「命理正宗」格局解説 抄訳その5

陽刃格  附比劫建禄格


はじめに

 その5ということで、陽刃格を訳します。




陽刃格  附比劫建禄格

 楠曰く、
 陽刃格というのは、陽日干のときにいうのが本当であって、陰日干の場合は刃とは言わない。ただし、用刃という説もあって、これについてはその理論をまだ究めたわけでなく、よくわからない。
 書には、陽刃で冲がないのは極めてよい命になるかもしれないとある。およそ甲日主で卯月に生まれた場合、甲が卯の乙木を見るわけだが、これはちょうど兄が弟をみるようなもので、祖先の財産を分け合うことになるし、家業を奪われるかもしれない。さらに、年や日や時に木があって気が有れば、どうして乙木を用神として自分の助けになるであろうか。このように刃を用神(喜神)としないのであって、刃は病となるのである。この場合は、庚金七殺を用いてその刃を合去するのがよい。酉中に官星がありその刃を冲去するといっても、それは恐れることではない。また甲日卯月生まれで、年月時柱に財や官や七殺がいくつもあるのは、日干が旺じているといっても、すぐに弱に転じる可能性がある。これはすなわち、甲刃が用神となっても、行運で酉が来て刃を冲去すれば、まるで人が衰弱し無力になる、言ってみれば生活を全て弟に頼っていたのに、弟が酉金によって殺されたようなもので、自分は何に頼って生きていけばいいのか。これは日主にとってみれば、極めて凶で殺傷蛇虎(おそらく凶の例えであろう)の災いといえる。この場合は、印綬運を必要とするのであって、これにより我の刃星を生起させ、比肩運でさらにその刃星を助け起こすのがよい。
 また、殺があって刃がないのは顕れず、刃あって殺がないのは威ならず、という。およそ日主が旺じて、七殺を得てその刃星を合去するのを考えると、殺というのは権威ある武の人でり、刃というのはその武器といえる、刃と殺が同じぐらい強ければ、多くは兵や刑の役人となるが、もし日主が弱く刃に頼って刃の助けを借り、官殺が多ければ、その刃を制して去り、多くは盗賊やつまらない者となる。
 しかして、陽刃格とは、建禄格にほとんど同じであるが、ただし禄をみて刃と言わないのは、日干と月令が同一であり純粋で和やかであるからである。またもし陽刃が戈を倒せば、必ず頭のない幽霊になるというのは、なかなか当たっている。もし丙日干で非常に強く、さらに丁が天干にあれば、その刃鋒は徐々に明るく輝くばあい、どうして身と首が同じところにあることができるだろうか。夏柱州の命はまさにそれであって、その人をみると非常にあっている例といえる。
 夏柱州の命式については、”四柱推命の実占”の例16に書いてありますので、それを参照してください。ちなみに「戈」というのは七殺のことであり、頭のない幽霊、原文では「無頭之鬼」ですが、その意味は、七殺を合去すること、だと私は解しています。
 建禄格とは、日主が建禄の地にあることであり、官禄のことではない。書にいう、月令が建禄であるのは、多くは先祖からの家がないというのは、その理屈はあまりはっきり言っていない。よく財を馬といい、官を禄というが、甲日寅月生まれは、甲は辛を官として己土を財とする。寅は財官にとっては死絶である。人は財をもって家業を継ぎ、官に頼って福を得るが、家業も福もないというわけで、この格は多くは家業がないというのはよくあることなのである。もともと甲日で寅月生まれは、寅の上に甲木の草庵があるようなもので、財官は空しく倒れて、どうして先祖からの家があるだろう。年上にもしこの禄があれば、家業は貧乏であって、さらに建禄を帯びるのは、多くは妻を刑するわけでこのことは陽刃格と同じである。甲日が寅をみるのは、寅の中の甲木は妻を剋すことになるわけである。もし四柱に根気が旺じすぎる場合は、建禄格ではない方がよく、官殺を必要としてその禄を剋制することがよく、また財星を必要として身旺のやり場となるのがよい。もし年月時中に財殺が多すぎる場合は、すなわち旺が弱に変わるので、印運がその禄を生じ、また劫運がその禄を助けるのがよい。またいう、ひとたび財官をみれば、自然と発福するというのは、およそ身旺でもともと草庵に財官がない場合は、すなわち家業というものがないので、財官の行運に行けば、身旺であるがゆえにその財を使うことができるわけで、どうして無一文から家を成すことができないといえるだろうか。
 昔は地位身分が固定的でしたから(それでも中国には科挙があったので機会が絶無ではなかったわけですが)このような話になるわけで、サラリーマンの多い現代日本では少し考え方を変える必要があるでしょう。
 それにしても、建禄格の多くは家業や遺産がないというのは興味深いです。検証が必要でしょう。
 補して曰く、
 陽刃というのは、天にあっては紫暗星であり、もっぱら誅や殺戮を行うもので、地にあっては陽刃殺といい、建禄の一つ先である。偏官七殺の制伏を喜ぶ。陽刃というのは辺境のとりでから起こり、富貴を発して、将や大臣となる者が多い。それで、千里馬にいう、羊刃偏官に制あれば、まさに兵権において職を掌握すると。またいう、羊刃が官殺に入るのは、威厳により辺境を鎮め、印綬が身を生ずるのを喜ぶ。故に三車一覧にいう、羊刃劫財がさらに正印に逢うのは、すごぶる清廉であってしかも考え深い。
 また要訣にいう、
 陽刃がもし生気とともにあれば、国外で権威をもち、反吟や伏吟を忌む。
 経曰く、
 伏吟や反吟は、涙を流しながら泣くことになる。伏吟とは何か。甲は卯を刃とし、庚は酉を刃とする。歳運と月支が同じ場合、つまり月支が卯で歳運が卯の場合、あるいは酉が酉を見る場合がこれである。これに遇えば必ず凶。いわゆる歳運併臨は災いたちどころに至るということである。反吟とは何か。けだし冲撃というものである。もし酉が卯の陽刃を冲し、卯が酉刃を冲するのがこれである。これに遇えばすぐに咎めがある。すなわち羊刃が歳君を冲合するのは、勃然として災いに至るというのはこれである。三合歳君を忌むというのは、もし流年が亥未を見れば、卯刃と三合となり、流年に巳丑を見れば、酉刃と三合となる。もし流年に戌を見れば、卯と六合であるし、流年に辰を見れば、酉と六合である。その歳は災いは必ず迅速に起こる。羊刃が歳君を合すれば、勃然として災いに至るというのはこれである。魁[ゴウ]が刑害を忌むというのは、全く官印福神の相助がないときは、すなわち災いとなり、官印福神の相助があれば、すなわち福となり、権貴と化すのである。何を羊刃というのか?甲丙戊庚壬の五陽干は刃があり、乙丁己辛癸の五陰干には刃がない、ゆえに羊刃と名づけるのである。もし命中に刃があればすなわち凶であるということはできない。おおかたは七殺とよく似ており、およそ刃がある場合、富貴になる人は多く、最も身旺で禄にあるのを喜び、殺を合し制がある場合、殺刃両全といい、普通ではない命である。
 三車一覧にいう、
 羊刃に三つある。劫財羊刃、甲が乙を見るのがこれである。財官格では利がない。護禄羊刃、甲が卯を見るのがこれである。帰禄格においては利がある。この言は誠に確かな論である。
 もし乙が丙を見れば、倒禄羊刃というのは、これは間違いである。乙が丙を見るのは背禄傷官と名づける。去官留殺格においては誠に大利があるが、背禄羊刃と名づけるのは、強引な解釈であり、また乙が丙を見るという説は、おそらくは全く通用しない。
 またいう、
 劫財諸格は、大いに財官が非常に強いのを忌む。確かにそうだが、時と場合による。(ここは、時に用神があるといってもである、と訳した方がいいかもしれませんが、それだと意味が少しわからないですね)
 喜忌篇にいう、
 日干無気は時に羊刃に逢えば凶となさず。
 継善篇にいう、
 君子格中、また七殺羊刃を犯すものあり。またいう、甲は乙を妹妻を庚とするのは、凶ではあるが吉兆とする。これらをみるとただ一つの考えを採用してはいけないということがわかる。
 洪範にいう、
 羊刃はよく妻財を奪い鬼と化す。また曰く、身弱財豊は、羊刃兄弟が助けるのを喜ぶ。
 撮要にいう、
 羊刃は冲をおそれ合によろしい。
 易鑒にいう、
 羊刃が重ねてあるのは必ず妻を剋す。寸金にいう、劫財は父を傷つけまた妻を傷つける。
 万金賦にいう、
 劫もし重ねて逢えば人は夭寿。
 元理賦にいう、
 殺と刃が二つとも顕われて強さが同じぐらいであれば、地位は王侯にいたる。殺刃が多く制がないのは、小役人となる。またいう、男で羊刃が多いのは必ず再婚する。またいう、羊刃は刑冲を喜ばず。
 万尚書賦にいう、
 官星帯刃は万将の権威をつかさどる。またいう、傷官に刃あるは、将軍大臣貴族となる。またいう、印刃あいしたがうは、官位が高く品位を極める。またいう、殺刃が休囚なのは、禄が少ない士である。またいう、殺が刃が興るのを制するのは、満営の兵卒である。もし用神が弱ければ、身分の低い兵士、卑しい役人である。またいう、刃が傷官を助けるのは、運勢が好転する機会に遭遇する。
 古歌にいう、
 羊刃七殺は官に逢うのをおそれ、刑冲破害の災いは非常で、財が強く三合にいるのを大いにおそれ、髪を落とされ指を切られ障害が残る。
 またいう、
 春木夏火は時に逢えば強く、秋金冬水も同じ、羊刃が天干に透るのはよくない。行運でまた羊刃にあえば定めて凶あり。
 またいう、
 劫財羊刃は侵してはいけない、官星がないのは一生貧しい。甲乙がならぶのはこれにならい、たとえば財帛が多くても化して塵となる。
 またいう、
 傷官は劫財と逢うのを忌まない。七殺偏官と理屈は同じである。もし官がなければ劫は忌まないが、身強で比肩にあうのはかえってよくない。
 またいう、
 劫財と羊刃が天干にあるのは、外面は華やかでも内面は空虚である。官殺が天干にともにあってともに出ないのは、夭折したりさげすまれたりする。
 またいう、
 甲子丁卯は刃ではなく、乙酉庚申の理もまな同じである。蔵干に合が起こり財が旺じるのは、中年に発達して年をとってから富豪となる。
 またいう、
 日刃帰時は身旺を要し、正財の大運は冲にあうのを忌む。さらにもし戊日で午を刃とする場合は、子丑の財の行運ではたちどころに凶となる。財運で冲がなければまだ忌むことはない。官星が刃を制すれば尊栄をえる。月柱に印があって通根すれば、官の行運では貴となるのと同じである。命式に財が多ければ殺運を嫌い、財がなければ殺運を喜び興隆する。
 酔醒子の気象篇にいう、
 権刃また権刃に行くのは、刃という薬が身を亡ぼす。
 本注にいう、権とは殺である。刃とは兵である。身旺でこの二つを用いれば、兵や刑で一番の人間となる。殺が旺じるのは制する運に行くのを喜び、刃が旺じれば、殺の地に行くのを喜ぶ。もしもともと殺が旺じてまさ殺が旺じる運に行くのは、業を起こし功を立てるところが、刀剣の下に死は免れない。刃が旺じてさらに羊刃の行運では、禄を進め財を得るところが、必ずついには病死することになる。命はそのようにさせるのである。(「数使然也」)  またいう、
 身をたすける羊刃は合を喜び冲を嫌う。
 本注にいう、刃とは身を助けるものであるから、大いに身旺で刃があるのをおそれる。一つの殺と刃が重なって合するのは、化して権星となる。もし官と刃が冲戦すれば、それは悪殺となる。用いる場合はその軽重をよくみて、よい悪いを判断する必要がある。
 またいう、
 例えば壬申生まれの人は五鬼が子にあり、癸酉生まれの人は五鬼が丑にあり、丙寅生まれの人は五鬼が午にあり、丁卯生まれの人は五鬼が未にある。ある場合は三合の次とする。
 一行禅師命書にいう、
 羊刃がいくつもあってまた禄を見るのは、富貴にして金玉豊かである。この論は確かである。
 理愚歌にいう、
 倒懸刃がまた同じく行くのは、死ぬことを免れない。
 本注曰く、倒とは倒戈殺のことで、懸とは懸針殺のことである。およそ倒戈殺とは、ただ戊と戌の字が同じ部分があり、これで倒戈という。懸針とは官が甲と辛、支が卯と午と申の場合で、このようなものを懸針殺というのである。
 其裁歌にいう、
 羊刃がさらに倒戈を兼ねれば、必ず首を切る鬼となる。
 経にいう、
 運羊刃にあえば、財物は使い果たして散逸する。
 論日刃の旧注にいう、
 日刃とは戊午、丙午、壬子の三日である。陽刃と同じ考えで、刑冲破害会合を忌み、七殺を愛す。官運に行くのを要し、この場合は貴命である。もし四柱中でひとたび合会にあえば、必ず普通でない災いがあり、その人は目は大きく髭はこく、性格は剛毅で、やさしさとか同情心とかはなく、冷淡である。三刑魁[ゴウ]があるのは、辺境の地で発達し、もし力がなくあるいは財が強い場合には、災いに救いがあるといえる。もし刑害ともにあって、地を得れば、貴命であることは言うまでもない。ただ一つの羊刃が時にある場合、財の行運に言ってはならない。陽刃は冲をおそれるとは、もし戊日の刃が午にあり、子正財運に行くのを忌む。壬の刃は子にあり、午正財運に行くのを忌む。庚の刃は酉にあり、卯正財運に行くのを忌む。甲の刃は卯にあり、巳午並びに辰戌丑未の財運に行くのはさまたげない。酉運を忌む。丙の刃は午にあり、申酉庚辛の行運は妨げないが、子運を忌む。
 比劫を論じるに、比劫というのは、陽が陽を見る、陰が見るを比といい、例えば甲が甲を見る、乙が乙を見るの類である。五陽が五陰を見る、例えば甲が乙を見るというのは、兄が弟を見るようなもので、劫財という。主には妻を剋し子を害する。陰が五陽を見る、例えば乙が甲を見るのは、弟が兄を見るようなもので、主には破れ消耗し小人を防ぎ、妻を剋す。およそ財というのは心からほしいものであり、いままさに兄弟がこれを見れば、多くは争い競うこととなり、前と変わらず平然としているものは果たして何人いるだろうか。
 六親捷要論にいう、
 禄を分けるのはすべからく主を傷つけ人をこわす。比肩が重畳するのはひどく親を損ねる。
 補して曰く、
 財多身弱は、比劫の助けを喜び福となる。故に曰く男が羊刃にあうのは身弱でこれにあうのはよい命であり、財が弱く身が強いのは比劫が財を奪うのを忌み、すなわち災いとなる。故に曰く羊刃多きは妻宮を損なうことありという。
 歌に曰く、
 甲乙を見るのは必ず妻を妨げる。敗財は父を剋すのは定めて疑いなし。
 金不換にいう、
 身旺で比劫が重いのは、財を損ないまた妻を傷つける。比劫が偏印に逢うのは、妻が出産の場合は危ない。
 六親論にいう、
 月中帰禄で財官がないのは、父を他郷で喪う。またいう、日が刃に逢い、時が劫に逢うのは、妻妾の産を亡くす。またいう、日時背馬で財を分け救助がないのは、妻子離散する。撮要にいう、比肩は七殺の制に逢うのを要する。
 建禄格、喜忌篇にいう、
 月令が建禄にあうといっても、切に殺にあって凶となるのを忌む。
 旧注には、以って殺にあうとは、暗会七殺が凶兆となるということで、もし甲日が酉月を用神とするなら、官星は正気で、もし年時が子辰であれば、すなわち会である申の庚金が起きて七殺となり、すなわち甲の寇賊となるとし、凶となす故はもとより正しい、とある。しかし官禄の禄であって、令の字、雖逢の字、建の字は牽強であり、いわんや子辰暗会、申と殺が合するというのは、最も牽強で従うべきではない。(という人がある)
 ある人曰く、殺に会うとは、七殺に会見するということで、年時天干に顕れることである。地支に隠蔵しているのは制伏できるわけではない。また旧注にあるのも、また令の字と雖逢の字と建の字はあまり妥当でなく、従うべきではない。故にある人は、また月令建禄格とするが、これはまことに正しいというが、ただ注解がない。
 私、補して曰く、建禄とは、月令十干禄であって、官禄の禄ではない。例えば甲乙の禄は寅卯にあって、丙戊の禄は巳、丁己の禄は午、庚の禄は申、辛の禄は酉、壬の禄は亥、癸の禄は子というのがこれである。殺に会うとは、天干にすでに殺がある場合で、地支に会や合があって殺が旺じているのをいうのである。もし甲の禄が寅にあれば、庚殺を忌むし、乙に卯があれば辛殺を忌み、さらに殺が旺じて制伏がないのを忌むというのが正しい。およそ月令建禄は、禄が旺に随い行くのが禄となるので、強すぎるのはよくない。財官を見て喜び、さらに天干に透干すれば、故に建禄生提月といい、財官が透干するのを喜び、身が再び強くなるのはよくない。ただ財源が多いのを喜ぶ。また曰く、月令建禄とは、多くは先祖からの家がない。ひとたび官財をみれば自然に福をなす。最も忌むは天干に七殺があることで、反って福を傷つける。並びに支中に七殺があって強すぎ制伏がないのは、禄が衰弱して、反って凶禍となる。
 故に曰く、乙木が卯にいて、庚辛が干上にあえば、火が旺じれば発福し、殺の行運で寿命を終わる。
 また曰く、春木で金がないのは奇とはいえず、金多ければ最も恐れかえって危うきに遭う。命式中に中和の気を得れば、福寿康寧百事によろしい。
 また曰く、月令建禄は、殺に会って凶となるというのは、またさらに「雖逢切忌」という言葉を加えるのはどうしてだろうか。けだし建禄はすなわち身旺で、比肩の助けがあれば、殺を恐れなくともよいだろうか。しかして殺は猛虎のごとく、制伏があって貴となり、もし制なく殺が旺じれば、身の強弱を問わず、必ず凶である。いわんや建禄格は、ただ財官を喜び、最も干に殺を帯び支に会って旺ずるのを最も喜ばない。故に曰く、月令建禄に逢うといえども、切に殺に会い凶となすを恐れると。すなわち雖逢の字や切忌の字はやはりあるべきであり、令の字建の字もこれで明確で牽強とはいえない。よって私はこの説を取り、またこの解釈をする。これで前の二説は論破された。
 また観洞玄経にいう、甲は寅を禄とし、庚壬はもとよりそこにはない。
 また曰く、禄は強くなるのがよいが時には無用となるであろうか。すなわち雖逢切忌の字は、その強さを斟酌すればますます明らかである。
 この一連の部分は問答的であり、どれが張楠の発言かを明らかにしなければなりませんが、まずはそのまま訳しています。
 以下は命式例となるので省略。



訳者のあとがき

 陽刃格はこれで終わりです。読むとわかると思いますが、羊刃とは必ずしも悪殺ではありません。また建禄だから必ずしもよいというわけではありません。
 この項で一応、官殺、財、食傷、印綬、陽刃建禄の基本の5格の抄訳が終わりました。これに解説を加えないと、ざっと訳しただけで意味が判然としないところがあるのでわかりにくい(というかわからない)と思います。解説作業はおいおい加えていくことにします。
 これからが雑格で、虚実入り混じり、興味深い論が続々と出てきます。


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