「命理正宗」格局解説 抄訳その12

日徳格、日貴格、魁[ゴウ]格、六壬趨艮格、六甲趨乾格、
勾陳得位格、玄武当権格


はじめに

 その11ということで、日徳格、日貴格、魁[ゴウ]格、六壬趨艮格、六甲趨乾格、勾陳得位格、玄武当権格を訳します。なお、[ゴウ]は目かんむりに正という字です。



日徳格

 旧賦曰く、
 日徳に五日あり。甲寅、丙辰、戊辰、庚辰、壬戌がこれである。その福は多く、そして刑冲破害を忌み、官星をにくみ、財が旺じるのをにくむ。会合に臨むのは、空亡、魁[ゴウ]を見るのをおそれる。これらはこの格の大いに忌むところである。身旺運に行くのを喜び発福する。
 魁[ゴウ]はいろいろな使い方をされますが、一般的には、庚辰、壬辰、庚戌、戊戌の4つの干支を指します。河魁、天[ゴウ]といえば、戌と辰のことです。
だいたい日徳はおもに性格は慈善で、もし日徳が多ければ、福禄は厚く豊かで、運が身旺に行けば、大いにすばらしいものとなる。もし財官が命式にあれば、日徳でなく別の格とする。まさによく非横の災いを免れ、もし旺気がすでに衰えれば、剋や魁[ゴウ]がくればその死は必ずくる。あるいは発福しないうちに魁[ゴウ]運に至れば、また災いや患いが生じるが、それが過ぎれば、必ず再び発福する。
 古歌にいう、丙辰は切に壬辰を見るのを恐れる。壬戌は戊戌が臨むのを防ぐべきである。日坐が庚辰なら庚戌を恐れ、甲寅はまた庚辰を心配する。
 補して曰く、この言は四柱および行運で、魁[ゴウ]悪宿を見てはならないということである。丙辰日主のときは庚辰魁[ゴウ]を見るのを忌む。
 又曰く、日徳は殺があって身強を喜ぶ。財星官星が旺じる行運を喜ばない。性格は温柔で慈善である。一生福寿で喜び多い。
 注して曰く、この格は刑冲破害を忌み、官を見てはいけない。会合空亡に会えば、行運は身旺を喜び発福する。甲午、壬申、壬戌、壬寅というような命式である。もし四柱に財官があれば、別の格とする。魁[ゴウ]運に行くことを大いに忌む。
 楠曰く、
 日徳格に5つあり。甲寅、戊辰、丙辰、庚辰、壬戌日がこれである。なんで徳というのか。その元々の意味、来歴をたずねてもわからず。あやまって日徳と名づけたのであろう。これは子平の中の誤った説ではないだろうか。
 前半は「淵海子平」の日徳詩訣です。しかしながら、張楠は日徳格は誤った説であると断じています。
 神殺の日徳(干徳)は干との組み合わせを考えると、甲寅、丁亥、庚申、辛巳、癸巳であって、いわゆる日徳格とは一致しません。張楠の言うように日徳格の起源は不明です。



日貴格

 古歌曰く、
 丁が猪鶏、癸が卯蛇に遇うのは、刑冲破害にあうのを嘆く。それでも会合方に臨めば貴となし、昼夜を分けて始めてよい。
 旧注曰く、天乙貴人は、甲戊が牛羊の類を兼ねて、止まること四日、すなわち丁酉、丁亥、癸巳、癸卯日は刑冲破害および空亡魁[ゴウ]を最も恐れる。運が三合に行けば発するだろうし、もし歳運が刑冲破害であれば貴人は怒って、反って災いとなる。経にいう、崇は宝なり。昼の生まれは日貴がよく、癸卯癸巳、夜生まれは夜貴を生ずるのによく、丁酉丁亥、まさに始めて貴である。
日貴格というのは日支が天乙貴人である場合ですが、上にあげられた四日しかありません。で最後の文ですが、日貴は癸巳と丁亥、夜貴は丁酉と癸卯であり、そういう風に並べたほうがいいと思うのですが。
 [ショ][コ]天にいう、丁亥、癸卯は冲ながく、丁酉癸巳はさだめて豊かで満ちている。貴人が会合なら官星が顕れ、馬は門にならび、富寿は増し、財は庫に満ち、米は庭に満ちて、名声はいやがうえにも上がり、人となりは正直で無私、天性は忠良で秤のように公平である。
 楠断じて曰く、
 日貴格は、甲戊は牛羊を兼ねて、乙巳鼠猿郷の類(貴人歌)である。どうしてここに理屈があるだろうか。天乙貴人をいうといえども、日主が貴人の上に臨むのを、日貴として、その休咎を命とする。しかるに貴人の説にはいろいろなものがあって、もとよりこれを名づけて理を出すほどの根拠はなく、丑日と小児を生ずるという諸々の多くの関殺と同じで、妄謬の説である。日主が貴人に臨むといっても財官陰を論ずるわけではなく、ただ貴人を主に見るだけで、はなはだ虚説となす。かつ貴人には多くの説があり、またこれらは依って立つには根拠や理屈がない、どうして信じられるだろうか。六乙鼠貴格もまた同じようなものであり、謬説疑いなし。
 訳として練れてませんが、あまりきちんと訳してもしょうがないので、てきとうに訳しています。結局、日貴格は格として考えなくてよい、まちがった格であるということですから、これ以上は論じません。



魁[ゴウ]格

 古歌にいう、
 壬辰、庚戌、庚辰、戊戌日を魁[ゴウ]四坐神とし、日上に加えて臨み、命式内に重なれば、身旺の行運にいけば文臣となり、聡明、果断、慈祥は少なく、刑殺財官は大いに慎むべきである。一つの魁[ゴウ]が日上にあって冲が多いのは、おそらくは小人の身で、刑に多く遇うのは窮まること骨身にしみる。財官旺運は災いが来て侵す。魁[ゴウ]四日は最も賢となし、重ねてあれば大きな権力をにぎる。身旺運に行き旺運に乗理、財官旺ずるところでは災いが続く。
 旧注曰く、
 この命式中に重ねて逢うとは、例えば、甲寅年戊辰月庚辰日庚辰時のような場合で、まさに大権をにぎる命である。もし四柱にただ一つだけあって、重ねてこれを冲すれば、すなわち多くは刑害に値し、困窮となるのみ。行運で日主が旺ずれば、大いに発福するが、財官運に行けば、その災いに立ち至る。
 楠断じて曰く、
 魁[ゴウ]格は、壬辰、庚戌、庚辰、戊戌、の四墓の地に臨み、それを魁[ゴウ]格として、大権をつかさどるとするが、どれもこの論をとらない。どうして四墓の上に臨むのが権威を掌握することができるだろうか。これもまた子平書の大きな間違いである。
 魁とは戌、[ゴウ]は目かんむりに正しいという字で、辰のことです。途中で墓であると言っていますが、墓だとすれば、壬辰、戊戌はわかりますが、丙戌は?また庚戌、庚辰はどういうこと?と疑問はわきますが、張楠はその解説はせず、間違った説であると一刀両断です。



六壬趨艮格

 纂要にいう、
 この格は六壬日寅時生まれで寅の字が多いのをいい、またこれを合禄格という。壬の禄は亥で寅は亥と合するからである。命式中に刑冲破害を見るのはよくない。この格は大権をつかさどることができる。行運で申があれば寅を壊し、左遷失職となる。また災害窃盗などのことがある。また亥の字を見るのもよくない。故に六壬趨艮といい、亥月に会えば貧である。
 古造で例えば、壬寅、壬寅、壬寅、壬寅 はまさに大貴である。
 古歌にいう、
 壬は寅に逢うのを喜び、庚は辰に逢うのを喜ぶ。雲竜風虎が精神を越え、支干重ねてあって冲破がなければ、これを清朝食禄の人という。
 又曰く、壬日寅時は貴格とするのは趨艮として福は大変なものがある。大いに刑冲剋破を恐れ、歳運に逢えば災いがある。
 楠断じて曰く、
 六壬趨艮は寅中の甲木を用いて、己土と合することができ、壬の官とする。また寅中の丙火は辛金と合することで、壬の印とするのである。ただこれは無から有を生ずるという説で、おそらくは間違いである。大抵後でのべる拱禄、飛天禄馬の説と表裏一体というもので、この説は非であり、ゆえに間違った格とするのである。
 無から有を生ずるというのは、飛天禄馬格でも言われたことですが、まあ存在しない干支を持ってきて、格とするのは間違いというなら、雑格の大半は間違いとなるはずですけどねえ。



六甲趨乾格

 星命統宗にいう、
 六甲日主で柱中に亥の字が多い場合、天門の位とし、また北極の垣(エリア)とする。甲木はこの長生に頼る。人が甲日で亥の字が多いのは、自然と富貴で、また巳が冲するのを忌む。また寅も忌む、また合禄ともいう。
 新安伯の命、戊辰、癸亥、甲子、乙亥
 補して曰く、
 この命をみると戊己があり、すなわちこの格は財を忌まない。古歌にあるような、歳運にもし財旺のところに逢えば官災患難が起きるという説は、何だろうか。だいたい天干に甲字が多ければ財を忌むが、天干に印綬が透干している場合で、印局に会うのは財を忌まない。故に曰く、六甲趨乾、印綬が透干しているのはよく、財星を重ねて見るのは、位は卿に名を連ねる。また曰く、歳運が官財旺運に逢えば、官星申子ともに来ることで、その場合は要は喜忌がどうかをみればよく、故に曰く、喜忌を分けることができれば禍福は自ずからわかるというのである。
 楠断じて曰く、
 六甲趨乾は、亥上にあって天の門戸といい、甲日生まれの人がこれに臨むのを趨乾という。仮にもし別の日干が亥上に来れば、どうして趨乾と言わないのであろうか。しかるに天門はまたただこの六甲日主を趨という。また天体は円であって、もとより入るべき門戸はない。乾は西北の境で、天の門戸のようであるが、どうして人の禍福をこれで論じられるだろうか。この説は子平の大きな間違いである。
 結論は間違いだということにつきます。



勾陳得位格

 統宗にいう、
 これは戊己日で、亥卯未の木局をなす場合官として、申子辰は水局を財とするのがこれである。まさに戊辰、戊子、戊申、己卯、己未、己亥の日主がこれである。刑冲殺旺を忌み、すなわち反って災いを生む。歳運もまた同じ。
 丁都督の命、丁亥、丁未、己卯、戊辰
 古歌にいう、
 勾陳得位が財官に逢えば、冲破なければ必ず端、申子北方東の卯木、管教一挙拝金[ラン](きっと高位に上る、という意味)
 張楠の意見はありませんが、この格も間違いであると次の玄武当権格のところで述べています。



玄武当権格

 統宗にいう、
 これは壬癸二日で寅午戌があり火局で財となり、辰戌丑未を官となす。壬寅、壬午、壬戌、癸巳、癸丑、癸未日がそれである。冲破身弱を忌む。歳運も同じ。
 李都司の命、丙戌、甲午、壬寅、辛亥
 古歌にいう、
 玄武当権は妙である。日干壬癸が財星に坐し、官星がもし門戸にいれば、破がなければまさに働きのある人である。
 楠断じて曰く、
 勾陳得位、戊己を勾陳とするのは理屈がある。位を得るというのは、それが財官の地に臨むことである。もし戊己日主が弱くなければ、財官を担うことができる。これがすなわち勾陳得位である。これはよろしい。もし戊己が弱く、財官が強すぎるならば、あるいは財多身弱、あるいは殺重身軽となる。単に勾陳得位だからいいというのはどうして間違いではないだろうか。玄武当権もまた同じである。ゆえに私は両方とも退けるのである。
 要するに日主の強さをみて普通に判断すればいいことで、格に相当するからいいとは無条件には言えないということです。



訳者のあとがき

 このへんになると怪しい格が多くなります。しかし雑格の残りも少なくなりました。
 さらに翻訳は続き、感動の(?)最終回へ。


 >>最終その13へ