「命理正宗」格局解説 抄訳その1

正官格、偏官格、時上一位貴格、官殺去留格


はじめに

 「命理正宗」の病薬説はすでに抄訳しました。病薬説のあとに、張楠(張神峰)の格局に関する解説があります。解説といっても、それぞれの格においてどういう命式が望ましいのか を説いていると考えてください。で、この部分は長いので、徐々に訳していこうと思います。(訳だけでも結構大変なんです)
 また、各章では命式例が挙げられ張楠によって解説が加えられていますが、それらは命式例集としてまとめて挙げています。(現在追加中)
 なお、張楠は内格については、神妙に解説していますが、雑格に関しては、めちゃくちゃけなしてます。そこが面白いので、ほんとは雑格から訳そうかとも思いましたが、ここは神妙に初めから訳していきます。
 文字色が”この色”になって、一段下がっている部分は、訳者(私)の注とか意見とか独断ですのでお間違えなきよう。
 能書きはともかく、さっそく本文に。なお今は、初訳を見直して、原文と意味が異なっていると思われた部分を修正しているところです。



正官格

 楠曰く、
 正官とは何か。(正とは)陽が陰を、陰が陽に会うときで、一陰一陽という。それは一人の夫に一人の妻が当てられるようなものである。
 官とは何か。官とは管である。人は監督されることで決められたことを守り、正しいことを行い、あえてむちゃくちゃなことをしない。故に、日主を制するものを官というのである。
 さらに月令提綱の官は、我の太府太守のようなもので、本県の知事である。ただし、その監督下に従うだけでは、どうして官を利用することができるだろうか。故に月柱に官があるからといって、官を用いるのは理にかなっていない。このような場合、何を用にとるべきか。ただ官星が一点あるだけで、日主がまた旺じていれば、すなわち官星軽く日主が旺であれば、官旺運に行くのが最もすばらしい。たとえていえば、府県官が我の主であり、いま主が弱ければ、財をもってこれを生ずることができ、官運に行けばこれを助けることができる。
弱い行政には金と人が必要だ、ということでしょうか。というたとえならわかりやすい。
もし印の行運にいけば、官星の気を洩らす。もし官星が多く、日主の根が弱ければ、日干の剋制が強すぎて、すなわち官星と呼べず、七殺と呼ぶべきである。七殺が身を剋するなら、食神傷官を喜ぶ。これで官殺を制する。
 たいてい月上の官星を用いるには、官が強くなければならない。官が旺じてまさに用神として取るのによい。
 官星に病があるなら、病に応じて薬をあたえる。官が強いあるいは官が多いときには、食神が官を制し取り去るのを喜ぶ。官星が弱い場合は、財でこれを生じることを喜び、官旺の行運でこれを助ける。
 もし日干と官星の二者の関係がとくに悪くなく病がないならば、これは平常の人である。
 もし年日時に官がなく、官が用神となるとすれば、九割方は貴命である。それは、官が身をたすける本となるからである。
 官がないなら、法や礼儀の外に放たれることになる。よって官は破損されることはよくないし、そうなると用をなすことはできない。
 ただ官は弱すぎず強すぎず、病があってその病のための薬があれば、用神としての作用が表れて、禍福を論ずることができる。
 ここで言っていることは、命式中ですでに日干と正官がバランスしているならば普通の人であり、正官が強くて行運でそれを弱めたり、正官が弱くて行運でそれを強めたりする方が貴命になると言っているようです。
 継善編にいう、
 官があって印がありそれらが壊されなければ、政府の高官になるほどの人物である。
 楠曰く、
 昔の注に、有官有印とは雑気の蔵する官と印のことである、とあるが、これは牽強であって従ってはならない。
 別の考えでは、有官有印とは、命式中に官と印がそろって強く、さらに刑冲破害などを受けておらず、官印の貴気を破り傷つけなければ、すなわち官が印を生じ、印が身を生じることとなり、その人は必ずや国家に重要な人物となるであろう。この説は全く正しい。
 およそ乙日主で辛月生まれ、丁日主で亥月生まれ、己日主で寅月生まれ、辛癸日主で巳月生まれ、は皆官印両全となるが、どうして雑気の両全にこだわるのか?いわんや雑気が冲や破を喜ぶ場合でも冲がない方がいいといえるのか?
訳が悪いと思いますが、要するに官印双全とは雑気中の蔵干ではなく、命式にある場合のことですよ、ということでしょう。
 古歌にいう、
 正気官星が月柱にあり、冲や破がなければすばらしい。中年期の歳運に相助運が来れば、高い地位に上ることもある。
 補して曰く、
 正気官星とは、陽が陰を、陰が陽をみることで、甲日酉月生まれ、乙日申月生まれ、丙日子月生まれ、丁日亥月生まれの類で、つまり月正官格のことである。命中に冲刑破害がなければ、功名が表れ始めてすばらしいといえる。さらに、科挙の試験で高位で合格するのは、官星が破られずにあるときで、中年期に行運で財星印綬に遇えば、身旺の助けとなる。さらに刑、傷官、官殺混雑などなければ、すなわち高い地位に上るだろう。古歌にいうところの、官印相生が歳運(流年大運)に臨むのは、金持ちの身分の高い人になる、というのが、それである。
 司馬季主に云う、
 真の官が時に遇えば、早く高位の官職に就く。
 補して曰く、
 真の官が時に遇うとは、真の正官が生時に遇うことをいい、まさにいわゆる時上正官格の淵源である。必ず早く高位の官職に就くことになる。時とは月令のときで、生時のことではないと解して、時にある正官格というのを削り採用しないのは、間違いである。もし、この時に遇うというのを月令のときとするなら、喜忌篇にいう、偏官時に遇う、とか、造微論の、時に遇って官星の生旺の位、というのもまた月令の時というべきであろうか?(時を月令と解するのは)やはり牽強にして従うべきではない。
造微論については、挙げている文章は含まれていません。引用先の間違いだと思われます。
 通明賦にいう、
 禄が天の時を得て、奇花金帯に生ずる。
 補して曰く、
 禄が天の時を得るとは、時干が正官を得るということで、さらにそれを見れば、必ず奇花金帯の栄貴があると言っているが、これも先の文と大同小異である。
 禄馬とは官のことで、天の時とはすなわち天干のことであると解するのは、あまりに意味が広すぎでぴったりこない。天干というなら年月干もそれにあたる。時干においてということがはっきりしない。
 これも前と同様、時上正官格というものがあるということになります。ただ明通賦にはこの文が見つかりません。似たような文はあるのですが。まあ、今後は引用先の探索は大変だし、手許にないものも多いので追及はやめておきます。
 以下は命式例が続くので省略します。



偏官格

 楠曰く、
 偏官は陽が陽を、陰が陰を見るときをいう。もともと陰陽配合しておらず、さらに食神傷官があれば、偏官の凶の鋭さを制して取り去る。まずは日主を剋する凶神であるといっても、その悪さをなだめれば、かえって我の手下(原文は奴僕)となる。偏官を用いる場合、家畜や手下のように、つかまえて制し過ぎると、「法を尽くし民なし」となり、すなわち手下の力は衰え、役に立たない。もしつかまえて制するのが及ばないと、すなわち手下は主を欺く。偏官とは七殺である。例えば、甲から七つ目の干は庚である。よって七殺というのである。それは、身を剋す刀のようなもので、偏官に制がなければ、七殺という。ゆえに制伏するのによく、また強すぎたり弱すぎたりするのを恐れる。
 およそ看命においてはまず七殺をみる。もし七殺があれば、まさにその七殺の処置が必要である。処置してあれば、別のものを用神とすることができる。もしその七殺を制したり(凶意を)取り去ったりできなければ、殺星はわが性命を害する。まるで、金持ちがいくら金銀不動産をもっていても、性命がなければ、それらは何もならないようなものである。原書にいう。殺あれば殺を論じなければならない。殺がなければ用神を論ずる。けだし、先人はこのことをいっている。このことがはっきり説かれていないため、学ぶ者の考えはあいまいになり、ただ殺は権勢とか悪意とか地位とかであり、つまらないよこしまな人の象としている。ゆえに、殺を適切に用いれば、多くは栄誉があらわれ、側近や大臣の類となる。これは君主に媚びるよりは権臣に媚びた方がいいということである。
 これだけ読むと意味がわかりませんが、論語の八侑篇を読めばわかります。その詳細は省略します。
 月柱に官があれば、上の見方は通用せず、ただ日主がとらわれるためどうして(偏官を)用いることができるだろうか?ただ官星衰えてこれを生ずる。官星が旺じすぎれば、これを剋す。これをとって禍福を定める。
 私は、月柱に官星があって貴命である命式をみたことがない。ただ、七殺を用神とするのは、多くは富貴の人である。子平書は含蓄をもちはっきりと言わない。よってその真理が表に出ない。殺とは我を殺するもので、身を殺する相手である。官とは我を管理するもので、身を制する方法である。これが、人の命式の正しい理論であり、知るべきである。
 月柱の正官が用神である場合には貴命とならず、七殺の場合には富貴の人となるというのは、ほんとにそうかは?です。時柱に七殺がある前提で、ということならばわかりますが。
 また曰く、
 棄命従殺格は、日主を生ずるものがなく、四柱すべてが官殺である場合をいう。すなわち自分を得ずに殺に従うしかない。例えて言えば、強盗にあったときは、自分を捨てて従うようなものである。それには財が必要で、財はその殺を生じる。財殺の行運に行けば、殺を助けあるいは生ずる。ただ日主に根があるのをおそれ、殺を制する運をおそれる。まるで盗人に従っているとき、父母兄弟の郷に行けば、盗人は我を放すようなものか。また盗人に従えばその盗人を助けるが、もしその盗人を害すれば、盗人には憎まれる。この格は正しい理論から出されたもので、この理はすごぶる明らかである。陰日干の場合はこの理にしたがって、婦人が陰に属するように、また人に従うという道である。陽日干の場合に殺を多く見れば、あるは殺重身軽とみて、もし日干に気がなければ、棄命とみて、日主が通根するのを恐れる。
 訳が不十分ですが、意味はわかるでしょう。後半の比喩は、はっきりいって適切な比喩とはいえないですね。
 棄命従殺格には財があるべきだといってますが、必須条件というわけではないと思います。
 喜忌篇に云う、
 五行が月支偏官にあえば、歳時中また制伏するによろしく、官を去り殺を留める、また殺を去り官を留めるのたぐいで、四柱純雑で制有り。定めて一品の尊に居る。およそ一位の正官を見て、官殺混雑は反って賎である。
 補して曰く、
 四柱純雑で制有りとは、けだし四柱中純殺で官のないことで、食神の制伏があってよいことをいう。定めて一品の尊に居るとは、上の文でいわゆる五行が月支偏官にあう、歳時中また制伏するによろしいということである。もし殺が用神であれば、官は雑であり、傷官の剋制を必要とする。また官が用神であれば、七殺が雑であり、食神の制伏がよい。また定めて一品の尊に居るはまた、官を去り殺を留める、また殺を去り官を留めるということでもある。およそ正官が一つで官殺混雑は反って賎とは、制伏のないことをいい、去る留めるのないことをいう。ある者は純雑というのを純殺と改めているが、それは間違いである。
 官殺混雑はよくないが、殺あるいは官のどちらかが抑えられるか合して取り去られるなどすればよいということでしょう。
 続いては命式例なので、省略して先へ進みます。
 喜忌篇に云う、
 四柱殺旺で運が純なのは、身旺なら官は清貴となす。
 旧注にいう、
 この七殺は偏官で、甲が庚を七殺として忌み、甲の地支が寅であれば、身旺である。寅には丙長生が蔵干としてあり、金の殺を恐れない。殺は偏官と化し、甲庚それぞれ自分の強さをたのみとする。そこで純殺運に行けば、極品の貴命となる、という。
 しかし、この説は牽強のようであり、だいたい身殺が強く、あるいは制伏が適当であれば、もとより権貴の者が多い。命式中殺旺身強で制なく、また殺ばかりで制のない行運に行けば、すぐに極品の貴命だとするのは、したがうべきではない。
 またある者は解釈して、身旺殺旺とは、身殺が長生臨官帝旺の地にいる、また月気に通じているのをいい、運純とは中和の道をいい、殺を制し殺を化する運をいうとする。清貴とは、清らかで高貴さがあらわれていることで、非常に高い地位に上るこという。けだし四柱の中で七殺日主ともに旺じ、食神制殺がない場合、制伏の行運に行くのが、清らかで高貴さがあらわれるということである。この説は妥当といえる。
 病薬説的な考えですが、身旺殺旺(身殺両停ということもある)の場合、行運で食神に至れば非常に高い地位にのぼるという考え方ですな。単に身殺両停ではそこそこの命ですが、清貴とはいえないということでしょうか。
 喜忌篇に云う、
 柱中七殺全部あきらかなれば、身旺は極貧。
 旧注にいう、
 傷官は正官の七殺、敗財は正財の七殺、偏官は日主の七殺で、四柱にあれば、身旺で建禄は富命とはいえない。これはまったく確かな論で従うべきである。およそ建禄身旺の人は、財官があるのがよく、いわゆるひとたび財官を見れば、自然と福をなすというのがそうである。七殺を見れば反って傷つき、いわゆる切に殺に会うを忌むのは凶となすというのがそれである。もし柱中に傷官があれば、正官の七殺があらわれたわけである。敗財があるとは、正財の七殺があらわれたわけである。七殺偏官ありとは日主の七殺があらわれたわけである。これを全部あきらかというのである。正官をみて身旺といっても、貧にして自ら生活できないもので、故に身旺極貧という。
 ある人はいう、これは純殺格で身弱をおそれるということである。けだし、命式中の七殺が全部あきらかなればというのは、また身弱の人であって、すなわちきわめて貧窮で寿命が短い人のことである。すなわち、身弱は極貧無寿ということで、この解釈では殺重身軽はついには身体を損なうことになるということである。この解釈ではさらに早死でなければ貧乏であるのは、身が衰え官鬼に遇うためであろう。この節の解釈はこじつけっぽい。(原文は、解此節即鑿之甚矣。)
 継善篇に云う、
 庚が寅にあって丙にあうのは、主旺じれば危ういことはない。
 補して曰く、
 庚日で寅とは、休絶の地にあたり、さらに丙に遇うと衰えて危ういようにみえる。しかし寅には戊土があり長生であって、庚金を生ずることができ、丙火を洩らすことになる。すなわち絶であるところで生にあうということで、名づけて胎元受気という、また名づけて小長生という。命式中にこれがあれば、人生的にはまずまずであり危ういところはない。これは日主が旺じているということを言っているわけではない。次の文にあるが、金が艮にあうのは土に遇うということで、還魂という。
 ある人は庚寅日は日主が旺じているとはいえないとし、庚が寅にあるというのは庚が申にあうとすべきだという。そうすれば主旺じればに合致するというが、これは原文の本義ではなく、従うべきではない。
 議論がやや混乱しているようですが、これは訳が悪いせいかもしれません。
 古歌に云う、
 絶処で生に逢うというのを知っている人は少ない。却って生にあたるとして命理を推せ。本来にもどって詳細に分析すれば、忽然として間違いや疑いもなくなる。
 また歌に云う、
 ある人は胎養小長生という、人の命はただ自ら智恵を積み重ねるに逢い、もしまた文を修めれば意にかなうことになる。そうでなくとも栄誉が顕れ名声があがる。
 これが何を示しているのか意味がよくわかりません。
 古歌にいう、
 偏官は虎のようなもので冲が多いのをおそれる、行運で偏官が旺じても身強であればなんということもない。身弱で偏官が強ければ災いとなる。身強で偏官が制伏され中和がとれていれば貴命である。
 補して曰く、
 月上偏官は陽が陽を見る、陰が陰を見るのをいい、甲が申月に、乙が酉月に生まれるような場合である。性格は剛で暴力、殺を好み、気にさわるとすぐに怒り、性情は虎のようである。最も恐れるのは三刑六害で、あるいは羊刃天{コウ}魁星相冲があれば、必ず凶、災いがある。最も喜ぶのは行運が皆旺相であり、身強で制あれば、権威があり高貴となる。もし身弱殺強で、制がない運なら、虎に翼がついたようなもので、その雄叫びや威勢は防ぎきれず、反って噛まれることになる。(比喩ですな)すなわち偏官は固いので制伏するのがよく、また中和を貴ぶ。もし偏官一つなら、制伏するのが二三あり、さらに制伏の行運ならば、反って福とならない。これはいわば、法を尽くして民なし、ということである。よく考えてみるべきである。
 また歌にいう、
 偏官は単純に凶といってはいけない。制があればかえって衣食住は豊かである。干上に食神があり支もまた合となれば、子孫繁栄、福はこのうえもない。
 解して曰く、
 偏官は我を剋する神であり、本来は悪宿凶殺であるが、単純に凶とは言ってはいけないというのは、必ず制伏を要するのであって、制があれば権威があり枢要を占めるようになるからで、すなわち衣食住も期せずして豊かになる。天干に食神があるというのは、例えば甲が丙を見るような場合で、地支に合(原文は食神となっている)があるというのは、卯の中の乙木と申の中の庚金が合するような場合で、すなわち子孫繁栄、福はこのうえもないという。いわゆる七殺制ありまた児多し、というのはこれである。
 また歌にいう、
 偏官制有れば権となし、英俊文章は少年に発し、歳運もし身旺の地に行けば、功名と幸福が両方とも得られる。
 解して曰く、
 偏官格は、性格は凶暴で忌憚なしというが、制がなければ七殺となり、制があれば偏官となって、権威高貴と化する。少年のうちは穏やかに青雲を歩み、早くから名をあらわす。(原文は科挙に高い地位で合格するというような意味)必ず文章がすばらしい人であるため、英俊文章は少年に発するというのである。殺が強く制があるのはすばらしいといえる。もし運が衰弱すれば出世は難しくなる。しかしもし歳運で制がなければ、名声はあまねく広められる。いわゆる従殺であり多くは、大富貴の人であり、いわゆる一生の富貴となる。ただ殺重身柔でこの格局に相当しても多くは夭折するだけである。もし行運が身旺を助ければ、殺とは敵となり、さらに七殺があらわれて、食神が格局を破れば、皆吉ではない。
 古歌にいう、
 五陽が日に座しすべて殺に逢い、棄命にして相逢うのは命は堅くない。もし五陰がこの地に臨めば、殺星の根は敗れ吉とは言いがたい。
 補して曰く、
 旧文の末句、本は殺星の根が敗れて気がなければ、身は従うところなく、すなわち災いにすぐに至る。よって吉とは言いがたいということである。ある人は、「根敗」は「臨敗」に改めるべきだというが、それは正しくない。また一説に、「殺星」を「殺強」と改め、根が敗れるというのは日主の根が敗れることだというが、それもまた正しくない。あえて解釈していえば、殺強にして根が敗れるは吉と言いがたいというのは、ただ棄命従殺のことではない。けだし従殺というのは、まさに殺強にして根が敗れるのは嫌わないわけで、根が敗れるというのは、日主の根が敗れるということではない。学ぶものはこれを詳しくみるべきである。
 ここでいう敗はいわゆる沐浴ではなく、単に敗れると解釈してます。
 また歌にいう、
 土が卯の位に望み三合が全てあれば、まさに金水を生じまとめるのを忌まない、火木が旺じる行運にいけば名利が顕れ、さらに坤坎にあえば災いは連綿と続く。
 補して曰く、
 旧文の第二句は「不忌当生金水纏」である。ある人はそれを「不見」に改めるべきといい、末句の「再逢」と相応しないとして、「不忌看」とするべきという。けだし土が卯に臨むとは、己卯日主であって、亥卯未が三合殺局であり、従殺ということができる。「当生金水」とは、金が水を生じ、水は殺を生じる、これもまた忌まない。あるいは火木旺運に行けば、殺印相生で、功名はあがり、さらに坤坎金水の運に行けば、必ず災いが続く、これは当生すでに金の制にあって、しかしてまたこれに逢うというので、災いは連綿と続くということである。いわゆる食神が格局を破り反って吉としないということである。また一説があり、末句の旧文はもともと「福連綿」であったというのだが、これは間違いである。けだし己卯日主が、亥卯未の三合に逢えば、これはいわゆる殺強身弱であって、まさに金水を生じ相まとめるわけで、水はもとより殺を生じ、金はよく殺を制する、ゆえに忌まないということで、卯に及び身旺の行運にいけば、非常に身分が高い人となる、これはもっともである。故に、功名と幸福が両方とも得られるというのである。
 この部分は注意深く解釈する必要がありますが、とりあえず雑な訳だけしています。すみません。
 また歌にいう、
 殺星はもともと制があって神降りる、制旺身強は貴が必ずはっきりしている。もし制神をみて先に損なうことあれば、反って富貴は災いに変ずる。
 解して曰く、
 殺星とは、七殺偏官である。制神とは、食神である。月上で七殺に逢うのは、食神があえばうまく制することができる。また身が強旺の地にいれば、すなわち富貴栄昌は必至である。もし食神が偏印にあえば、まずは食神が自ら損なわれ、富貴を失うだけでなく、災いとなる。いわゆる食神制殺が梟に逢うであり、貧でなければ夭折である。
 玄機賦にいう、
 身強殺浅、殺運妨げず、殺重身強、制する行運は福となる。
 解して曰く、
 日主が強旺で殺が浅いのは、しいて殺旺で制のない運でも、問題はない。いわゆるもともと官鬼を犯すに軽く、制はかえってあまりよくないということである。七殺が重すぎ身が弱いのは、制伏ができる行運に行けば、発福することができる。いわゆる、ひとたび制伏を見れば却って貴となす、というのがこれである。
 天玄賦にいう、
 殺星重く殺旺の運に行けば、早く黄泉の国に赴く。
 補して曰く、
 身弱殺重は、制伏運に行くのが宜しく、すなわち福となり寿となる。しかし殺旺の行運では、必ず夭折する。
 定真篇にいう、
 七殺制なく、官禄に逢うのは災いとなり、寿命も長くない。
 七殺は制があって貴となる。もし制伏なく、さらに正官に逢い、かつその官の禄に逢うのは、甲が庚にあって庚を制するものがなく、さらに辛金官星、酉(辛の建禄)に逢うのは、すなわち官殺混雑である。万金賦にいうところの、官殺混雑はまさに寿は夭というのがそれである。
 幽玄賦にいう、
 身が柔らか過ぎで、殺が重すぎるときは、名声は野にあまねく伝わる。
 日主の勢いが弱すぎておよそ一点の根もなく、七殺が重過ぎて、命式中にいくつもあるとき、三合火木が旺じる行運にいけば、木生火、火生土、殺印相生で、功名があらわれる。さらに申坎金水の運に逢えば、福は自ずから続く。けだし生に当たり金水があるといっても、制伏がなお及ばないこともある。必ず再び金水に逢って、まさに制伏の宜しきを得れば、ずっと福を受ける。
 この部分は少し変。幽玄賦の言っていることは従殺格だと思われますが、そのあとの解説は普通の七殺格のような感じを受けます。
 以下は命式例となるので省略。



時上一位貴格

 楠曰く、
 時上一位格は、だいたい時上の一点の殺星を取り、もし日干が生旺であれば、時上に殺があるのはこれを用神として時上一位貴格とする。もし身旺殺衰ならば、殺旺運を喜び、富貴にして子が多い、殺は子星であり、身旺は子を担うことができるからである。
 女命の場合は印を子としますので、これは当てはまりません。
もし日干が弱く、時上の殺が強ければ、殺旺運および財運に行くのを恐れる。まさに財生七殺で身が衰えるというわけである。これはすなわち貧賎にして子なく、殺は身を剋して子を生ずることをできなくするためである。まさに時に七殺に逢って本より子なしというものである。もし時上に殺があって、またまずは殺星を安置しあるいはこれを制去するか、あるいは合去すれば、まさに月上用神を用いること。もしこの殺を剋制できることがなければ、時上の殺を用神とし、月上に印星や財星があってもこれは用神ととれない。ゆえに格局を詳しくみることである。殺を以って重きとなすという先人の言葉は、そのへんあまりはっきりと説いていない。
 補して曰く、
 時上偏官はすなわち時上一位貴格である。もし陽が陽干を見、陰が陰干を見て、相剋すればこれである。透出するのは奥深く、ただ一位を許し、命式中にまた見るのを許さない。もし年月日にあれば、すなわち苦労続きの命である。本身が自旺例えば甲寅、自生例えば甲子の類である。また制伏があるのを要する。制があれば偏官となり、制なければ七殺となる。 また制伏を要して中和を得るのは、一位七殺でかえって制伏が多くなれば、これは太過とし、学問があっても仕官の道は難しい。すなわちただの貧乏学者にしかならない。
 ゆえに喜忌篇に云う、
 偏官が時に遇えば、制伏太過ならすなわち貧儒。
 四柱制伏多ければ、七殺の旺運に行くことを要する。あるいは三合の地を得て発福する。もし元々制伏がなければ、制伏運に行くのを要する。そうすれば発する。もし殺旺に遇えば、制するものがなければ災いが生ずる。時偏官の性格は重く、剛執にして不屈、傲物自高、胆気雄豪である。月偏官もまたそうである。
 また補して曰く、
 食神制殺は鬼を官に変える。もとよりよく権威があり貴であって、いわゆる食が先に居るということである。殺が後に居るのは、功名がある。羊刃合殺は凶を変じて吉となす。また権貴である。いわゆる甲が乙を妹とし庚を妻とするわけで、凶は吉兆となる。
 妹が強い妻を手なづけるということなのでしょうか?
 また補して曰く、
 食神制殺は、偏印に逢えば災いとなる。故に曰く、食神制殺が梟(偏印)に逢うのは、貧ならずば夭。羊刃合殺は財が多いのはよくない。財多ければ必ず咎あり。故に曰く、財生殺党、童年に夭折する。
 また曰く、
 食神もとより殺を制するが、傷官もまた殺を制することができる。ただ傷官は食神の力に及ばない。羊刃はもとより殺を合することができるが、傷官もまた殺を合することができる。ただ傷官は羊刃の勢いには及ばない。陽日の傷官はよく殺を制し、殺を合することはできない。例えば甲日は丁を傷官とするが、丁は庚金を制するが、庚金を合することはできない。陰日の傷官は殺を合することはできるが、みずから殺を剋制することもできる。例えば乙日の傷官は丙だが、辛金の殺を合することができ、また自ら辛を制することができるというわけである。
 また曰く、
 殺は一である。もし馴れ服従させ用とするのに二法がある。制と化がそれである。制殺とは食神である。いわゆる制は力づくである。化殺とは印綬である。いわゆるこれを服従させるのに徳を以ってするやり方である。力づくで制するのは、徳でもって殺を化するのに及ばない。
 ゆえに通明賦に云う、
 制殺は化殺の高きに如かず、しかして制化並びたたず、制あれば必ずしも化有らず、化有れば必ずしも制有らず。もし化神が弱く、制神が強ければ、恩を施すのに不足の怨みあり、化神旺じれば、制神は衰え、事に臨んで禁制の能力なし。
 古歌に云う、
 時上偏官一位が強く、本身が健旺ならば富は非常、年月に官財殺がなく、ただ時にのみあれば最も適当である。
 また曰く、
 時上一位貴は、支中に蔵しているのも含む。日主が剛強なのを要する。名利はまさに気あり。
 補して曰く、
 これは時支偏官であり、甲日申時、乙日酉時のたぐいである。すなわち支中の蔵干である。日主が強旺なら、名利は必ずあがる。ただ身弱を忌む。つまり力不足ということである。
 また曰く、
 時上偏官は刃冲を喜ぶ。身強制伏あれば禄は豊かである。正官がもし来れば混雑である。身弱で財生は主に困窮。
 補して曰く、
 時上偏官は、甲日庚時、乙日辛時のたぐいである。冲刑羊刃を恐れずというのは、継善篇にいう、時上偏官刃を喜び冲を喜ぶ、日主が生旺であり、年月に食神制伏があれば、いわゆる食が先に居り殺が後ろに居るということで、功名は全し、地位や禄は豊かで厚く、正官が来て混雑するのを喜ばず。兄があってその弟が顕れないのは、身の勢いを加えて衰弱する。財が殺を生じ党するのは、必ず貧寒困苦、成し遂げることがない。
 また曰く、
 時上偏官一位が強いのは、日干支が自旺であれば貴は非常、財あり印あれば多くは財禄、天生を注定し(意味不明)棟梁となす。
 補して曰く、時上偏官は、ただ一位を喜ぶ、四柱に二つ見てはいけない。日主自旺とは、甲寅乙卯日、あるいは寅卯月生まれのことである。すなわち身殺両強、富貴は人を過ぐということである。財があって時殺に根があれば、印で殺を化し身を生じることになれば、財馬官禄、自然に興る。
 また曰く、時に七殺に逢えばこれは偏官、制あって身強なれば好命と見る、制が過ぎれば殺旺運に逢うのを喜ぶ。三方地を得れば発するのにどうして難しいことがあろう。
 補して曰く、時に七殺に逢うとは、これは時上偏官格である。身旺で制があるとは、ただ一位の殺であれば、一位の制があることである、これはすなわち貴人で文章がうまく発福してまさに好命であるとみなす。もし二三位の制伏があれば、これは制伏太過なのであって、殺旺三合、地を得る運にいけば、発達する運である。あっという間で抑えることはできない。もし制伏太過であって、また殺旺運に行くことができなければ、文がうまくとも李杜に過ぎず、ついに顕れることなし。
 李杜とは李白と杜甫のことで、詩の大家ではありましたが、役人としては不遇でした。
 また曰く、
 もともと制伏なければ行運でなければならない。刑冲や殺が多く集まるのを恐れず。もし身が衰えただ殺が旺じれば、おそらくこの命は貧寒であると知るべし。
 補して曰く、
 偏官で制伏あれば、行運で再び(制伏を)見るのはよくない。もともと制伏がない場合は制伏運に行くのを喜ぶ。月上偏官は刑冲多くの殺が集まるのを恐れるが、時上偏官は三刑六害羊刃冲破を恐れず、殺が多く集まってもただ身強で殺が浅いのを喜ぶ。もし殺重身軽ならば、ついには身を損ない、たとえ夭折しなくても貧寒である。
 また曰く、時に七殺に逢うは子がなく、この理は人によって詳しく見なければならない。年月時中に制があれば、おそらく子があり貴にしてすばらしい命である。
 補して曰く、時上偏官建禄は主に子を剋す。もし年月中に食神の制伏あれば、あるいは刃によって合があれば、子があるばかりでなく貴である。ゆえに曰く、時上偏官に制あれば、晩子英奇。四言独歩に云う、時殺に根なければ、殺旺を貴と取る。時殺に根が多ければ、殺旺は利あらず。
 補して曰く、
 もし庚の用神が丙で七殺とし、寅月生まれならば、巳午を旺とし、庫は戌とする。これらが殺の根である。格解は財を根としているのだが、それもあり。もし時干にあるだけで、根もなく財生もなければ、行運で殺が旺じて富貴を得る。もし三合が地支にあって、根が多く財生があれば、さらに殺旺の行運ではかえって利あらず。貧苦にあえぐ者多し。
 以下命式例は省略します。  とくに解説の必要はないと思いますが、面白いのは、「月上偏官は刑冲多くの殺が集まるのを恐れるが、時上偏官は三刑六害羊刃冲破を恐れず」と言っているところです。どうしてそうなのかを解説してほしいものです。



付 官殺去留雑格

 喜忌篇に云う、
 去官留殺のたぐいあり、また去殺留官あり。
 補して曰く、
 これは五行が月支偏官に遇うという節の中にある二つの句である。格解では明らかではないが、これについてここで付説する。これはすべて偏官格のもとでの議論である。三車一覧賦は官殺去留の説について論じているが、これについてもここで付す。後学亀鑑とし、得るところがあるだろう。
 その論に曰く、
 だいたい四柱中の官殺は、混雑交差すれば、去官留殺するべきは、偏官論を以ってし、去殺留官すべきものは、正官論を以ってする。およそ去官留殺、去殺留官をみる場合、要は四柱中の官殺のいずれかが重くいずれかが軽いかをみて、天干に透出したもので去るのが容易な方を取り去る。月支に蔵するものを取り去るのは難しい。すべからく四柱に官殺を取り去るだけのものが多く力があれば、まさに取り去ることができるわけである。官殺を去る物とは傷官食神である。
 喜忌篇に云う、
 神殺相絆(官殺と合するもの)は軽重を比較検討すべき。
 継善篇に云う、
 年月時中、官殺混雑を大いに恐れる。
 易鑑に云う、
 天地人元は五音に分け、陰陽妙訣はその真を明らかにし、去留舒配は透干をみて、禍福の理はおのずと明らかである。
 万金賦に云う、
 官星は七殺運に行くのを恐れ、七殺はなお官星に臨むのを恐れる。官殺混雑はまさに寿は夭、去官留殺は子細に尋ね、留官去殺は殺に逢うことなかれ、留殺去官は官に逢うことなかれ。官殺が傷を受けるのは必ず夭折、さらに財格は前程を定めるのがよい。
 三車に云う、
 官星を合するのは貴となさず、七殺を合するのは凶となさず。なぜか。曰く、経にいう官星を合するとは、柱中の閑神が官星を合去することでそれで貴とはしない。殺を合するのは柱中の閑神が七殺を合去することでそれで凶とはしない。また曰く、たいていの凶神は合去することで凶を吉となすことになる。吉神は合去することで吉が凶となってしまう。凶神とは、七殺、羊刃、劫財、敗財、偏印、梟神、傷官というような神である。吉凶神殺は、また格局をみて、何が喜神で何が忌神がをみるべきで、一つの考えにとらわれてはいけない。
 集説に云う、
 合を貪り殺を忘れる、合を貪り官を忘れるとは、たとえば癸日生まれで、天干に己があり、それは癸の七殺である。さらに甲が透干して己を合する場合、己を合去するという。こうすれば殺とはならない。これを合を貪り殺を忘れるという。陰日は傷官を合とする。また、壬日生まれならば、己は官星となり、もし甲が透干すれば、己と合して、己を合去し、官星とはならない。これを合を貪り官を忘れるという。陽日は食神を合とする。
 また云う、
 壬水が陽土時に逢えば、心に憤怒をいだき争いごとを起こす。忽然として癸がきて救うことができる。合してしまえば凶の頑なさは威力を失う。これは貪合忘殺の例であり、羊刃が合殺となっている。
 補して曰く、
 陽水が時に戊土に逢うような場合は、性格は虎のようで、性急さは風のようである。その心には常に不平の気を抱き、ひとえに争いごとを好む。そこで癸水の妹に合えば、戊土の殺を合して、凶頑の気を自ずから消し、威嚇暴力は施さず。もし癸妹の合が来て救うことがなければ、剛暴はやまず、刑獄につながることは免れない。どうして惻隠の心が生じようか。
 また曰く、
 壬が己土に逢えば官となるのを欲し、不意に青陽を被り訟端を起こす、合将を引誘し真貴去る、令を致せば万千般の挫を受ける。
 補して曰く、
 青陽とは甲木である。真貴とは己土の官である。ここで言っているのは壬水が己土を官貴とする場合、傷をおそれ合を恐れるということである。もし甲木で官星が合されれば傷を受けるということで、これは貪合忘官である。まさに忠信変じて紛争となるのを見る。それで訴訟刑獄の端緒を起こす。真貴が去れば下賎となり、万般の辱しめを受ける。いわゆる官星を合して貴となさないということである。
 また曰く、
 官殺相連なるはただ殺を論じ、官殺各々を分け混雑とする。食神が多くあるのは傷官とし、重ねて官星を見れば殺のように論ずる。殺があらわれて官を蔵する場合も殺を論じるだけで、官があらわれて殺を蔵するのはただ官を論ずるだけである。身強でこれらに遇うのは多くは清廉で貴であるが、身弱で重ねて遇うのは禍百端である。
 補して曰く、
 年干官星で月干に殺がある、または年干に殺星があり月干に官がある場合を相連なるという。ただ殺を論じる。年上に官があり時上に殺がある、または年上に殺があり時上に官があるのは、これを各々を分けといい、混雑という。食神多くあるというのは、例えば甲が丙を二つ見る場合や三合を見る場合を傷官とみる。重ねて官星を見るとは甲が二つの辛を見る場合や地支にいくつも見る場合は殺として論ずる。殺が官にあって官が支にあれば、これは殺があらわれ官を蔵するとし、殺だけを言えばよく、官が干にあって殺が支にあれば、これを官があらわれ殺を蔵するとし、ただ官だけを論ずる。身勢が強健ならば、力があり官殺にまさり、多くは清廉高貴の役人とするが、もし身弱で気がなければ、官殺が重なれば、禍咎が来るが一度では終わらない。
 この項は、結構くどい感じがします。とくに解説の必要はないでしょう。


訳者のあとがき

 まずは、正官格と偏官格のところを訳してみました。意味がわかるようなわからないような訳ですみません。()内に張楠のいわんとするところを推測して私のほうで注記させてもらいました。しかし、はたして合っているのかはなはだ疑問です。
 ここでのポイントを大胆に整理すると、
 (1)正官格においては、中和する(五行均衡)のがよい。
 (2)七殺格においては、七殺を抑えるのが一般的によい。
 (3)ただし七殺が強すぎる場合は従殺格になるのがよい。
 (4)官殺混雑はよくない。
 (5)時上正官格など、柱の場所を指定した格は意味がない。
ただし、それぞれの解説は注意深く読む必要があり、実際それぞれに注釈を加えたほうがいいように思いますが、それこそ膨大になり、それはこのHPでは無理です。そのうち「命理正宗和訳解説」という本でも書きますか。(全10巻とかになりそう)
 それにしても、訳しながら、あらためて張楠の文章が喩えが多くわかりにくいと感じました。徐樂吾の「子平一得」や「命理一得」もそうですが、子平の名著と呼ばれる本はおよそわかりにくいです。わざとわかりにくくしているとは思えないので、一種の癖というか言い回しなのでしょう。その点近代以降の人の著作(例えば袁樹珊とか)は、わかりやすいです。



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