毛沢山語録 2006

          品物が世にあふれる時代。ものがありすぎて、しかもなくても良いものばかりでモータクサン。
                        そこで革命を期待しての毛沢山語録である。


 「バカとハサミは使いようというが、使いようを考えないのが最高のバカである」
近頃のデジカメなんか、どれもちゃんとしたレベルの商品になって、その違いなど、ちょっとした使いようでどうにでもなる。それをああでもないコウでもないとご託宣を並べてえらそうにしている奴が多すぎる。何もデジカメの限った事ではないが、モータクサン。


 「品質や画質は、それがどんなに良くても本質に比べて2流の質に過ぎない」
 画質や品質に血道を上げていると、本質を見ることが出来ない2流の人間になるわけだ。近ごろ そういうのがやたらと増えているけれどモータクサンだ。


 「いいものを作るのがプロではない。仕事に間に合わせるのがプロだ」
 こんなアタリマエのことが分からないやつを素人という


 「デジタルはどんなに良い製品を作っても所詮次までのつなぎ商品にすぎない」
しかしメーカーとしてはつなぎがなければ次がない。商品の価値はこの点を考えて買わないといけないのだが、買う方はたかがつなぎに過ぎないことをなかなか理解しようとしない。


 「革新の反対語は高品質である
もちろん国語の試験にそんなことを書いたら不合格。だが、革新が出来なくなった企業が市場で競争するためには高品質を売り物にするしかない。反対に革新の製品は出来たばかりだから、当然完成度は低く、品質も保証の限りではない。すると市場は品質が悪いと革新製品を無視し非難し圧殺する。つまり、高品質は革新の反対語である。革新のかけらもない高品質、ソニーのクオリアとかトヨタのレクサスとか。まるで売れなくてバカみたい。ざまーミロ、と貧乏人は思う。しかし、トヨタがレクサスにハイブリッドを搭載するという起死回生策に出た。これは革新である。高品質から革新が出たのはオメデトウ。ああいう高級車に乗る人が燃費を気にするわけではないにもかかわらずハイブリッドを高級イメージに結びつけるという発想が革新なのだ。だがほんの一握りの人しか買えない高級車にハイブリッドを乗せても地球環境保全に効果があるとは思えない。ハイブリッドは中国が国民車(人民車というだろうが)を作り出したときにこそ一番必要なのだ。レクサスにハイブリッドヲ乗せるのがそのための布石だとはとうてい思えない。クオリアもレクサスもやめるべきだ。そのほうがかえってソニーやトヨタのブランドが上がるのではないか。彼らは認識しているのだろうか。ソニーとかトヨタはそれだけで既に世界最高のブランドであることを。大物が自信を持たずにうろちょろするのは見苦しい。


 「高くてもいいものを作れば売れるからというのは、モノ作りではなく錬金術である」
もしも黄金が作れれば、それこそが一番高くてよい物だ。元来、モノ作りとは安いものを作ってたくさんの人に満足してもらうことである。


 「過剰品質と言うコトバが日本語からなくなった。製品の全てが過剰品質になったからである」
機能や性能の差で競争できなくなったメーカーは品質を売り物にして勝とうとする。本来、品質には際限がないから当然過剰になる。基本にあるのは人間の際限なき欲望だ。過剰品質と言うといかにも無駄なことをしているように思われるから、メーカーはこの言葉を使わなくなった。それにつれて世間でも使わなくなった。人間の限りない欲望が地球を破壊しようとしていることは知っているよね。


 「最高の品質とは、最小の資源とエネルギーで作りあげられるモノである」
もちろん現実は全く逆だ。


 「便利さを迷惑に利用するよりは、迷惑を便利に利用するほうが良い」
メイワクメールの迷惑度がメールの便利さを超えてしまえば、Eメールという通信手段は成り立たなくなる。郵政民営化したら、その会社が猛烈にメイワクメールを発信して、みんなが郵便に戻るようにしたら良いのだ。今のメイワクメールの跳梁跋扈ぶりを見ているとそれは決して反社会的行為ではないように思える。


 「あらゆる工業製品は、見てくれという品質のために消費される資源とエネルギーを規制されるべきだ」
二酸化炭素の排出量規制は悪くはないが、工業生産の足かせになるということで最大排出国のアメリカが参加しない。しかし、こういう規制ならアメリカも参加するだろう。見てくれ向上のために消費される資源エネルギーの量の最悪国は間違いなく日本なのだから。


 「通信の発達は詐欺の温床を作る」
詐欺=うまい話=会話=通話=通信。便利な通信は際限なく詐欺を生み出すのだ。 したって、ユビキタス社会とはいつでもどこでも詐欺にかかれる社会のことである。ユビキタス=指 来たす。指を一本 曲げてみせるのはスリの印しだっけ。


「デジタルの辞書に簡素という言葉はない」
「シンプル・イズ・ベスト」ももはや死語に近いが、それどころではない。日本文化の本質に関わる簡素という言葉はデジタル世界で完全な死語になった。


諸君は、ココロが軽くなるような水中写真を撮っているか?」
機材の重さと写真の重さは比例するらしい。そんな水中写真はもう沢山あるから、何もいまさらマネすることはないだろうに。


「見かけのすばらしいものを作るのに専念した文明は滅亡する」
歴史上の遺跡,や発掘品を見ればその証拠は枚挙に暇がない。これは権力は腐敗するのと関連している。北朝鮮の生産物で見かけがすばらしいものが一つもないあいだは政権は安泰なのだ。


「商品の品質を良くして何が良くなるかといえば、品質が良くなるだけである」
品質修正主義はランニングマシンだ。懸命に走っていても少しも前進しない。


「Eメールに返事を出すかどうかは受取った側の主権に属する事柄である」
Eメールは、相手がその場にいないことを前提にした偏利片側交互通行通信手段である。相手がいることがわかっているなら電話をかけるほうが手っ取り早いではないか。


「新しい商品が世界を良くすることは有り得るが,商品の品質を上げたからといって世界が良くなることはない」品質競争は必然的に過剰品質を生み出す.過剰品質は資源とエネルギーと努力を消費して地球に良くないこと明白だ。いい道具にこだわっているくせにエコダイバー風発言をするのは偽者だと思っていい。


「日本の商品ユーザーは、その限りない品質追求に続いて日本経済の没落が始まったことを思い知るべきだ」
単なる偶然だと思ってはいけない。
その因果関係を証明しろといってもここではムリ。ムリを要求する人間がやたら増えてきたこととは因果関係がある。バブルのせいだというかね?過剰品質のことをバブル品質と呼び変えると事態が少し理解できるだろうよ。


「多すぎる便利がもたらす不便は少しの不便よりもはるかに不便である」
言い方を変えよう。世の中はちょっと不便がちょうど良い。良いは善いと書けばもっとよい。便利なモノを考える人はそのことの便利さだけ考えて、世界や人生全体の善を考えちゃいない。考えられるわけもない。多すぎる便利はモータクサン。ちょっと便利がいくら集まっても大きな便利になることはないのだよ。


「何が必要かを知っているのは 智者である。だが、何が要らないかを知っているのは賢者である」
どっちがエライかは説明を要しないだろう。分からない人は愚者である。あれも要る、これも欲しいと水中で全操作ボタンが使えることを誇るデジカメハウジング、そのメーカーはどうなんだ?


「メーカーとは大量生産品しか作れない製造業者のことである」
村の鍛冶屋はメーカーではない。角のパン屋も横町のケーキ屋も自分で作ってはいてもメーカーとはいわない。DIVもメーカーではない。大量生産品は極めて均一な品質でなければならない。村の鍛冶屋の作る物は決して均一ではない。中には失敗作もある。しかし全体としてメーカーにはできないモノを作っている。南部鉄瓶ソニーに作れるか!!作れるとすれば南部鉄瓶が世界的大ブームになってアメリカの各家庭に火鉢が置かれるようになってのことだ。


シンプルこそ最高のテクノロジーである」
シンプル イズ ベスト という言葉はもう死語になった。時流に合わせて生き返らすのがこの言葉である。一歩を進めてシンプルテクノロジーという学術研究分野を創ったらどうだ。このデジタル時代には、製品に色んな機能をテンコ盛りにするくらいバカでも出来る。モータクサンだ。アタマの良い者はンプル工学を考えるべきである。


「情報革命は革命でも何でもない。パソコンを売り過ぎただけのことである」
革命は思想から始まるものであって情報から始まるわけではない。


「必要は発明の母だが、必要ない発明は必要の母である。その必要からさらに必要ない発明が生まれ、きりがなくなることを進歩という。
近頃、あれば便利という発明が多くて、それが次々と追加の機能を必要にしている。カメラで言えばAFなんか、画面の中央だけでは不満だというので、3点フォーカスとか5点フォーカス45点とか・・・こんなのは100点になったって満点ではない。それぞれの測距点をえらぶのに視線入力だとか十字ボタンとか次々と追加機能の必要がでてくる。視線入力は個人の眼にあわせた設定が必要だし十字ボタンは押しやすい位置にあるからうっかり押さないようにロック機構が必要でロックを解除しないと使えなくて、ロックボタンは押しにくい位置にあってと・・・・あれば便利は結局不便だからモータクサン。ちょっと不便がちょうど良い



「写真は真を写すものだと思っているのは日本人だけである」
英語ならphotographで、光で描いた絵というくらいの意味でしかないし、中国語でカメラは照相機、写真は照片。いずれにしてもナドという重く哲学的言葉は含まれていない。写真というのは文明開化時代の超生真面目日本人が生んだ誤訳ではないか。なる文字を入れたためにフォトグラフィに信仰みたいなものが生まれてしまった。さすが日本は神の国、言霊の国。でも写真まで信仰するのはモータクサン。照片の片にいたっては紙片の片と同じ紙ッぺらのぺらで、軽い軽い。誰でも簡単に絵が撮れて楽しめて、人生をほんのちょっぴり豊かにしてくれるものという意味で写真という言葉を作り直そう。音楽に並んで写楽がいいんじゃない?


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