「命理正宗」格局解説 抄訳その2

月支正財格、時上偏財格


はじめに

 その2ということで、官殺格に続いて財格を訳します。例によって、命式例は省略します。




月支正財格 附棄命従財格

 楠曰く、
 正財とは何か。財はわが性命を養うもので、人にとって必要なものである。もし身主に気が有れば(日主が強ければ)、これを担うことができる。たとえば金銀財宝や田畑不動産のように、わがものとなる。しかし、身が弱ければ守ることはできず、例えば盗賊に財物を盗られるようなもので、財があることで、自分の命を害してしまうものである。
 書に云う、
 財に逢って殺を喜ぶ命で殺に遇うのは、九割方貴命であるというのは、そのとおりではあるが、よくわからない。(補足すると)もし財が用神であって日干が旺じ、比肩劫財が多いのは、我の財を分けられ奪われるわけで、このときは官殺によって比劫を取り去るのがよい。すると財星が生きてくるのである。
 もし日主が弱く財が多く、さらに官殺がきて身を剋す場合は、自分の性命が保てない。どうしてその財を享受することができようか。
 財が弱く日主が旺じているときは、食神傷官が財を生じるのがよく、財が多く日主が弱い場合は、兄弟比劫が財を分けるのがよく、また父母印運が助けるのがよい。
 ここでいうことは結局財が自分のためになるのは、日主が強くなければだめだということです。しかし日主は比肩劫財によって強くなるのはよくなく、比肩劫財がいいのは、あくまで財が強すぎる場合でさらに父母がある場合と言っています。なぜか。木日主の場合財は土です。木の父母は水ですから、土を分けて弱める作用があります。つまり、父母も兄弟も財を弱めるのです。しかし、父母の作用は財を分けるというよりは日主兄弟を強めるという役割です。
 およそ偏財が用神であるのは、多くは富貴をつかさどるのであるが、正財が用神の場合は多ければよいというものでもない。けだし陰が陰を剋するとか、陽が陽を剋する場合は、気があり、時や日に偏財があるのがもっともよく、実例も多い(原文は試験之多)。故に偏財を用神とするのは上格だとわかる。また財神が日主に近い方がよく、比肩を間に挟むのは、純和でなくよくない。これは五行の正しい理論による。
 ここでは偏財が多く富貴であると言っています。正財というのは正当な労働報酬とするのが一般的という考え方からすると、正当な労働報酬では富貴にならないと言っているようです。ここはちょっと現代に応用するには検討が必要でしょう。ただ、注目すべきは次の「財は日主に近いほうがよい」ということです。財は妻でもありますが、日主には隣接していないとその意味は減じられるのです。ここは要注意です。
 棄命従財格は、日主の陰陽にかかわらず、みな財に従う場合をいう。財とは我の妻であり、身主に力なく、その財を行使するだけの力がないわけで、その場合は自分を捨ててそれに従うというわけである。もし自己がなければ、ただ妻の家に入婿して、その財星を生かすことになる。その場合は、日主が強くなる行運を恐れ、また印生の行運を恐れる。これは棄命従殺格と同じ考え方であり、正当な理論である。
 継善篇に云う、
 一生安らかであるのは、財命に気があるときである。
 補して曰く、
 この段に二つの説がある。ある人がいう。財命に気があるとは、財星と身命ともに気があることである。またある人はいう。これは単に財星が生旺で気のある地にいるということである。他の古典でも命は財の字に続いていることが多いことからそうである。また最近の人は、これは好財命の略であるという。この説は牽強である。
 これを考えるに捷連玄妙訣をみると、官は身を助ける本であり、財は養命の源、という。これをみると命は身命であることは明らかである。さらに旧注には財命は分けて二つとするとある。ただこの言葉は不明快であり、よって見方の浅い者が疑うことになる。最初の説が正解であって、明らかにそれに従うべきである。もし財が旺じて気があり身弱であるのは、決して安楽幸福をうけることができない。いわんや一生をや。よって、財多身旺がすなわちその意味にあっている。
 また古歌に云う、
 財多く身健やかなのが貴命であり、もし身が衰えればすぐに災いがおとずれると。これからみると、財命とは財と命の二つであることがますます明らかである。
 古[ショ][コ]天に云う、
 [ショ]は庶の右に鳥、[コ]は古の右に鳥、しゃこという鳥の名前で、全体として古書の名前だと思いますが、私はその本を知りません
 正財は気があって身強を喜ぶ。陽は陰財を取り、陰は陽を取る。身弱で財旺なのはすぐに災いとなり、身強で財旺は名利が長く続く。ただ官鬼をおそれ(財が)空亡を恐れる。印綬が身を生じれば繁栄し、休囚である少年は不如意であるが、歳をとって旺運になればよい人生である。
 補して曰く、
 例えば甲日で午日(月の間違いであろう)生まれは、午に己土があり、甲木の正財となる。丁火が之を生ずる。乙日で巳月生まれは巳中の戊土が乙木の正財であるが、丙火がこれを生ずる。これは正財に気があるという状態である。甲寅乙卯日は日坐禄であり、甲子乙亥は日坐印である。これらは日柱中に日主を生扶するものがあり、これを身強という。正財に気があるのは最も喜である。
 甲が午月に生まれ、丙が酉月に生まれ、戊が子月に生まれ、庚が卯月に生まれ、壬が午月に生まれるのは、陰支が陽干の正財である。また、乙日巳月、丁日申月、己日亥月、辛日寅月、癸日巳月生まれは、陽支が陰干の正財となる。このとき、身が休囚死敗の地にいて、天元が弱く、柱中に財の支干が多くまた三合だったりすると、まったく益なく、かえって殺を生じ災いを生じる。いわゆるただ日干元が自ら弱く、財多く殺を生じ身を御して衰えるというのはこれである。もし身が官旺の地に臨めば、あるいは柱中生扶があり、しかして財が三合をなして非常に強くなれば、富貴にして名をなし、名声や栄誉が顕れる。いわゆる財多身旺である。官鬼を愁うというのは、けだし官鬼は財を洩らすものであり、我を剋すもので遠ざけるけるべきである。すなわち、財を洩らすものが多く、また身を弱めるものであるというのが、それである。
 空亡を恐れるとは、すなわち六甲空亡であり、甲子旬では戌亥を空亡とするという類である。財が空亡に落ちるのは、必ず貧しさに陥り財を集められないというのは、恐れるべきことである。空亡は害をなすもので最も心配すべきものであり、金銀や財宝を積むのは貧しくなるというのがこれである。
 印綬が身を生ずるのは富貴にして繁栄するというのは、財多身弱であり、あるいは官鬼がある場合で、印綬の相生があれば、自然に富貴にして栄える。独歩にいう、先財後印は反ってその福を成就すると。通明賦にいう、財が印の助に逢えば、馬車に乗るようなものだというのがそれである。
 「休囚少年」の二句は、命式がすでに財多身弱であることをいい、大運で財官の旺地に行けば、財官は旺じるが身は休囚で、よけいに弱くなる。身強であっても休囚の年に至れば、また不如意であり、発福しても災いが多い。しかし、また印の強い行運に行き、あるいは三合扶助で我が強くなれば、すぐに発展し、富貴が顕れる。もし身と財の強さが同じなら(身財両停)、あるいは身旺財軽ならば、財官の旺じる運を喜び、身旺や比劫の行運を忌む。軽重を比較検討するのがよい。
 また身弱で通根していず、財や殺ばかりなのは、棄命従格であり、行運が財官の旺ずる運に行けば、大いに発達するものがある。すぐに身弱財多だと断定することはできない。
 四言独歩に云う、
 陰火酉月生まれは、命を棄てて財に就く、北方に行けば入格し、南方に走れば災いとなす。この一段は従財格を例示したものである。
 楠曰く、
 丁火の長生は酉であり、偏財が位を得る。三合金局ならば、財多くおよそ日主に根はなく(注、巳は通根することになると思う)、これはすなわち棄命就財格である。行運で壬癸亥子の北方に行けば、多くは富貴を全うし、丙丁巳午の南方運に行けば、火は通根し、身旺で扶助し、財は敵となり、従財とならず反って災いとなる。いわゆる根気に逢えば命は不情を招くというのはこれである。この北方入格の一句をみれば、従財が殺を忌むというのは、これにこだわってはいけないということになる。
 途中わかりにくいですが、内格の場合は身財両停がよいが、財が強い場合は身弱に徹した方がよいということでしょう。
 以下は命式例ですので省略。



時上偏財格  附月偏財格

 楠曰く、
 時上偏財格は、けだし日干に気があり、その財を担うことができる場合をいう。たとえば甲寅日戊辰時生まれの場合などである。天干に財があるのがこの格の正しい格である。もし年月柱に財があるのは相雑であり、格としては不純である。けだし身旺で財を使えることを喜び、食神運では財を生じて、官殺運を嫌う。それは日干を弱め財を使えなくするからである。およそ身が強すぎ比肩が多いのは、官殺運に行き比肩を制して、その財を洩らすのを喜ぶ。拘泥してはいけない。ただし、偏財が用神で日主が旺じているときは多くは富貴であるのは、だいたい陰が陰を剋し、陽が陽を剋する、財が近くにあって気がある場合である。正財が用神であるのはまだそのよさを見たことがない。偏財とは思いがけない財であり、身旺であれば多くは施しをして豪気を捨てて、思いがけなく財を得る。このような考え方である。
訳すと意味がかえってわかりにくくなりましたが、日主が強く時上だけに偏財があるのがよく、財が多かったり、正財であってはいい格にならないということでしょう。時上一位偏財格とでもいうべきです。
 古歌に云う、
 偏財はもともと衆人の財であって、比劫が来るのを最も忌む。身強く財旺じれば必ず福であるが、もし官星がある場合はさらによい。原注によると、これは月支偏財のことである。
 補して曰く、
 偏財とは陽が陽をみる、あるいは陰が陰をみる財で、甲が戊をみる、あるいは乙が己をみる類である。偏財は衆人の財であって、それは正当に得た財ではない。(労働で得たお金ではないということ)ただ、比肩劫財が財を分けて奪うのを忌む。つまりこれは全部を自分のものにできず、兄弟姉妹が分けて奪い去るということである。功名は得られず災いが生じやすく、官星がなければ、災いが続出する。故に、官星を帯びればさらによい、というのである。ただし、身の勢いがなく、財が弱く根がないのを恐れる。さらに、身強く財旺じれば必ず福であるとはどういうことか?およそ身旺は財に勝つことができ、財旺ならば官を生ずることができる。
 また古歌に云う、
 時上偏財一位はよく、冲破に逢わなければ栄華をうけ、敗財劫刃にまた遇わなければ、富貴双全は石家にならぶ。(石家とは石崇一族のことだろうと思います。富貴の家柄。)
 補して曰く、
 時上偏財とは、庚日で甲干を見るとか、時支が寅であるとか、あるいは辛日で乙干を見るか、あるいは時支に卯がくるなどの場合をいう。ただ一位だけなのがよく、多いのは不要である。さらに時柱以外には財があってはならず、かえって年月日の冲破を恐れる。例えば、寅が申を冲したり、酉が卯を冲したりするのがそうである。もしそれらに逢わなければ、自然と栄華を受け富貴となるのである。もし命式や行運に敗財があるなら、例えば辛日で庚や申の劫財羊刃があった場合、また庚日で辛や酉があるなどの場合は、必ず妻を傷つけ財を失い、家を破り不足するのみ。もし干支とも遇わないばあいは、すなわち富んで財をもつことになり、貴命なら権力をもつことになる。石崇にも比すべきである。
 補して曰く、
 正財偏財は、みな身旺を喜び、印綬倒食、身弱で比肩劫財があるのを忌む。ただ偏財は官星を喜び、正財は官星を忌む。故に集説にいう、正財、偏財の二格の喜忌は大体同じであるが、ただ官星を喜ぶのと官星を喜ばない場合があるという点がわずかに異なるだけである。さらに、偏財の人となりは清純で高貴であり、多くは気前がよく、とくにけちということもない。自分の利益を図ることができるが、それによってそしられる。官星を喜ぶといっても、日主の強弱を比較検討しなければならない。
 運の盛衰を言うと、もし行運が旺相していれば、福禄ともに成就し、官の行運でもまだ発福することもありうる。もし財が盛んで身弱ならば、官の運に行けば、すでに財は洩らされ、また官を見れば身を剋し、全く発福しないし、災いを避けることもできない。もし先に命式中に先に官星があれば、好命とみることもできる。もし命式に兄弟が背出して、かりに官運に至れば、発禄は必ず少ない。
 正財の人となりは誠信で、倹約家であり、物事をかしこくこなすが、ただしけちである。正財は官を見るのを喜ばないし、財を洩らすのを恐れる。しかして、命式に財が多く身旺で比劫が多いのは、官殺が比劫を制するのを喜ぶ。故にいう、財に逢って殺をみて、官を見るのはもっとも微妙である。財を蔵して官があらわれるのは、まさに貴命であり、官を見るのを喜ばないという説にこだわってはならない。
 このあたりの議論は混乱していますが、確実にいえることは、偏財にしろ正財にしろ、日主自体が旺じているのがよいということでしょう。印や比劫で強くなることは、状況によりけりでしょうが、財としてのよさはあまり出てこない感じがします。
 偏財は清純高貴で気前がよく、正財は誠実信義を重んじ倹約家だというのは、これまた個人差がありますが、同じ財でもこうも違うかということでちょっと面白いですね。意外とこの性格判断は当たるようです。
 以下は命式例となるので省略。



訳者のあとがき

 官殺の次は財格です。例によって意味がわかるようなわからないような訳ですみません。また、改行の位置も適当に私が割り振っているだけですので、原文の意と異なるところがあるかもしれません。
 この章はよく読むとなかなか含蓄があります。財格をあえて偏財格と正財格を分けない術者もいるようですし、張楠もこの二つの格の喜忌は大体同じと言っていますが、ただ官殺だけは喜忌の判断が難しいといっています。
 この章で気になったポイントをあげると、
 (1)財多身強がもっともよい。
 (2)財強身弱ならば、従財格になるべきである。
 (3)偏財格の場合は官を喜ぶことが多く、正財格の場合は官を忌むことが多い。
 (4)従財格は必ずしも殺を忌むわけではない。
 (5)財格において、比肩劫財によって身が強いのはあまりよくない。
 次章は傷官食神格ですが、付録についている傷官十論が面白いです。例によって気長に待っていてください。



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