街並サーベイ・メモ12 街並み要素2. 街路形態 2006.4.30
街並みを形成する骨格としての街路を取り上げる。機能的には、メインストリート、ショッピングモール、裏道、横丁、時には街道、参道、緑道というものがあるが、とりあえずそれを問わずに地域の中心地にどのような形態(巾、長さ)の街路があるかでまちの特徴を判断してみる。
@ 江戸・明治時代に都市として発生したもの。都市計画やまちの事業として道路や用途、ルールを決め、ほぼそれに沿ってつくられている景観。日本で残っているまちは多くはない。
● 銀座:江戸時代の区画割に拡幅・区画整理が行われたもの。中心商業地として常に建替、修景整備が続けられている。江戸から続く下町はこのタイプ。
● 旧川越:上記の道路割で特に昭和初期に現在残る家並みが出来た。近年保存運動により失いかけた伝統の家並が復活。
A 東京の普通のまち:都市になる前は、農村であったが耕地整理で街路が出来、僅かな街路整備のみで、十分な道路がなく現代都市理論ではインフラの未整備なまち。
● 自由が丘:昭和初期の耕地整理は関東大震災や東急大井町線・東横線の鉄道敷設に伴ない住宅地に必要な2間、3間、稀に4間道路を配置し、その後戦後の区画整理もなく、都市計画道路も棚上げにしてきた街路構成で下の新旧街路比較図で見ても、道路網は驚くほど何も変わっていない。
● 耕地整理といっても恐らく農道ではなく住宅地を想定して幅員等を決めたであろう。中心商業地で現在にような来街客と車は想定していないし、中心が容積率600%というまちを想定した道路網ではない。
●ここがなぜ東京南西部の広域商店街としての位置をしめているかは、よく語られる他の"なっとく"要因を並べても、不思議であるといえる。
● しかも調べてみると、旧東京市西部の街路は殆ど昭和初期の耕地整理のままで、僅かな区画整理や都市計画道路の整備以外は、町の骨格は7,80年前の前でも後でもない時期に出来ていることが分かる。(昭和7年の東京市地図と現在を比較)
Bこの他に昭和初期に農村で戦後区画整理等で出来た街、面開発で新しく若しくは一新してつくられた街があるが、後述の対象。
B 現在の東京の街並みの混乱(都知事発言)の一因は、ほぼ旧来の都市より貧弱な道路や空地のインフラのまま、欧米型都市高度利用や物流を受け入れたことにある。これを解消する手法の発見は、不可欠であるし、そんなに遠くないものと考える。
自由が丘1935年(昭和10年-黒い線)と現在(2006年白抜き)の街路の重ね合わせ。現在の道路が太いのは戦後の記録がないので拡幅かどうか不明。殆ど変化がない。
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