連絡を取り合っていたとすれば、Aが発症した時点で、Bが未来を知覚(自覚というべきか)することになります。
 これは何の不思議もないような気がしますが、私には少々奇妙に思えます。Aからしてみると、Bは自分の過去の存在でAがすでに経験したことを追経験するようなもので不安を抱くようなことはないでしょうが、BからしてみるとAの経験はまだ見ぬものであり、その不安(良いことであれば期待)は言いしれぬものがあるのではないでしょうか。
 ちょっと見方を変えると、Bの現在はAの過去であり、Aの現在はBの未来ということになります。さらに言い方を変えれば、Aの時間はBの時間に先んじているといえます。

 では、Aの時間は果たしてどこよりも先んじているのか?
 ちょっと待てよ。地球も太陽の周りをまわっていますし、そもそも太陽系自体も銀河系内を飛行機よりもはるかに速いスピードで移動しています。とすると、地球の時間もそれなりに遅れており、地球上の時間よりもはるかに先に進んでいる天体があってもおかしくありません。
 そして次の問い。では宇宙において最も時間が進んでいるところはどこか?残念ながら「Copilot」に訊いても答えは得られませんでした。(質問の仕方が悪かったのかもしれません)一応考えられるのは、宇宙誕生(どの時点かが曰く言い難いところですが)から全く動いてない場所があれば、それが時間の最も進んでいる場所の候補にあげられます。しかしながら果たして全く動いていない天体や空間というのがこの宇宙の中にあるのでしょうか?
 しかも場所によって時間の進み方が違うのであれば、古典物理学(あるいはニュートン力学)的な物差しのような時間を独立して考えるのは、少なくともこの宇宙では無理なのではないかと思われます。(これは相対論的考え方ですね)

 で、時間と空間を分けずに考えるという話になるわけですが、ちょっと強引ですかね。

■ 「時空多様体」モデル

 というわけでモデルの提示になりますが、(その3)で取り上げるのは「時空多様体」です。この言葉は、『時間は逆戻りするのか』(高水裕一著)を読んでいるときに出会った言葉です。時空を一体と考えるモデルは他にもあり、また呼び方はいろいろありますが、この言葉が私のイメージに合うのでここに採用する次第です。ただし「時空」といっても空間3次元プラス時間1次元の4次元に限定されているわけではありません。空間や時間の次元はもっと多いと考えられています。もっとも『時間は存在しない』(ロヴェリ著)を読むと、時間次元自体が存在しないのかも、と思わされてしまいますが。

 この世が「時空多様体」である、という考えは、空間3次元プラス時間1次元の場合であっても、過去、現在、未来が「同時に」というか「いっしょくたに」というか「一体的に」というか、とにかくまとまり(かたまり)として存在するということを表しています。過去、現在、未来というのは時間軸上の話ですので、言葉で「同時に」ということは矛盾しているのですが、私には「同時に」という表現が割としっくりきます。で、もし「同時に」存在しているのであれば、過去はもちろんですが、未来も何らかの手段で知ることができる可能性があるということになります。
 これは古典的な決定論とは全く違います。古典的な決定論は原子や分子などの運動や相互作用の結果によって未来は決定されるというもので、未来があらかじめ存在しているわけではありません。それとは違って、時空多様体は宇宙の生成のときに既に生じており、我々(だけでなく生物も無生物も、さらには分子、原子、量子までも)はその中で生きているというか「個別に時間を過ごしているようにみえる」という状態だというものです。

 「個別に時間を過ごしているにみえる」とはあまりうまくない表現ですが、時間の流れにそって変化しているように”みえる”、物理学用語を使っていえば、エントロピー増大の法則にしたがって変化しており、そして我々もエントロピーの法則にしたがっている、さらに個々人や個々の物質の変化の速さは異なる、ということを言っています。余計わかりにくいですかね。
 まあ私の説明ではわかりにくいので、このあたりは参考書を読んでもらった方がいいでしょう。「参考文献」のページにもあげていますが、ここで手に入りやすい参考書をあげておきます。
  『時間は逆戻りするのか』(高水裕一著 ブルーバックス)
  『時間はどこから来て、なぜ流れるのか』(吉田伸一著 ブルーバックス)
  『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著 NHK出版)
 この手の類の一般書はやはり講談社ブルーバックスが強いというか豊富です。この他にも宇宙論の本が時間や空間についての話題や考えるヒントを与えてくれます。

■ 「時空多様体」のイメージ

 「時空多様体」がいつ(というのも変ですが)どのようにして生じたのか。いわゆるビッグバン以前、インフレーションとともに生じたと考える人もいますが、実際のところ見た人がいるわけではないですし、物理学者にもわからないというのが正直なところでしょう。でも、いったんそういう問題は棚上げにして、「時空多様体」というものの中に我々は生きているとしましょう。
 次の問いは、「時空多様体」には果てがあるのか?というものです。

 みなさんご存じだと思いますが、宇宙はものすごい速度で膨張しているとされます。今のところはインフレーションからビッグバンが起きて、膨張している途上であるというのが標準的な宇宙の描像です。私はちょっと変な感じを受けるのですが、まあここは妥協して宇宙空間は膨張しているとしましょう。では時間はどうでしょうか?
 前項で我々が住む地球が時間の最先端ではないことを指摘しました。我々の時間よりさらに先を行っている場所はありますが、我々はそれを知覚することができません。しかしながら我々の今よりは「時空多様体」の時間軸は長いということはいえると考えられます。

 ところが、知覚できないのは未来だけではありません。過去も知覚できません。例えば、ビールを飲んで味わう「プハー」とか「クー」とかいう感覚は二度と味わうことはできません。翌日またビールを飲んでも全く同じ感覚にはなりません。状況や場所も違うでしょうし、感情だっていつも同じはありませんから。
 つまりは、「今」という時間はまさに「今」しか知覚できないわけで、過去については経験や記録として残っているものを単に「思い出す」にすぎません。未来の場合は、知覚できないだけでなく経験や記録がないので「思い出す」こともできません。そう考えると、「時間と言うのは幻想である」という一部の物理学者が唱えるのも何となくわかりますね。

 前段の話で何がいいたいかといえば、時間を川の流れに例えることが多いですが、我々はまさに時間の流れの上にいて流れを下っているのと同じような状態、ということです。もちろん流れの早い川もあれば遅い川もあり、また川の状況次第では早くなったり遅くなったりするでしょう。しかし、川は(汽水域は別として)上流から下流に流れます。逆行するのは容易ではありません(実際の川だと逆行することもありますが)。そして我々はその時、その瞬間の景色しか見ることができません。ただ時間の流れと実際の川と異なるのは、その流れの早さの差が人には感じられないぐらい一定に近いとはいえるでしょう。
 我々は「時空多様体」の中を時間軸(逆戻りなしの一方向)という川を移動しているというイメージになります。

 話を戻しましょう。この項での問いは「時空多様体」に果てがあるのか?でした。この回答は今のところ得られていません。少なくとも私の知る限りは。
 果てがあるという考え方の一つに「サイクリック宇宙論」というのがあります。詳細は時間や宇宙論の書を読んでもらうとして、ということは、果てがあるということは今の物理学上は否定されていないということです。
 で、もし果てがあるならば、時間と空間がある限定された範囲に存在する「かたまり」(ふくらました風船のようなものでいいでしょう)の中を我々は時間軸にそって移動しているというというイメージが描けます。
 私の考える「時空多様体」のイメージはそのようなものです。

■ 「時空多様体」からの宿命観

 さて、ここからが、"hiroto的"宿命観(その3)の本題となります。
 (その3)はある範囲に限定されて存在する「かたまり」すなわち「時空多様体」モデルをもとにした考え方です。これが存在するという前提で以下話を進めます。

 前項で「時空多様体」を風船と書きました。風船というのは膨張するということからのイメージです。なお空間だけでなく時間も膨張している可能性があります。
 私のイメージは、我々は風船の中(表面ではありません)を時間軸に沿って移動している存在というわけです。時間軸は今のところ我々が意識できるのは1軸でしかも一方向ですが、必ずしも1軸としなくてもいいでしょうし、場所によっては曲がった時間軸を考えてもいいでしょう。
 しかし私ら人間には寿命があり、生じては消えていきますので、時空の中で、時空よりも小さいある「かたまり」として存在することになります。その「かたまり」の中に過去も未来もいっしょくたに存在するわけです。ただ、空間や時間の長さのレベルから考えると、「かたまり」というよりも「点」というべきでしょうか。その中で我々はもがきつつ人生を送るわけです。んー、何かむなしさを感じますね。

 前の段落でさらっと書きましたが、「過去も未来もいっしょくたに存在」ということは、すなわち未来は「未だ来たらず」ではなく、もうすでに「ある」ということを言っています。これが(その3)の宿命観なのですが、こう書くと未来は確定しているという印象を与えて絶望的な感じですが、「時空多様体」が固定的だと考えていません。
 「時空多様体」は相対論や量子論からの発想ですが、いずれにしてもそれは量子からできているものだと考えられます。そして量子には”ゆらぎ”が存在します。なおこの”ゆらぎ”は昔流行った”1/fゆらぎ”とは異なります。私の考えは「時空多様体」もゆらいでいるというものです。ただ、量子ゆらぎだけで「時空多様体」がゆらいでいるかどうかはわかりません。ゆらぎの発生元はひとまずおいといて、私は、空間がゆらいでいるだけでなく、時間軸もゆらいでいると考えています。すなわち未来も過去も常に変動しているのはないか、と。

 これはかなり大胆な発想でしょう。よく「過去は変えられないが未来は変えられる」と言われますが、ここでの私の考えは「過去も変わりうるし未来も変わりうる」というものです。ただし、「変わりうる」といっても「現在に影響のない範囲で」という条件がつきます。というのは、いちおう時間や空間は(マクロレベルでは)連続的に存在するので、その連続性を損なわない範囲で、ということになりましょうか。
 過去が変わるといっても、例えば現時点では徳川家康の存在が疑われることはまずありません。しかし私が小学生のときに歴史で習ったような聖徳太子の存在は疑われています。別に、これが「時空多様体」の存在を裏付けていると言いたいわけではありません。単に現在からみた過去の変化や連続性という観点からは、徳川家康の方が聖徳太子よりも影響が大きいだろうと言いたいだけです。また徳川家康が偉大で聖徳太子はたいしたことないと言いたいわけではありません。ただし、1000年後はまた違う様相になっているかもしれません。(徳川家康と聖徳太子が1000年ぐらい違うので)
 時折、新資料が見つかって歴史が書き換えられるということがあります。しかしながら、だいぶ時間がたってなぜ今頃になって見つかるのか、ちょっと不思議な気がします。
 また、これはちょっとオカルトですが、過去の撮った写真を久しぶりにみると記憶と違うものになっているという話も聞きます。例えば、横を向いていたはずの顔が今写真を見ると正面をむいている、とか。昔はこういう話をよく心霊もののTV番組で取り上げていたものですが、実は作り話などではなく実際にあった話かもしれず、過去の変化が写真にも反映されたのかもしれません。写真とか古文書とかも固定的な物ではなく時空のゆらぎとともに変化しているのかもしれません。
 逆に未来はどうでしょうか。もちろん我々は未来を経験できないので可能性はいくらでもあるように思いますが、連続性の観点からは、やはり制約があります。未来は選べるといっても、例えば10秒後の未来は今この瞬間とそれほど変わらないでしょう。1分ぐらいあれば多少の移動は可能でしょうが…。さらに周囲の環境とのかかわりもありますので、全くの自由意志で未来を選べるわけでもありません。しかし「今」に影響のない範囲で未来は変わりうるのでは、と思います。こういう考え方の方が未来に対して希望が持てますよね。

 では「時空多様体」が変化すると仮定して、何をもってゆらぐのか?残念ながら、私の頭ではわかりません。しかし天体の運動にも摂動があるように、「時空多様体」にも摂動があるのではないかと思っています。天体の摂動は例えばごく小さな天体の微妙な引力等によって引き起こされますし、制御工学の世界での摂動はいわゆる外乱などの副次的な作用で制御が乱れることを意味します。そこで制御のロバスト性が問題となるのですが、それはここでの議論とは関係ないので飛ばします。
 ここからは憶測ですが、量子的なゆらぎを起点として空間あるいは時間に対してエネルギーや原子、分子などの物質へと作用が広がっていくのではないかと思います。

 さらに妄想を広げると、量子のふるまいというのは、量子自体が自律的にゆらぐのではなく、人の観測や意識によって変わるのかもしれません。そう考えると、ナポレオン・ヒルの言うように「思考は現実化する」というのは、「時空多様体」においてはありうる、と言えるかもしれません。いやむしろ、この「時空多様体」モデルこそ、ナポレオン・ヒルの成功哲学の考え方と親和性があるようにも思えます。もっとも私はナポレオン・ヒルはあまり信じてませんが。
 しかしこの考え方は、未来に対して人の意志が働く可能性があるという、希望のもてる宿命論だと思うのですが。
 で、次にあとがきです。

■ あとがき

 今回は、相対論や量子論でいう「時空多様体」というものをよすがとして宿命を考えてみました。これは過去と未来を等価なものとして一体的に考えるモデルでした。そして今回の(その3)の結論は、これまでの宿命観とは違って、現在に影響しないかぎり変わりうる、というものでした。さらに未来と過去を等価なものとして考えれば、過去も変わりうる、という考えを提示しました。これは私のオリジナルではない(と思う)のですが、人の観測や意識がその変化にかかわる可能性があるというのは、私の独特の考え方かもしれません。
 さらに、現在の人の観測や意識が過去にも影響し、歴史自体も常に変容しているかもしれないと私は考えています。たぶんこういう考えを持っている人は、少なくとも私の知る限りいません。ナポレオン・ヒルも「思考が歴史を変える」とまでは言っていないでしょう。まあ私が考えつくぐらいですから、もちろん世界のどこかにはいるのだろうと思います。

 "hiroto的"宿命観はこれで終わらず(その4)も予定しています。(その4)では趣を変えて、遺伝という面から宿命を考えてみたいと思います、と予告しますが、気分次第で変わるかもしれません。


103年周期について (2022/2/20)

 タイトルをどうしようかと思ったのですが、とりあえず上のタイトルにしています。書き換えているうちに変わるかもしれません。
 今年と同じような年は果たして何年前だったのか、というのがテーマです。「"hiroto的"宿命観(その2)」で書いたようにこのところ「周期」ということに関心があり、大六壬による測局をやっているときに、ふと思いついたものです。

■ 103年周期の導出

 今年は2022年です。今年の立春は、国立天文台暦計算室によると2月4日5時51分でした。2月4日は戊子日で5時51分というのは卯時です。
 では問題です。立春が戊子日卯時になるのはいつでしょうか?

 まずは場合の数を計算してみます。日干支は60通り、時支は12通り。すなわち組み合わせとしては720通りあることになります。これは720年のうちに1度はあるだろうという目星はつきます。では実際にはどうでしょうか?

 これを計算するにはひとまず一太陽年を使います。一太陽年も変化していて、今は約365.24219日ですが、以前はもっと長かったとのことです。ひとまずはこの数字を使って計算してみますと、103年でだいたい立春の日干支と時支が同じになります。計算過程を以下に記しますと、
  365.24219×103 = 37619.94557
すなわち、103年前もしくは103年後の立春は約37620日前もしくは後です。37620は60で割れますからこの103年前または103年後は「ほぼ」日干支が一致することになります。「ほぼ」というのは、ピッタリではないということです。でその差は
  1-0.94557 = 0.05443 日
  0.05443×24 = 1.30632 時間 = 約1時間18分
ということになります。すなわち、37620日から1時間18分の差異があるので、その範囲内の場合を超えた場合には日干支なり時支なりが変わることになります。
 さて、2022年2月4日5時51分から27619日22時間42分を引きますと、1919年2月5日7時9分ということになります。残念ながら、時支は辰時になりました。
 しかしながら、実は歳差運動により春分点自体も移動します。この計算過程は省きます。1919年2月5日の立春の時刻をあらためて計算しますと、上の計算よりも1時間以上ずれて1919年2月5日5時40分ごろとなります。すると卯時ということになり、今年と同じ時支になります。

 というわけで、世の中にはいろいろな周期の話、例えば景気の波とかがありますが、日干支時支と太陽黄経とで作る103年周期というのもその中の一つの候補になるのではないかというのが私の提起する仮説です。
 以上は誰か思いつきそうなものですが、ネットで103年周期説を唱えている方はざっとみた限りでは探せませんでした。

■ 103年前に何が起きていたか?

 さて、私はなぜこんな計算をしたかといえば、実は大六壬の測局のためです。この計算によれば、103年前もしくは後の立春は同じ六壬課式になる可能性が高いということがいえます。もちろんピッタリではないので、年によってはずれる可能性もありますが、だいたいは103年前をみれば今年の予測がある程度できるのではないかという発想をしたわけです。ただし103年では年干支が違いますので、六壬課式が同じだから全く同じとはいえないわけですが…。
 そういう違いはあるということを踏まえた上で、103年前すなわち1919年頃に何が起こったかを見てみましょう。なお、出来事の記載には主としてWikipediaを参考にしました。

1917年 (2020年の103年前)
 ・第一次世界大戦継続
 ・米国、ドイツ国交断絶
 ・ロシア革命
 ・元清朝皇帝溥儀退位
 ・東京湾高潮水害
 ・ファティマでの太陽の奇跡
 ・神戸で天然痘の流行
1918年 (2021年の103年前)
 ・第一次世界大戦終結、休戦協定、欧州諸国の独立
 ・米騒動から寺内内閣総辞職、原内閣成立
 ・スペイン風邪流行
 ・東北、北陸豪雪
1919年 (2022年の103年前)
 ・パリ講和会議
 ・ソビエト社会主義共和国樹立
 ・ソビエト・ポーランド戦争
 ・朝鮮三・一独立運動
 ・中国五・四運動
 ・スペイン風邪流行、来年まで続く

 今から103年ぐらい前というのは天然痘やスペイン風邪が流行しており、新型コロナにあえいでいる現在の日本と重なる部分があります。気になるのは1919年2月、すなわち2022年から103年前にソビエト・ポーランド戦争が起きていること。なおウクライナもからんでいます。今日(2022年2月20日現在)まさにロシアとウクライナおよびNATOや米国との緊張が高まっていますが、何となくいやな感じです。
 また今年は韓国で大統領選挙が行われますが、1919年には三・一独立運動が起きています。中国では五・四運動が起き、中国や朝鮮半島では抗日運動、新たなナショナリズムが高まった年といえるでしょう。

 上には書いていませんが、1919年には米沢市で大火災が発生、四国中国では豪雨災害が記録されています。またインドネシアでは火山の噴火で5千人が亡くなっています。ボストンでは糖蜜災害と呼ばれる工場の爆発も起きています。が、全般的には自然災害が今ほど多くはなかったようです。

 なお、以下はあくまでNOTEとして書くだけです。
 1919年の4年後、1923年に関東大震災が発生、さらに世界は大恐慌を経て第2次世界大戦へ、そして日本は太平洋戦争へと突入していくことになります。そして1945年に終戦。その103年後は2048年。私は(あちこちで書いているようにある霊能者の受け売りですが)日本の復活は2050年ごろと予想していますので、それと符合します。

■ あとがき

 今回は103年周期説という仮説の提起だけで、この仮説が成立するのかどうかはこれから検証していこうと思います。検証の方法については単に過去を振り返って比較するだけでなく、占術の論理(理論というと科学的な感じがします、占術は科学とは今のところいえません)からどうしてそう考えられるかをもう少し深く突っ込みたいと思います。

 前項でも少し述べましたが、六壬課式は同じでも年干支が異なりますので、事象のあらわれ方の違いや吉凶は当然変わってくると思われます。では年支が同じというのは何年前でしょうか?103というのは素数ですから、単純に12倍すると1236年前ということになります。2022年から1236年前というと西暦786年であり、これほど前だとあまりに社会が変わりすぎていて参考にならないでしょうね。


”hiroto的”宿命観(その1) (2021/8/15)

 タイトルはいかにも初めての話題のような感じですが、実は本ページの「開運法」、「四柱推命そぞろ歩き」の中の「行運とは宿命である」の続編です。もっとも続編といってもそれぞれ行き当たりばったりの内容なので、続編とはいえない気もしますが、一応私の中ではそれらの延長線上の話なので、少なくとも私的には続編なのであります。
 で、たぶんこの内容の受けとり方は人によってさまざまだと思います。たぶんほとんどの人は全否定でしょう。否定はしないまでも全く救いがないと思う人、それなりにがんばろうと思う人、あるいはもっと別の思いを抱く人もいるかと思いますが、私はそれでいいと思います。運命や宿命を考えるきっかけにしてもらえれば幸いであります。まあ私の日記と同じで、後で私が読み返したときに、自分はこう考えていたのか、という将来のちょっとした驚きに期待しているところもあります(自分の日記を読み返すと恥ずかしいこともありますが驚くことも多いので)。すなわち人のためではなく自分のためというところでしょうか。

■ ”hiroto的”宿命観のきっかけ

 最近とくにネット上で人生論的な記事に出会うことが増えたような気がします。いやネット上では以前から人生論的な記事が出ていたのだが、私がそれを意識しなかっただけなのかもしれません。人生論といえば三木清の「人生論ノート」を思い出す人もいるでしょうが、そういう人もだんだん減ってきているんじゃないでしょうかね。私も年をとりました。
 それはさておき、私がここでいう人生論的な記事というのは、いわゆる人生論ではなく、生き方に対する考え方というぐらいの意味です。例えば堀江貴文氏だったりひろゆき氏だったり、昔だったら言語道断というか有無を言わせず切り捨てられていたような考え方が割とすんなり受け入れられるようになってきたように思います。

 ここで私が考えたのは彼らの説いている内容そのものではなく、そういう世の中の状況です。ある日、ひろゆき氏の発言をネット記事で読んでいる最中に突然、彼の現在の境遇だけでなく発言すらも「意志」ではなく宿命なのではないかという考えがひらめきました。しかし一方で、いやいやそうではなく、あくまで彼らの発言は自由意志からのものであり、宿命ではなく時代の風潮にたまたま合っていただけのかも、と思ったりもしました。
 彼らの話は自由意志からのものだと結論づけるとこの話は終わりとなります。が、まてよ、と考えたのがこの章を書いてみようと思ったきっかけです。

■ 定向進化説??

 話変わって、「定向進化説」というのをご存じでしょうか。昔理科の教科書で習ったような気がしますが、ネットで見る限りもはや全く否定されている説のようです。申し訳ないですが最近の教科書の確認はしていません。

 ところで、今これを書いているのは2021年、コロナウィルスの変異株に悩まされている状況ですが、コロナウィルスが一定の方向に進化しているとは当然考えられておらず、ランダムな変異のうち生き残るものが生き残るという、いわば自然選択が働くという見方が普通です。私もそれは納得です。ウィルスの話を全体に適用するのはいささか乱暴かもしれませんが、進化というのは一定の方向に進んでいるわけではなく、あくまでランダムな変異と生き残りの積み重ねで起こっているというのは、まあ自然な考え方でしょう。もっともウィルスとは異なり、複雑な機構をもった生物は、変異する遺伝子に制限があり、全くランダムな進化ではなく進化の範囲は限定的であるということは言えるかもしれません。でも進化の範囲に限定があるってある意味定向進化といえるのでは??

 上の議論とは離れますが、そもそもコロナウィルスは大昔から存在しており、どこかで変異を繰り返していたと考えられます。人類が森を切り開き、さらに自然の(ヒト以外の)動物が解き放たれて、さらに人流が盛んになることで現在の新型コロナ騒動になったとすれば、今の状況は早かれ遅かれ起こっていたと考えられます。
 別の言い方をすれば、新型コロナかどうかは別として、ウィルス感染症というのはいずれ避けられないという意味では、人類文明の一種の宿命といえるのではないかと思います。

 前項で触れたひろゆき氏や他の方々(十把一絡で申し訳ないです)について、彼らをウィルスに喩えるのは失礼極まりないことですが、そういう考えが受け入れられる時代が来るのはある意味人類の宿命とも考えられます。いやいやそれは違う、彼らの考えは世の中の動きを反映した上のものであるから因果関係が逆である、すなわちウィルスは勝手に変異するが、彼らは勝手に変異したわけではなく環境によって出た考え方である、というご意見は実に正論です。ただ、であればなおさら、彼らの出現は人類(というと大げさなので)いや日本にとって宿命的であるとも言えるのではないかと思います。極端な言い方ですが、ひろゆき氏でなくてもいずれそういう人が出てきたであろうと。

 この項での私の考えは、人類の文化や文明は定向進化(進化かどうかは議論があるでしょうが)しており、実は未来は宿命的に決まっているのではないか、ということです。論証しているわけではありませんから、単なる私の考えの表明にすぎません。(仮説まで至らない単なる信念というべき)
 以前にもあげたアナロジーですが、そういう社会的、文明的な変化は、私は地球の自転や公転のようなものだと思っています。地球の運動は基本的に物理的法則にしたがっており、その軌道や天文現象はかなり正確に予測可能です。しかし摂動という現象があり、完全に正確に未来の地球の軌道が予測できるわけではありません。しかし地球の運動の摂動は人類にとってはほとんど影響がない範囲の話です。(もちろん隕石が衝突したりすれば話は別ですが)

■ マクロからミクロへ

 以前ニュースだったかネットだったかで聞いたのですが、「(コロナウイルスの)ワクチンの重篤な副反応は〇〇分の1だが、その本人にとっては1分の1である。」
 ここが一番難しいところです。ワクチンの副反応というのは間違いなくあり、ワクチン接種という行為自体にとっては避けられない宿命的なものですが、ではその本人にとって宿命的といえるのかどうか?それを考える前提として、その本人に遺伝的に副反応が起きる要素はないとします。もし遺伝的に要素があるのであれば、宿命的という以前に必然(に近い)ですから。

 ここまでの私の提出した例は、物理現象とか確率とか大数の法則とかと個人の宿命とを混同していると言われるでしょう。それはご指摘のとおりで、ですからタイトルは「マクロからミクロへ」としたのであります。視点をミクロに移すとどうなるのか。

 さて、この項を考えるきっかけになったのはワクチンの副反応なのですが、一方それは個人の遺伝や体質に依存するところが大きいので、この項の議論の例としてはあまり適当ではないように思われました。というわけで、ワクチンの副反応から離れて航空機事故ならどうかを考えてみます。航空機事故なら遭遇する確率は非常に低いとはいうもののゼロではなく、いずれ起こりうるという意味では(マクロ的な意味では)宿命的といえるでしょう。
 ワクチンの副反応と同じように考えますと、事故そのものではなく事故に遭う人にとってそれは宿命「1分の1」といえるのか?

 航空機に乗ったことはないという人もいるかもしれませんが、以下は航空機にこだわらなくても構いません。鉄道でもいいし船でもいいでしょう。とりあえず航空機で話をすすめます。

 その前に、これからの話は人知の及ばないところの例として航空機事故をあげています。
 航空機事故に遭った方や航空機事故によって身近な人を喪った方々にはかなり不快な話になるかもしれませんが、あくまで例としてご容赦いただきたいと思います。そういうみなさまには、お見舞い、お悔みを申し上げます。

 ところで、航空機に乗るまで何をするかを時間を逆にたどってみましょう。
 航空機に乗るにはチェックインが必要です。荷物検査などもあります。で、その前はというと、その日に飛行場にたどり着く必要があります。そもそもその日の天候が航空機が飛べる状況にないと飛行場に行っても意味がありません。また、たいていは航空券の予約はたいていかなり前にするものだと思います。もちろん当日やむをえず予約なしで航空券を買う人もいるでしょうが、そういう人でも予定が決まっていれば事前に予約するでしょう。で、その予定は、単なる遊びなり、出張なり、帰省なり、いろいろな理由で生じているはずです。
 こうしてみると、単に航空機に乗るという行為においても、いろいろな行動や環境の組み合わせで成立していることがわかります。言い換えると、個人にとってもさまざまな条件が組み合わさって「航空機事故に遭遇する」ということにつながるといえます。
 「マクロからミクロへ」とのタイトルの意味は、マクロな事象をミクロの視点でみるとこういうことになりますと言いたかったわけです。ちょっと宿命論的になってきましたかね?

■ 関係性をさらに考える

 さきほどは時間の流れを逆に考えました。今度は時間の流れの順に考えてみましょう。

 航空機に乗るきっかけはいろいろあるでしょうが、例えば出張というのを考えましょう。出張というのはたいてい時間と場所が決められています。そしてビジネスにおいては時間節約のため航空機を使うことが多いでしょう。私は鉄道の方が好きですが、例えば東京から九州に出張する場合、各駅停車を乗り継いで行きますなどと上司に申し出たら「バカヤロー」と言われるはずです。(そんな申し出はしたことないので実体験ではないです)
 出張の場合、どの航空機に乗るかは出張する時点でほぼ決まってしまいます。で、この時点でその航空機に乗るであろう確率は100%ということがいえます。では、あとの行為や環境について確率を考えてみましょう。
 当日の天気は3日ぐらい前ならほぼ正しく予想できますが、2週間前だと予想はつきません。ただ、欠航になる天候というのはきわめて限定的ですので、台風シーズンでもない限りまず大丈夫でしょう。
 当日になって体調を崩すということもありますが、普通に健康であれば9割方は大丈夫なはずです。1年のうち1割の期間(すなわち30日も)を体調を崩して会社を休むということは、少なくとも私はなかったです。(丈夫なことを自慢したいわけではありません)
 空港に着くまでの道のりで何らかの事故やトラブルに遭遇するということも確率的には非常に低いと思われます。
 すなわち、一度出張が決まって航空券を予約してしまえば、途中で目的の航空機に乗ることができなくなる可能性はきわめて低いといえるでしょう。私の場合予約したフライトに乗れなかった経験は天候不良の2回だけで、0.1%にもなりません。ただしフライトの時間が遅れたことは何度もあります。また私の乗った便の次の便や前の便が飛ばなかったということは何度かありますが、それもそれほど多いわけではありません。

 さて、再び時間を逆行して考えてみましょう。
 とある便で航空機事故が起こったという前提に立つと、この航空機に乗っている乗客は100%とまでは言いませんが、この航空機の予約をした人の9割ぐらいは搭乗しているはずです。その人たちには途中いろいろな選択肢があったはずですが、確率的にはその航空機に乗る可能性が高かったということになります。
 そして時間という概念を取っ払って、単に関係だけみると、その航空機と乗客は9割ぐらいの強い結びつきがあるといえます。相関係数をとればきわめて高い相関があるということになります。
 喩えですが、事故を起こす航空機とその乗客は赤い糸、いやこの場合黒い糸にしましょうかね、その黒い糸で結ばれているとします。最初は予約した乗客と黒い糸が結ばれているわけですが、つながっているように見えて実はつながっていなかった人(すなわち乗客にはならなかった人)もいるでしょう。最初はつながっていなくても直前につながる人もいるでしょう。一方、航空機から見ると大半の人は、黒い糸に導かれるように航空機の中に吸い込まれていくのを目の当たりにするわけです。

 この喩えは時間というものを取っ払った見方です。すなわち関係はあるが時間的な因果関係はない状態です。
 一般的に因果関係といわれる関係には時間の要素が入ります。「親の因果が子に報い」という言い回しがありますが、親と子という規定をしている段階で因果関係には時間を伴います。過去が現在につながっているということです。で、因果ということを明確に説いたのは仏教です。

 ところが、仏教の因果説には元々時間の要素はなかったと、私は思っています。もちろん『過去現在因果経』というお経はあります。しかし、いろいろな経典や仏教の解説書を読んだ限りでは、因が過去で果は未来ということが明確ではありません。未来が因で過去が果ということは仏教のみならず宗教の世界では(本流ではないにしろ)考えられています。釈迦が生まれたのは未来の衆生を救うためであるなど、未来で起こる出来事から過去が成り立っているということも考えられるという話です。宗教に終末論的な話が多いですが、宗教指導者の出現が世の終わりのためにあるなら、まさに時間的な因果が逆になっているように思います。

■ 時間軸をこえた世界

 前項では時間を順にたどったあと、再び逆にたどってみました。カンのいい人はもうおわかりでしょうが、実はタイムマシン・パラドックスの話をするために、航空機事故の例をくどくどと書いてきました。関係者の方々には不快な思いを与えたかもしれません。ここで改めてお詫び申し上げます。

 タイムマシン・パラドックスで有名なのは映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でしょう。この中で主人公が生まれないという過去を作り出してしまいそうになる、という話があります。内容の詳細は省きますが、その話でなくても、タイムマシンで過去に行き親を殺した場合には何が起きるかという議論があります。「親殺しのパラドックス」と言われるものです。学者やSF作家のみならず、一般の人も加わっていろいろな仮説が出されています。実はこの議論が"hiroto的"宿命観を考える一つのカギとなっています。(別のカギもありますがそれはまた別に章立てします)

 いちばん簡単な解決策は、過去にはさかのぼれないということです。有名なのがホーキンスの唱えた「Chronology Protection」です。時間を逆行するには無限大のエネルギが必要なため実際には不可能ということです。これは私は正しいと思いますが(ですからタイムマシンは少なくともこの世界の未来では作れないと思っていますが)、これでは話がここで終わってしまいますので、とりあえずこの説は棚上げしましょう。
 また過去を変えた瞬間、この世界は消滅するという説もあります。これもまた話は終わってしまいますので、この説も棚上げにします。

 では仮に過去にさかのぼることができるとして、過去を変えようとしたときに何が起こるか。ネットでみると大きく3つの考え方が提示されているようです。一つは①パラレルワールド仮説。2つめは名前はないですがとりあえず②軌道修正モデル(ビリヤードモデル)と呼ぶことにしましょう。3つめは③事後選択モデルです。
 まずはそれぞれの簡単な解説をしますと、①パラレルワールド仮説というのは、過去が変更された瞬間別の未来をもつ世界に入るというものです。最近では「世界線」という言葉で呼ばれているようですが、この説にしたがうと今この瞬間もありとあらゆる可能性のある世界が無数存在しており、それを我々は認識できないだけということになります。これはちょっと私には理解不能というより信じられません。
 ②軌道修正モデルというのは、起きたことで多少別の世界線に入るが、矛盾を取り去るような形に修正され、またもとの世界線に戻るというものです。例えば、「親殺しのパラドックス」でいえば、親を殺したつもりでも実は別の人であった、そして殺した自分は別の人から生まれた、というように未来が矛盾なく成立するように軌道修正されるという説です。②は別の世界線の存在を認めるという意味では、①と同様のところがあります。
 では③はというと、未来に影響するような過去の改変は失敗するというものです。「親殺しのパラドックス」でいえば、親を殺そうとしても失敗に終わる。例えばどうしても近づけないとか、殺す前に見つかるとか。

 さて、これが「宿命観」とどうかかわっているのか。

 ①パラレルワールド仮説だと、これは世界というものが無限に存在しているというわけですから、我々はありとあらゆる可能性をもっているということになります。もしこの説が将来仮説ではなく正しいことが証明されたら、予言や占いというのは全く意味のないものということを証明したことになりますね。

 というわけで、多少なりとも予言や占いが意味をもつのは②もしくは③の仮説ということになります。もちろん私はこちらの仮説を信じるものであります。ではどっちだと問われれば、私は③に近い立場です。多少は②的なこともあるかもしれません。

 ここで、そもそも①か②か③かというのは単なる仮説であり、証明されているものではありませんし、そもそも証明できるとも思えません。ある種の信念というか信仰というか、そういうものでしょう。ですから、私の考え方を押し付けるつもりは毛頭ありません。逆に①の考え方で私が説得されることもないです。(なお私は多元宇宙論自体を否定しているわけではありません)

 ③事後選択モデルに依る"hiroto的"宿命観というのは、「未来の選択は許すとして、起こりうる未来を変えるような選択することはほとんどできない。選択しても失敗に終わる」という考え方です。ただ、「全く」できないではなくて、「ほとんど」できないと思います。「ほとんど」とは未来への影響はごくわずかということです。若干②の考え方も許容するというところでしょうかね。
 繰り返しになりますが、前に書いた地球の自転、公転はほぼ計算通りに運動を続けていますが、厳密には地球自身の活動(火山や地震)あるいは外力(隕石の落下や他の天体の重力など)によって予期せぬ運動が起こります。いわゆる摂動です。私は過去から未来につながるいわゆる「世界線」においてもこの摂動が起こりうると思っています。ただしその可能性や影響はごくわずかだと思います。例えば東日本大震災は大変大きな地震でしたが、その影響は地球の自転を100万分の2秒縮めたと言われます。これは地球上の環境にはほとんど影響ありませんが、時間に束縛されている人類は、約千年後にうるう秒を入れる必要が出てきます。もちろんそのうるう秒はたいして意味はなく、地球は依然として回っているわけです。

 この考え方に立つと、世界に大きな影響を与えるような人の宿命は変えられないが、世界に影響を与えない範囲で宿命は変えられる可能性があるということになります。ここでいう世界とは、日本やアメリカ、中国というワールドワイドという意味もありますが、ごく身近な社会も含みます。
 ということは、社会に影響を与える人ほど運命を変更することは難しく、それほどではない人は運命を変えられる可能性が高いということになります。さらに敷衍すると、「世界を変えるぞ」と思っている人は多くはないにしても少なくはないでしょうが、もしそういう人が世界を変えそうな流れにのったら、もうその人の運命はそうそうは変えられないでしょう。逆に世界を変えるほどのことはない人ほど運命を変えやすいといえます。この考え方に立てば。

■ "hiroto的"宿命観(その1)の暫定的まとめ

 私は他の章で、占いに当てはまらない人がある程度の割合で存在すると言ってきました。で、そういう人について多少言及してきましたが、今考えるとそういう人には2通りあるのかもしれません。ただし、占いがある程度当たるという前提に立ってですが。
 一つは、世界の流れにそって必然的にそうならざるをえない人。例えば釈迦とかイエスとかの教祖とか、ニュートンとかアインシュタインとか世界を変えるような思想を打ち立てる人とか、モーツァルトとかベートーベンとかこれまでにない芸術を生み出す人とか、そういう人たちは個人の宿命ではなく世界の宿命にそった一生を送ることになるのでしょう。
 もう一つは、世界に影響をほとんど与えない人、あるいは行為。例えば、喫茶店に入ってコーヒーにするか紅茶にするかというのは、普通はほとんど人生に影響を与えないでしょう。もちろん、コーヒーを選んだがために隣の人と意気投合して新しい人生を踏み出す、なーんてことはありえなくはないでしょうが、ごくごくまれでしょう。ただ、もしそういうことが起きる場合はおそらく紅茶を選んでも間違ってコーヒーが出てきて、それがきっかけで隣の人と話をするとか、すなわ結局紅茶は選択できなかったということになるのでしょう。
 それとは違って、例えばコーヒーをこぼして火傷をして病院に行ったがために運命が変わったという場合は、コーヒーか紅茶かはあまり関係なく、単にそのとき不注意で火傷をしたという事実があるだけで、飲み物の種類のために運命が変わったわけではないといえるでしょう。この場合はコーヒーか紅茶かは宿命にはほぼ影響ないといえます。ですから、注文と違うものが出てくるということはおそらくないでしょう。

 私は、鑑定を依頼された際に財的に弱い人にはよく「蓄財をしなさい」と言っています。「投資をしなさい」とは言いません。蓄財というのは積極的にお金は動かしません。また銀行や郵貯にとっても別に個人の預貯金ぐらいでどうこうということはないでしょう。すなわち世界に対する影響はほとんどなく、これは自分の宿命を変えない範囲でできる運の変更(生活や心理面の向上)の一つだと考えているからです。
 日頃過ごす環境の調節や日々の運動、健康管理、旅行なども宿命を大きく変えずにできることでしょう。運動や健康管理についていえば、いずれ病気になるにしてもその度合はそれまでの生活習慣によって(少なくとも感じ方は)変わるはずです。

 今回は宿命を考えるにあたってタイムマシンの考え方を援用しました。その前提として、あくまで未来は決まっている、すなわち宿命というものがあるという立場で考えています。何度も言っていますが、占いをやっている以上は、大なり小なり未来は決まっているもの、見通せるものであるという立場でないとやる意味がわかりませんから。
 (その2)ではちょっと別なアプローチで考えてみたいと思います。そこでは多少難解な数学の話、例えばフーリエ変換とかそういう話を持ち出すつもりですが、宿命というものを多角的に考えたいということでご容赦いただきたいと思います。いつ書き上がるかわかりませんが…。


”hiroto的”宿命観(その2) (2021/10/31)

 前章の続きとなります。
 前章の中で、「時間軸をこえた世界」という項を設けました。これはタイムマシンを意識したタイトルだったのですが、このタイトルをよくよく眺めていると、時間軸を別の軸に投影するというということはできないか、という発想にいきあたりました。すなわち時間や空間を別の変数やベクトルに置き換えるという関数(あるいは汎関数)が考えられ、それが時間に依存しないものであれば、「時間軸を超えた世界」の存在の可能性が出てきます。もちろんそんなものはないと言われればそれで終わりですが、占いを扱う者としては、そういう存在の可能性を考えてみるのは当然でしょう。
 この章では、そういうアプローチを考えてみたいと思います。

■ (その1)と(その2)との違い

 時間軸を別の軸に投影するという話の前に、(その1)との違いについて。
 (その1)では「未来は確定している」という前提をおいて話を進めています。それでタイムマシン・パラドックスの考え方を援用しました。しかしこれから話を進める(その2)では「未来はある程度確定している」という前提に立っているわけではありません。結論からにいえば「未来は確定しているかもしれないし、確定していないかもしれないが、過去、現在の延長線上にある以上、全く思いもよらないことが突然起きることはなく、予想できるもの」ということを前提としています。「確定している」と「予想できる」とは違います。そのうえで、いろいろな考え方を紹介しながら述べています。そして、漠然と考えている私の宿命観をもう少し明確にしようと試みます。

■ フーリエ変換について

 いきなりですが、フーリエ変換という言葉を使いました。フーリエ変換の理論的なことはネットを参照してください。で、私は某大学で制御工学を勉強しましたが、そこで習ったのがフーリエ変換です。そのときの理解は時間の関数で表される値を周波数で表す関数に変換するというものです。そのときは、便利なものだがまあそんなものか、と思っていて驚きとかは感じなかったのですが、実際に仕事で得られたさまざまな現象(といっても電気信号だが)をフーリエ変換して周波数領域で見ることで、原因や特徴が解析できたという経験がありました。もちろん実用上はフーリエ変換の理論を知らなくても問題はないのですが、高度な数学が実務上で役立つという好例です。「微分積分が何の役に立つのか?」などとのたまう方は少なくありませんが、こと製造業の技術者にとっては「微分積分」どころではない知識、理解が必要になります。

 おっと、話がそれました。
 ここで言いたいのは時間の関数を周波数の関数に変換する、すなわちフーリエ変換を使うことで時間とは別の軸を持つ関数にすることができるということ、つまりは時間軸をこえた世界に変換できるということです。

 フーリエ変換をこのような話の類推にもってきたのは私だけではありません。例えば『あの世の科学』(天外伺朗著祥伝社)でも取り上げられています。その内容は原著を読んでいただくこととして、フーリエ変換はあくまで類推なのであって、フーリエ変換で変換された世界が時空を超えた世界そのものだと言っているわけではありません。しかし、時間に依存する(と思われる)物理現象を時間に依存しない関数に置き換えて現象を記述するというのは、類推としては悪くないでしょう。

 ただし、話の腰を折るようですが、フーリエ変換というのはある定義域(すなわち時間の幅)でしか正確に変換できず、無限に続く現象を正確に変換することはできません。また正確に逆変換を行うには、初期値を与える必要があります。
 さらに、デジタル的に処理するには、サンプリング定理により最小の周波数の2分の1以下の時間でサンプリングをする必要があり、フーリエ変換にはいろいろと制約があります。
 とはいえ、時間軸を周波数軸に変換できる可能性があることは、(時間の長さの制約はあるとはいえ)、周波数と振幅と初期値によって、周期関数の和として将来の値を予測することが可能ということになります。
 もちろん周波数というのは時間に基づく単位であり、時間という因子を含んでいないということではありません。

 あまりうまく説明できていませんので、フーリエ変換についてはネットや信号理論の教科書などを参考にしてください。

■ 周期関数の和ということは?

 周期関数?
 この言葉にピンとくる人はいるでしょうか?
 私は、別のページで四柱推命は60干支という周期の波があることを前提にしている、という話をしました。四柱推命は個人の占いですが、占いから外れて周期という問題を考えてみましょう。

 我々が一番身近に感じる周期は何でしょうか。何といっても一日、24時間周期でしょう。これは多少長さの違いはありますが、人類が生まれて今までずっとあった周期です。そして一年365.242日も身近な周期です。また月の満ち欠けである約29.5日も周期です。これらが我々の生活に大きな影響を与えています。
 しかしこれらは自然現象であり、人間で変えられるものではありません。また将来も変わらず起きる周期的現象です。 例えば、今は昼でも半日もすれば夜になりますし、日本なら今(9月です)は暑くても半年もしないうち寒くなるでしょう。そういう予言をしたところで誰にも感心されません。

 しかし自然界だけでなく人の中にも周期的な現象があります。最も明確なのは(明確でない人もいますが)月経周期でしょう。また、人間には独自の体内時計があり、それが一日24時間とややずれているのでこれが身体に不調をきたすことも知られています。
 また双極性障害(以前はそううつ病と言われてました)の症状の出方は人によって違うようですが、ある程度周期性があるようです。
 それらとはまた違う話で最近はあまり言われなくなりましたが、一時期バイオリズムというのが流行りました。そもそも知力や体力などの日々の変化を計測できるのかどうか疑問なので、単なる仮説あるいは疑似科学といっていいと思いますが、それでも前の例も考えると、ヒトの活動にある周期があるというのは何となくありそうな感じはします。

 ところが周期的な現象は何も物理化学や生物の現象ばかりではありません。人間の社会活動の中で周期的現象として有名なのは景気循環でしょう。私がもう40年以上前に学校で教わったものです。当然社会の構造や技術の進歩もありますので、それがそのまま現代に当てはまるとは思いませんが、景気循環というのは今でもあると思います。
 経済ではなく社会現象としての周期はあるのでしょうか。これについての研究が盛んなのは中国です。さすがは「易経」の国です。また日本でもときどき特定の社会現象が周期的に現れると論じる学者もいます。

 こうしてみると、世の中は周期的に起こる現象の重ね合わせであると考えることはあまり突拍子もないこととはいえないでしょう。もちろん正しいとまでは言えませんが。

■ "hiroto的"宿命観(その2)の暫定的まとめ

 というわけで、最近は周期ということについて関心をもっています。周期性のある物事を重ねて見ることによって世の中で起きることがある程度読めるようになるのではないかと。言い換えると、周期によって未来というのは確定しているのではないかと。
 もちろん確率でしかものがいえない量子論的世界はあるのでしょうが、確率的にはきわめて低く、いわゆる摂動的な動きで終わるのではないかと。
 まとめというわけではないのですが、今後周期ということにこれまで以上に着目して将来を占うことを考えていきたいと思います。もちろんなぜそういう周期が起こるのかも含めて。
 ということでもないのですが、私が今考えている103年周期について別項で述べます。


占いを学ぶ上でのアドバイス (2016/10/30)

 1980年ごろから占術の勉強を続けている(途中何度も中断しましたが)私の経験から、占いを学ぶ上でのアドバイスをいくつか述べようかと思います。

■ 習うより慣れろ

 占いは、「習うより慣れろ」です。独学派の私は師につくことはなく占いを人に教わったことがないので、当然「習う」ことはなかったのですが、それでもやはり「習うより慣れろ」と強く言いたいと思います。とにかく、命式、課式、星図あるいは筮竹やカードなどなど、占いの道具と言われるものをとにかく数多く作成したり、取り扱ったりしてみましょう。
 タロットとか西洋占星術とかは別として、東洋の占いを学ぶのであれば、干支、暦に関する知識は必須です。私のHPにある中国占術の基礎知識というページの内容は最低限の知識ですので、それぐらいは頭に入れておく必要があります。これらの知識を機械的に覚えるのは大変ですが、命式や課式などの作成を続けていると自然に頭に入ってきます。自分の手で万年暦を開いて多くの命式とか課式とかを作成することを薦めます。なお、ウェブサイトで命式や星図で作成しプリントアウトするのは便利でいいのですが、その上であらためて自分で手で書いてみるのがいいと思います。

 四柱推命についていえば、最初が肝心です。良い師につくのが最もいいのですが、できない場合は、定評のある入門書を読みましょう。安い文庫や新書版の本は入門書としてはあまり薦められません。私のような手探り状態は時間を無駄にします。ただしある程度知識がつくと、そのような本でも勉強になることが多くあります。あくまで入門書としては不向きだと言っているのであって、有用ではないと言っているわけではありません。誤解なきよう。

 あえて強調したいのですが、占いのために自分の生活を犠牲にするのはやめましょう。
 プロになりたい方は別ですが、占いというものはのめりこみやすいし、占いで自分の生活をつぶした人もいますから、占いと長くつきあいたいのなら、占いをふだんの暮らしよりも優先させないことです。所詮占いは占いです。このHPの中でも何度も書いていますが、常識的な判断の方が占いよりも当たる確率は高いです。このことを強調したいので項をあらためて続けます。

■ 常識で判断できることを占う人が多すぎる

 以下は、特定の人を念頭においたわけでもなく、またそれほど深い意図があるわけでもありません。ま、私のスタンスというか考え方を述べています。それにしてはちょっときついタイトルですが(苦笑)。

 私は、実生活で占いを利用することは少なからずありますが、常識で判断できることはまず常識を優先するということにしています。

 例えば、身体が不調なときはまず「家庭の医学」的なものを紐解きます。もっとも数冊あった本はすべて売りに出したので、いまは医者や製薬会社のサイトで調べるようになりました。さらに悪ければ医者にいって診断してもらいます。身体の不調の原因を占うというのは、遊びとしてはいいけど、医学的な診断、治療を優先させるべきでしょう。これが、「まずは常識」ということです。そして、その医者の診断が正しいかどうかは、基本的にはあまり疑わないのですが、心配なときはサイトで確認したり、セカンドオピニオン的なものを探したりします。たまに六壬で占うこともありますが、常識とずれた判断は(原則として)しません。

 別の例を挙げましょう。例えば、待ち合わせ場所に電車でいくか、タクシーを使うか、徒歩でいくか?これも、別に占いを使うまでもなく、距離と時間と金額を勘案して決めます。これもあたりまえ。プロの占い師だって、交通手段の選択にいちいち占いは使いません。(否、使っている人もいるかもしれませんが)

 上にあげた例は、おそらくほとんどの方がそうしているでしょうし、また納得もされていると思います。

 ところが、次の例はどうでしょうか?
 占いの本によく載っていたり実際に耳にしたりするのですが、「息子は大学に合格できるでしょうか」というような相談です。そもそもその息子が勉強していなければ話にならないし、こんな質問は高い金をかけて占ってもらうより、そのお金で模擬試験を受けて合否判定をしてもらうほうがよっぽど当たります。模擬試験の合否判定は合格の確率まで出してくれますよ。あるいは、私はもちろん薦めませんが、「息子を大学に入れてください」と金を関係者に出す方がよほど効果があります。でもまあ、そうやって大学に入ってもしょうがないでしょうし、人生の成功失敗は大学だけでは決まりませんからね。ま、多少は違うでしょうけど。

 また別の例。例えば株価についての占い。一般論としては株式投資だって、経済情勢や投資対象の状況を総合的に判断すべきものでしょう。別に株式投資は自己責任ですから、好きで占いを使うのにとやかく言う必要もないですけど。  恋愛、結婚占いだって、会って話をして、相手の人柄や知力、財力、はたまた家柄、家族等々、いろいろな条件をみて判断すべきものだと思います。

 でも物事は合理的にばかり割り切れるもんじゃありませんよ、という気持ちはわかります。私だってそう思います。とはいっても、合理的に判断できることは占いをやるまでもないし、占いの結果で判断するよりは(少なくとも確率的には)よい結果が得られるでしょう。占いに頼るのは、考えに考え抜いて、それでもやはりわからないし、知りたいときに使うべきものだと思っています。

■ ころばぬ先の杖

 「それでは、占いはどういうときに使うのですか?そうであれば占いを使う場面はほとんどないのではないでしょうか?」と訊かれそうです。確かにそれはそうでしょうね。

 前言とは若干意見を異にしている感じもあるのですが、人生には常識では測れないことも多いし、目的や行為が明確でない漠然としたことを知りたいという気持ちは誰しも持っていると思います。例えば、幸せな家庭を持てるかとか、どういう仕事が向いているかとか、またいつごろ死ぬかとか。こんなことは常識で考えても答えが出るものではありません。仕事の向き不向きは適性検査でつかめても、本人と周囲との関係もありますし、常識だけではなかなか判断がつきにくいでしょう。

 「占いは人生の羅針盤である」とか「占いはころばぬ先の杖」という人々がいます。私も基本的にはそれらの意見に賛成です。
 別の雑文で、宿命と運命について書こうと思っていますが、人生は宿命的なものでなく、本人の努力次第である程度(あくまである程度ですが)、変えられるものと思っています。災難や病気、凶兆に対して備えをすることが悪いはずがありません。悪いのは、占いの結果が悪いときに悲観的になって何の手もうたないことでしょう。悲観しすぎて自殺などもってのほかです。凶という結果が出たら、まずは腹をくくってそれに対応する方法を考えるべきだと思います。
 もちろん、そこでも合理性が必要で、ただ神仏に祈ったり方角を気にしたりというのは、私としては感心しません。まずは合理的な対処方法を考えて、そのうえで神仏に祈るなりいい方角を選ぶというのは、いいと思います。実際、私も仕事等でトラブルが起きると、まずは最悪の結末を避ける方法を考えて、そのうえでご先祖様に祈ることにしています。幸い、それで最悪の事態は避けられていますので、神仏に祈ることを否定するものではありません。しかし、現実的に何も手を打たないのでは、神仏だって、ご先祖様だって、どうしようもないでしょう。やはり、現世的な努力や知恵、常識が必要です。

 実は、私は、過去に占いや宗教で破産した人たちを見てきました。むろん私自身も占師やいわゆる霊能者とも接してきたことがあります。(最近は付き合いがありませんが)
 そういう人たちを見てきて、その原因は何かといえば、占断やご託宣等々を信じすぎることにあると思います。確かに、占師や教祖といった人たちには悪意はなく、また騙すつもりもなかったのかもしれません。しかし、いったん信じるとやっかいで、何でもかんでも相談に行き、祈祷を依頼したり物を買ったりしてお金を払う、そういうことが繰り返されてますます深みにはまるパターンです。

 何だかまとまりのない話になってきましたが、あらためて言いたいのは、常識や合理性を占いに優先させるというスタンスをもつということです。
 まあ、大方の人は深みにはまることもないだろうし、占いなんて気楽にやればいいと思います。

 余談ですが、私も、かれこれ20年以上前、占いで競馬をやっていたこともあります。結果はトータルでプラスでしたが、それほど大きく勝ってはいません。それに、前日に占いで検討しても、当日パドックで馬の状態をみて、予想を変えることもあり、つまりそれは占いよりは、合理的な判断を優先させていたわけです。(実際、その方が正しかった場合が多かったです。残念ながら)
 ちなみに、そのやり方は3×3の魔法陣を使い、それに馬の名前を組み合わせるものでしたが、もう20年以上も前ですので詳細は忘れました。社会人になって自分で給料をもらうようになると、もったいなくてギャンブルなどする気になれませんでしたからすっぱり賭け事はやめました。

 私も実生活の中で占いを使うこともありますが、あくまで合理性(常識的な判断)を重視しているつもりです。さらに占断を導き出すには合理性が必要です。とくに大六壬では象意がはばひろいですから、何を取捨選択するかは、占者の合理的な判断によります。梅花心易の話をご存知の方は多いと思いますが、同じ木と金の卦を得ても、鋤鍬と判断するか鉈と判断するかは時と場合によります。(この話は梅花心易の本には必ず載っていると思います)そこに必要なのは合理性と推理力です。

■ 佐久間象山の話

 易に詳しい人は佐久間象山の最期の話を知っていると思います。
 佐久間象山は、洋学、漢学、国学に通じていた幕末の知識人ですが、易に通じていたと言われています。
 ある日、彼は幕府に建議すべきことがあって家を出ようとするのですが、命を狙われていたということで彼の門人たちが外出を押しとどめます。しかし、これは余人に頼むことでもないし、急を要するので出かけると象山は言うことをききません。門人たちは、では易を立てて判断しましょうということで、象山に易を立てさせると、出た卦は沢天夬(だったと思う)。これはよくない卦ですから、門人たちは「よくない卦だから」といって引き止めます。
 しかし、象山は、「行くべきときは行くのが正道であって、悪い卦が出たからといって行かないわけにはいかない」と主張して、出かけます。結果は、やはり暗殺されてしまいました。

 この話は、やはり占いの結果を大事にすべきだという結論になりそうですが、そうではありません。象山は易に通暁していましたが、彼自身の中では、自分の信念や合理性は易の結果に優先していたわけです。私は、この話を始めて聞いたとき、ちょっとだけ感心しました。勝海舟は彼のことを、「始末が悪くて困るよ」(『氷川清話』)と言ってまして、私は彼をやや軽薄な人だと思ってましたが、そうではなくて気迫、胆力のある知識人だったわけです。今日のそこいらの評論家とはわけが違いますね。
 ただし、この話が実話かどうかはさだかでないのですが。


占いの限界(当たらないこともある)

 占いの限界といえば、たいがい、占いで何がわかるか、という話となります。例えば飛行機事故は占いで予測できるかとか、そんな類の話です。しかし、ここではそういうことではなく、果たして占いは森羅万象すべてに適用できるか、占術の知識だけで占えるか、という話です。

■ 占いが当たるとは?

 まずは占いが当たる蓋然性について考えてみます。占いが当たるとはいったいどういう場合を指すのか。これは実は非常に難しい問題です。私のかつての経験からちょっと考えてみたいと思います。

 私は、会社で人事評価をする立場にあったこともあるのですが、ちょっと人事評価の話をすると、企業で行われている人事評価に目標達成度とコンピテンシーがよく使われています(使われていましたと言うべきか)。コンピテンシーとは成果を生み出せる行動をその人が行っているかどうかを見るものです。これは今回の話題とは関係ありません。話題にしたいのは目標達成度評価の方です。
 目標が数字で表せれば、この評価は簡単です。(目標の適正さはひとまず別にして)数値目標を達成すればOK、達成しなければNGですからこれは簡単。しかし数字に表せない仕事は多いものです。例えば事務部門など、定型的な業務をこなす部署においては目標は立てにくいし、その評価も難しくなります。また例えばプロジェクトなどでも、数値以外の評価項目はあるし、実際プロジェクトが完遂したとしても、その進め方の是非を問いだすと(例えばもっと早く安くできたのではないかと疑い始めると)きりがなく、しょせん評価というのは主観的にならざるを得なくなります。ある人に言わせると、人事評価に客観性を求めるのは無理だとまで言い切っています。(もちろん人事関係者は客観性・透明性を高める努力をしています)

 占いが当たったかどうかの問題はこれに近い話のような気がします。

 私はかつて競馬を占いでやっていたことがありますが、ギャンブルのようなものは当たり外れが簡単にわかります。また病気、結婚や死期など時期を当てるのもある程度当たり外れがわかります。一方、成敗や財、貴賎、禍福などは多分に主観的な部分があり、果たして当たったかどうかというのはわかりにくいものです。はたから見れば不幸のようでも、本人は結構満足しているなどということはざらにあります。例えば、占いで「幸せな結婚をして結婚後も幸福な生活を送る」と言われても、果たしてそれが当たっているかどうかは、本人ですらわからないかもしれません。(夫婦げんかぐらいどこの夫婦でもあるでしょうから)
 また、占いで凶事を避けたと言っても、何もしなくても凶事は起こらなかったかもしれず、果たして占いの効果があったのかどうか、ということは神のみぞ知るということだってあるでしょう。

 ということで、占いが当たるというところに主観的な部分を含んでおり、占いが当たるかという問い自体が難しい問題をはらんでいるという指摘を、まずはしておきます。

■ 占いが通用する範囲

 次に占いが森羅万象に当てはまるかという問題です。極端な話、宇宙空間で占いが適用できるでしょうか?また極微の世界において、占いは成立するのでしょうか?

 占いというのは、得られた事象から将来のことを予測するものであり、その事象と結果に因果関係を見出そうとするものです。したがって因果の成立しない極微の世界(量子力学的世界)においては占いはナンセンスです。また時空のゆがんだ宇宙空間においても占術はおそらく成立しないでしょう。

 同様に神様(私はいると思っていますが)の領域も占術の対象外といえます。神様は時間、空間をとびこえて存在しますから、その世界に占術が成立するはずがありません。
 さらに類推すると、神とよばれるような人(宗教家とか霊能者とか)や仙人に対しても占術は適用できないだろうと考えます。中国の四柱推命本には仙人の命式を例として挙げることがありますが、当たらないでしょう。
 植野治台氏は、『スパイラル占卜法』という書で、占術が当てはまらない人が必ずいる、といい印格と称して分類しています。それを読んだときに、やはり占術(そのときは四柱推命)には限界があるんだ、と妙に納得したのを記憶しています。なお、『スパイラル占卜法』を久しぶりに開いてみると、印格は一万人に一人とか百万人に一人とか書かれていました。

 ただ、私の経験的な直感では、占いを超える人は数%程度はいるように思われます。
 よく四柱推命は80%以上の的中率、などと言われていますが、仮に下限が80%としてまた私の直感が正しいとすれば、四柱推命の的中率の限界は80ないし95%程度であり、5人から数十人に1人は四柱推命では判断できない、ということになります。私の知り合いで、「四柱推命」を使えば百発百中、人の吉凶禍福がすべてわかる、と豪語していた人がいましたが、まずそれはないと思います。しかし、5人に1人は四柱推命で見られないというのはちょっと多すぎる気もします。

 そうではなくて、一人の個人の中でも占いが当たる部分と当たらない部分がある、ということもあるかもしれません。人によっては100%占いにピッタリという人もいれば、全くの外れではないが半分も当てはまらないという人もいるということかもしれません。

 しかしながら、80%以上の的中率ということは天気予報並みです。実用に十分堪えるといえるでしょう。ただ、5人に1人ぐらいは外れるというわけで、その1人になった当事者はちょっとかわいそうですね。まあそれでも史上最強の占術と称されているのですから、他の占術はいったいどうなっているのでしょう。5人に1人ぐらい外れるのは商売になるでしょうが、的中率5割とかだと、5人に2~3人はずれるわけで、これでは商売にならないのではないでしょうか。

■ 占師個人の力量の限界

 話はかわって、占いそれ自体の問題ではなくもう少し狭い範囲の話。すなわち占師個人の力量の限界について。

 増永篤彦師の『新推命学』の実例を読むと、個人的な力量がいかに重要かを痛切に感じさせられます。それについて師は、「抽象的なるαを如何にして具体化するかという問題が生じてくるのであって、ここに至れば、科学的生日類型学としての推命も、科学を超えた世界、いわば易の世界に関連をもたざるを得なくなってくる。」と書いています。また「右の命式に対して、常に「実子として入籍された養子」と判断すべきものと思い込むのは誤りである。」とも書いています。つまりは同じ命式をみても具体化のプロセスにおいて術者の力量が大きくものをいうということです。このプロセスについて、増永氏は「勘」とか「直観」だと言っています。師の『新推命学』は科学的と一部の占術家では言われていますが、本人でさえ、最後は術者の勘によらざるをえないと言っていることに対しては大いに納得できるものでありますが、勘のはたらかない私などはがっかりせざるをえません(苦笑のち涙)。

 ただし経験を積むことによってインスピレーションが向上してくるのは、私の経験からも確かです。それは別のところで話すとして、霊感はなくとも経験によって物事を洞察、結合、思考を発展させること(すなわち勘)ができてくるのは間違いありません。

 さて、ここで言いたかったことは、占いには限界があるから占師を信じない方がいいよ、ということではありません。占いを学ぶ上で、限界があるということを頭にいれておくべきだ、ということです。市販の四柱推命本には、いかにもこじつけ的な例が挙げられていることがあります。そのときに、ひょっとするとその例(人)はひょっとして四柱推命の限界の範囲外なのかもしれない、と疑う態度も必要だろうということです。10人や20人に1人ぐらいはお手上げ、四柱推命ではわからないということがあっても別に悲観する必要はない、ということ、そして四柱推命で何でもわかろうとするのは不遜なことだ、というのがここでの結論です。途中の話とはあまり結びつきませんね。


「秘伝」というものは果たしてあるのか

 「秘伝」というものは果たしてあるのか?という問いは、独学で占いをやっている私にとっては、非常に興味関心のあるテーマです、というか、ひょっとすると死活問題かもしれません。ま、死活問題というのはちょっとおおげさですが、もし秘伝というものがあるとして、それが秘密裏に伝えられているとしたら、独学でやれることには限界があるということになります。

■ 「秘伝」があるとすれば

 ここで「秘伝」というものがあるとしましょう。「秘伝」そのものではないかもしれませんが、原型となるものがあり、そしてその最初の発見者がいるはずです。その人は自ら(もしくはチームで)発見したはずですが、先人の業績をたどることも含め時間と労力がかかったでありましょう。そして、弟子はそれを単に受け継げばいいわけです。一からやる必要はないので時間と労力を節約できます。

 ところが、独学の人はそれを自分で発見しなければいけません。一つならまだしも、四柱推命だっていろいろな流派(?)がありまたそれを何代も受け継ぐとなると、秘伝はそれなりの数があるでしょうから、独学の人が(特定の流派に限ったとしても)それらを全て発見するのはまず不可能でしょう。

 ですから、もし秘伝というものがあるとすれば、やはり師について、しかも師を渡り歩く必要があります。そうでなければ、占い(ある特定の占いでもよい)の全貌は知りえません。この考えに沿えば、独学で占いをやるのには限界があるという結論になります。実際、昔の占師はいろいろな師についたという話を聞いています。

 しかしながら、独学で占いをやっている私は当然そういう結論とは違う考えを持っています。仮に秘伝というものがあったとしても、歴史が長ければ長いほど、あるいは研究者が多ければ多いほど、秘伝が秘伝でなくなる可能性が大だからです。まして、今やネットであらゆる情報が飛び交っている時代。政府の機密情報すら外に漏れるのに、占いの秘伝がいつまでもその流派のみに受け継がれていくというのは、およそ考えにくいと思います。
 とくに四柱推命(子平でも八字でも命理学でも呼び方はどうでもいいが)の研究者は多いですから、四柱推命で一子相伝的な秘伝の存在する確率は非常に少ないと思います。すなわち、こういうことです。他流派では秘伝と扱われているものが、その流派では秘伝でも何でもなくて、あっさりと本やサイトに書かれていることがあるだろうということ。そして、もしそれが有用であれば、後の書物やサイトに受け継がれていくであろうということです。

 誰かが書いて(または述べて)いましたが、秘伝というのはその内容にあるのではなく、実践するときにそれを思い出すかどうか、使いこなせるかどうか、ということにある、というのが、正解なのだろうと思います。これは何も占いに限ったことではなく、武芸、絵画、はたまた華道や茶道も同じことがいえるのではないかと思います。逆に、使いこなせるような実力がなければ、秘伝もまた宝の持ち腐れになるのでしょう。ですから師はしかるべき弟子にしか秘伝を明かさないということになるわけです。そういう話は剣術の本にも出てきますね。

■ 科学からの類推

 話を少しわかりやすくするため、ちょっとした例え話を。占いは科学ではないですが、科学の話から類推してみましょう。
 アインシュタインが提唱した相対性理論はそれまでの物理学を大きく変えた理論であり、秘伝たりえた理論でありましょう。もちろん科学の分野は論文を公開しますから「秘」伝にはなりませんが、仮に公開しなかったとしたらどうでしょうか。相対性理論はそれ以降生まれてこなかったでしょうか。おそらくそうではないでしょう。例えば今使われているカーナビは、相対性理論抜きではその正確さは得られません。そうであれば、少なくともカーナビが生まれる段階では必ず相対性理論上の問題が提起され研究されたはずで、理論の確立も時間の問題となります。
 量子力学に及んでは、もはや一人の研究者で確立されたものではありません。相対性理論や量子力学は、発見(?)当初は秘伝的でしたが、現在ではごくありふれた(大学あるいは高校で教えるような)物理学の理論となっています。しかし、それを使いこなすためには高度な数学の素養が必要です。数式を使わない相対性理論や量子力学は使い物になりません。(数式を使わない本を読んでも物理学者にはなれないでしょう)

 同じことが占いにもいえるのではないかと思います。その占いが、歴史が浅く研究者が少なければ、一子相伝の秘伝的なものはありえるでしょう。例えば、まだ研究者の少ない六壬などは、流派の秘伝が残っているかもしれません。

 ここで、公開されている秘伝の一例をあげると、「万尚書瓊璣三盤賦」の中にある「刃輔傷官」について、『四柱推命術極秘伝』(香草社)では誰も使わない秘伝だと紹介していますが、こういうふうに紹介してしまえば秘伝でも何でもなくなります。もっとも、公開されている部分だけ読んでも、初心者にとっては何のことかはよくわからないでしょう。それを理解するには、それを理解するだけの知識が必要です。そういうところは物理学と同じです。

 ちょっと本筋とは離れますが、「刃輔傷官」に関していえば、『四柱推命術極秘伝』の説は普通の理論(?)とは違っています。甲日の羊刃は卯であり、卯が丁を生じると解釈するのが普通でしょう。ただし、日主と傷官の関係がよくないと「万尚書瓊璣三盤賦」に書かれているようなことにはなりません。『四柱推命術極秘伝』にどう書かれているかは本書を見てください。もちろんそこに書かれていることは間違いと言っているわけではありません。私はそれはそれで正しいと思っています。

■ 私の考える「秘伝」とは

 私は、少なくとも四柱推命においては、秘伝と称されるものは、公開されている理論の使いこなし方を説明しているものであるか、あるいは特殊な命式についての解釈だろう、と考えています。そして、それにより的中率が上がるでしょうし、それを学ぶには師についた方が早いのは間違いありません。

 ですから、私のような独学者は時間がかかり苦労もするし、一生のうちに名人には到達することはできないかもしれません。ただ、独学が全面的に無駄なものになるわけでもないと考えていますし、独学には「自由」という独学なりのメリットがあり、自分の「秘伝」を発見できると思っています。

 などと、ずいぶん前に上の文章を書いたのですが、2009年に出た『命理循真』(孫海義著)という本には「初級便是高級」という章に、基本的な知識をしっかり身に着ければ達人になれる、というようなことを書いています。それはそのとおりでごもっともなのですが、これが難しいのであります。


開運法

 たまに開運法について訊かれることがあります。それに対する私の回答は質問者の期待とはまったく違うもので、ごくごく常識的なことです。あまりに常識的すぎて期待外れのせいか、教えてあげてもお礼を言われたことはほとんどありません。まあ礼を言われるほどの話でもありませんが…。おそらく質問者は私に占術的、とくに風水的な回答を期待しているのでしょう。それはわかるのですが、また知識もないわけではないのですが、それはリスクが大きすぎて私には手が余ります。失敗したときがこわいもので。

■ いろいろな開運法に対する考え

 上に述べた占術的な回答とは、改築、移転、改墓、改名、改印、方位(お水とりとか)、霊符、択日(選日)などでしょうが、私はそれらを薦めたことはあまりありませんし(択日だけはありますが)、今後も無理なものは薦めません。その理由は、①費用がかかること ②効果が持続しないこと ③間違うと逆効果でありリスクは高いこと のいずれかです。何も効果がないと言っているわけではありません。むしろ効果が大きくて失敗すると反動が大きいと思っているからです。

 ここで上にあげた方法について、私の考えを簡単に記しますと。

 改築は、効果は高い(よう)ですが、本格的にやれば定期的に行う必要があります。しかも費用はばかになりません。こういう開運法がとれるようなお金持ちにはもっと別の方法がいくらでもあります。移転や改墓も同様です。
 改名は、お金というよりも時間や社会的な損失が大きいように思います。
 改印については、私は成功例を知りません。
 方位は、費用がかかりますが、それ以上に方位の効果、とくにお水とりのような短い期間の開運法は持続しないという欠点があります。
 霊符はそれだけでは効果は薄く、それなりの霊的な施法が必要のようで、専門の霊能者でなければだめでしょう。もちろん私はそういう能力は持ち合わせていません。自分で霊符を作ったことはありますが、効果はあまりなかったような気がします。(逆効果もなかったのは幸いでした)
 択日は効果があったのかどうか判然としません。というのは別の日だったらどうだったかを検証するすべがないためです。すなわち実感の伴わない開運法です。実行する本人が信じていればとやかくいう必要はないですけど。

■ 私のすすめる開運法

 では、私の薦める開運法とは何か。実は占いとは関係なく実践して好い結果が得られると思われることです。若い人に対してであれば、職業、配偶者の選択をまずあげます。ある程度年のいっている人であれば、食生活と住環境の改善を開運法としてあげています。あとは先祖供養です。

 まずは四柱推命を応用した開運法ですが、私が多くの人に薦めているのは、食生活の改善と住環境の改善です。『四柱推命不老学』(内田明道著)などですすめられている方法と基本的に同じです。
 食生活というのは、命式や行運で弱い五行の強化、あるいは強くなりすぎる五行の抑制するような食物を選択することです。薬は毒にもなりますし間違うとかえって病気になりかねないですが、食物はまず身体を傷めることにはなりません。リスクは低いが、効果は結構あります。
 住環境とは、寒暖燥湿の調節です。いわゆる調候でみます。体質に合わせて空調(温湿度)に気を配ればいいです。

 職業、配偶者の選択についていえば、喜神にあたる職業や配偶者を選択するという方法です。喜神である職業や配偶者は、たいていの場合好きな職業や配偶者と一致するはずですが、干合支合などでどうしても忌神に魅かれるという場合もあるので注意は必要です。

 先祖供養は、私も行っている方法で大きな効果を上げられると思っています。基本は先祖に思いをいたすことであり、それが大事だと思います。しかしながら、形から入るという言葉があるように、概してヒトは単に頭で心を制御するのは難しいようです。ですから、一般に行われている先祖供養の儀式は否定しません。また、儀式自体を要求するご先祖もいるようです。霊能者に聞いただけで本人に確認したわけではありませんが(笑)。

 私の行っていることをご紹介しましょう。私自身、それによって問題が自然と解決したことは数え切れないぐらいあります。
 仰々しい仏壇や神棚はありません。私は、海外生活も経験していますが、借家(アパート)に住んでいて神棚も仏壇もありませんでした。毎朝お茶か水をあげて、気のむいたときに線香をくゆらせるだけ。線香は帰国したときに買ってました。ただ、お茶か水(日本では日本酒も)をあげる際にご先祖さまに対して毎日生きていることへの感謝をすることは欠かしませんでした。もちろん今もやっています。まあ感謝だけでなくたまに問題の解決のお願いをすることもありますが。
 旅行や出張時には、ホテルでお茶とか水はあげませんが、ホテルの近くの神社にお参りすることにしており、そのおりに神社の神様とご先祖に感謝をすることにしています。

■ 最大の開運法は限界を知ること

 しかしながら、もっと効果のある開運法は、自分の心の持ちようを変えることだと思います。悪いことが起きてそれを誰かのせいにするのではなく、悪いことが起きてもそれを気に留めなくなれば、徐々に運は上向いてくると多くの人は言っていますが、それはそのとおりだと思います。持って生まれた宿命というのは間違いなくありますが、それは出発点なのであり、人生をどう進んでいくかはその後自分で選択できるものであります。

 話をわかりやすくするため、人の一生を旅に例えて説明しましょう。

 旅には出発点があり、それは基本的には選択の余地がありません。放浪の旅は別として、自分の生活している場所が起点となるのが普通です。そして、旅をはじめるにあたって制約があります。金銭とか健康状態とか。そういう制約条件がある中で旅をスタートするわけです。
 しかし一方、目的地や方法は制約条件がありながらも自由に選ぶ余地があります。例えば、私の場合、現在は東京に住んでいますので、そこが出発点です。今のところ経済的に苦労しているわけではないので、飛行機で行けるところならばだいたいどこでも行けます。ところが、仮に経済的に困窮していていま5千円しか所持金がないとすると、目的地は日本国内に限られます。(もちろん懸賞に当たるなど特殊な場合を除く)それでも、5千円あるなら目的地は東北でも中部でも選べますし、手段もバスか鉄道を選ぶことができます。飛行機はちょっと無理でしょう。したがって、初期の制約条件によって旅の可能性は狭まり、おのずと限界があります。自分が5千円しかないことに気づけば、安いバスを選択して遠くにいくか、あるいは無理に旅行せずに徒歩で近場で満足するという選択もとりえますし、さらに所持金を増やす努力、例えば旅の途中でアルバイトをしてお金を稼ぐとか借金するとかすれば、行き先の可能性は広がります。所持金が5千円しかないことに気がつかなければ、あっという間に所持金を使い果たして旅はすぐに終わってしまい、帰るに帰れないということになりかねません。

 以上、宿命と自分の意思を旅になぞらえた話です。すなわち、東京が起点で所持金が5千円しかないというのは宿命であり、目的地や交通機関の選択、さらに借金やバイトなどの努力は自分の自由意思です。

 例え話としてはあまり上等ではありませんが、旅と同じで、自分の意思こそが宿命を変えうる開運法だというのが、私の考えであります。もっともその前提としてあるのは宿命に気がつくこと(例え話でいえば5千円しかないということに気づくこと)なのです。

 「人には無限の可能性がある」というのは美しい言葉ですが、そしてそれでがんばれる人はそれでいいと思いますが、現実にはそぐわないし、そもそも占術は人には有限の可能性しかないという前提で成立しているものです。それを知ることが占術の最大の役割であるし、ある意味、開運法であるといえると思っています。


私の姓名判断体験

 その昔(1980年ごろですからずいぶん昔ですね)、私が最も力を入れて勉強していたのは姓名判断です。でも今は全く手をつけていません。今は姓名判断などやっている時間がないので。
 では、姓名判断は四柱推命より価値が低いのかというとそういうことはありません。実占を積めば、すごく利用価値があると思いますし、的中率もかなりのものになります。

■ 私の姓名判断術

 姓名判断と一口にいっても、いろいろな看方があります。大別すれば次の4つでしょうか。
 (1)字画数による方法  (2)音による方法  (3)字形による方法  (4)アルファベットや数字に直す方法
 (1)は日本ではごく一般的です。(2)もたまにみかけます。(3)は日本ではあまり見かけませんが、中国台湾では見かけます。(4)は西洋のカバラや数秘術で使われます。
 私は、(1)(2)を主にやっていました。(4)も少しばかりかじりましたが、実占で使ったことはありません。

 姓名判断の本はざっと20冊以上は買って読んだでしょうか。で、その中から私が使っていたのは、桑野式という方法です。
 桑野式というのは、桑野耀齊氏が開発した方法で、現在は二代目の方が行っていると思います。その具体的な方法は、二代目の方が書かれた本があるので、それを参照して下さい。ただ、私が使っていたのは先代の著書でしたが。
 桑野式の画期的なところは、同格という考え方と内画法というのを開発して姓名判断に行運法を取り入れたことにあります。ただ、桑野氏は細かい年数の決定には気学を用いていましたので、全部姓名判断というわけでもなかったのですが。それでも、私がこの方法を初めて知った時はちょっとした衝撃でした。で、その後は、この方法のみで姓名判断を行っていました。

 何度も言いますが今は姓名判断はほとんどやっていませんし、他のことに時間をかけたいと思っていますので、今後もやることはないでしょう。

■ 姓名判断をやっていて気づいたこと

 姓名判断というのは、非常に手軽な占いだと思います。なにしろ名前さえわかればよいのですから、事例というか研究のネタには事欠きません。ところが、四柱推命はそうはいきません。誕生日を調べなければなりませんし(昔はウィキペディアもなかった)、また有名人でも生まれた時間までわかる人はほとんどいません。そうすると、ひたすら四柱推命の本をたくさん買ってそこにある例で研究するのが一番手っ取り早いし私は今もそうしていますが、これはなかなかなお金がかかります。

 それはさておき、姓名判断に凝っていたころ多くの姓名に接して、それを画数に起こしてみていくと、同じ画数でありながら人によってキー・ポイントが違うような気がするようになりました。この感覚はうまく言葉で表せません。ま、インスピレーションというのか霊感というのでしょうか。

 例えば、25画というのは、基本的に悪い数字ではないのですが、同じ25画をもっている人でも、何となく頑固さを感じる人とそうでない人、時に酒に強いと感じる場合もありました。他の数との組み合わせとか使われている漢字のイメージとかがあったのかもしれませんが、その当時でも理屈では説明できませんでした。ただ、私の経験からは、実占を重ねるとそのようなことが起きてくるというのは言えます。では、皆が皆そうできるようになるのかと言われれば、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

 残念ながら、今はそのようなインスピレーションは働きません。姓名判断に集中していないからでしょう。その辺は発明、発見のインスピレーションと通じるものがあるのかもしれません。

 姓名判断から離れてずいぶんたってから、名古屋で爆発事件の容疑者の名前を見たとき、「あ、これは悪い名前だ」と直感した経験があります。この感覚は久しぶりのことで、さっそく画数を出してみましたが、数字としては悪いところは見当たらない。むしろ吉数が平均より多いくらいでした。しかし、何度書いてみても(姓名判断のときは、名前を自分の手を動かして何度も書いてみることが多かったのです)よい名前とは思えない。事件を起こしたという先入観だと言われるかもしれませんが、たとえノーベル賞受賞者と聞いても私にはやはり悪い名前と感じられるでしょう。もっとも、その後はこの名前を深く分析してはいません。

 ここで言いたいことは、姓名判断に限らず、占術に没頭しているとその的中率が上がってくるように思う、ということです。このことはフロー心理学などで説明できることなのかもしれません。でも単なる私の気のせいかもしれません。


暦法、旧暦について

 高島正龍師曰く、占いを志す人は暦法を勉強するべきだと。
 では、暦法とは何でしょうか?暦法とは文字通り「こよみ」の作り方の方法です。『天地明察』(冲方丁著)が映画化されたりして、この言葉が多少は知られるようになりましたね。
 なぜ暦法が重要か。暦法を知ることで、四柱推命など暦を使う占いの構成に対する理解が深まるからです。もちろん暦法を知らなくても占いはできますし、一流の占い師の中にも公然と「暦法には詳しくない」と言った人もいます。恥ずかしくないのかな?と私などは思いますが。
 西洋占星術師が天文学に詳しいのと同様、東洋の暦を使った占いを勉強する人は、やはり日本、中国の暦法について、基礎的なことは知っておくべきでしょう。さらに七政・星宗を行う人は、すべからく暦法と天文学の初歩的な知識は持つべきと思います。

■ 暦法のポイント

 暦の基礎知識でも紹介していますが、まずは「こよみ読み解き辞典」などのこよみに関する入門書を読むことをおすすめします。小さな書店にはないですが、少し大きな書店に行き、民俗学のコーナーに行くとひっそりと暦のコーナーがあります。そこに数冊のこよみに関する本が見つかるでしょう。
 さらに理系のコーナーに行き、天文学のコーナーに行くと、暦の計算の方法に関する本がみつかります。さしあたって、この2冊があればOKです……と書いたのはだいぶ前のことですが、現在は暦の計算方法に関する本は簡単には見つかりませんので、暦に関するウェブサイトを参考にするのがいいでしょう。

 暦法に関しては次のことを理解する必要があるでしょう。
  (1)太陽暦と太陰暦(太陽太陰暦)、それらの作り方
  (2)太陽黄経と二十四節気、土用
  (3)月の軌道と月齢
  (4)いわゆる暦注や九星(すべて覚える必要はありません)
 これらの内容については、それらの本やウェブサイトにゆずることにします。

日本の旧暦と台湾の農暦(旧暦)の違い

 旧暦、厳密にいえば太陽太陰暦ですが、これも歴史的にいろいろな暦があります。単に名称が違うだけだったり、観測精度があがったりで本質的な違いがない場合もありますが、閏月の処理方法の違う場合はかなり違ったものになります。ちなみに現在の日本の旧暦は天保暦の方法を基にして、日本標準時で作られているそうです。

 しかし、いろいろな暦があっても、太陽太陰暦である以上月齢で1ヶ月を決めるということには変わりありません。1日は新月ですし、15日は満月です。これは変わりません。また、現在の日本の旧暦と台湾の農暦の出し方もそう違っているわけではありません。

 ところが、日本の旧暦と台湾の農暦の日付が違うことがあります。なぜなら日本と台湾に時差があるからです。と言われてピンと来る人はえらい。でもわからない人もいるでしょうから、種明かしを。
 先ほど、1日は新月といいましたが、朔(さく)、すなわち地球からみて太陽と月が同じ方向になるときを旧暦では1日とします。(正確には太陽と月の視黄経が一致したときを朔という)月も地球も常に動いていますから、地球から太陽と月が同じ方向にみえるのは一瞬です。この一瞬が、日本では0時過ぎ、台湾では(北京もそうですが)0時前、ということがあります。この場合、台湾の方の農暦が1日早いということがあるわけです。これは暦法の違いというよりも、単なる時差の関係で生じるずれです。

■ 旧暦を使った占いへの影響

 ということは、旧暦を使った占いには当然影響が出てきます。旧暦を使う占いといえば紫微斗数です。そこで、日本の紫微斗数の本についている巻末の暦をみますと、日本の旧暦ではなく台湾(中国)の農暦を使っています。もちろん日本の旧暦を使ったものもあります。しかしちょっと考えてみると変でしょう。日本と台湾では1時間の時差なので、四柱推命でいう命式は変わらないことがほとんどですが、紫微斗数では日本の暦を使うのと台湾の暦を使うのでは違う命盤になってしまいます。占いのプロセスの違いではなく、単に時差だけの問題で占術の違いが生じるわけです。これはちょっと変だと感じませんか?日本で生まれたなら日本の暦を使うのが普通でしょう。なぜわざわざ台湾の農暦を載せるのか不思議です。

 「勉強ノート」に挙げている土亭秘訣も旧暦を使っています。土亭秘訣はほぼ朝鮮半島でしか使われていないのでほとんど影響はないでしょうが、果たして日本で当たるのかは興味深いところです。

 実は、時差による問題が四柱推命にもあることはあります。非常に特殊な場合ですが、日付変更線上で生まれた場合です。南半球で四柱推命は通用するかを議論している推命家は数多くいますが、日付変更線上を議論する人は寡聞にして知りません。まあ、実際に日付変更線上で生まれる人はまずいないと思いますので、議論してもしょうがないといえばそれまでですが…。
 ほぼありえない話ですが、いま仮に二人の妊婦が日付変更線の東と西(距離にして数メートルも違わないとして)で同時に子供を産んだ場合、命式の日干が1日違うわけです。日本国内においては、上の場合は、通常、同じ命式になります。もちろん時差があって、時柱は違う可能性はあり、また23時前後の生まれの場合は日柱が違うことは考えられます。しかし、日付変更線上の場合は常に日柱が違うわけです。
 前これを書いたときには例をあげなかったのですが、実際の命式としてみてみましょう。まず、日本の場合、2020年1月1日23時前後に生まれたとすれば、23時前なら己亥年丙子月癸卯日癸亥時であり、23時後なら己亥年丙子月甲辰日甲子時となります。ところが日付変更線が異なる場合、仮に同じ23時前であっても、己亥年丙子月癸卯日癸亥時か1日先なら己亥年丙子月甲辰日乙亥時となります。日本の場合には23時の前後であっても一応連続性がありますが、日付変更線の東と西では連続性がありません。

 日付変更線というのは人為的なものです。時差というものがある以上、日付変更線はどこかに作らざるをえませんが、 考えてみると、プロセスの違いではなく単に人為的な日付変更線の違いだけで命式が違うというのは、何か変な感じがしませんか?

 ある人は非常に簡潔な解決策を提出しています。それは、「四柱推命などの中国占術は東アジアでしか通用しない」という結論です。こう考えると日付変更線や南半球の問題は考えなくてもいいわけですが、しかし、ケネディやヒトラーを四柱推命で占っている術者もいるわけで、この辺は私には何と結論付けていいかわかりません。
 暦法の話のはずが、脱線してしまいましたね。(苦笑)



改訂 2020年 8月23日  HTML5への対応、章立ての見直し等